クリスマス礼拝『 羊飼いたちのクリスマス ~大きな喜びの知らせ~ 』2020年12月20日  新約聖書:ルカの福音書2章8~20節  

クリスマス礼拝 『 羊飼いたちのクリスマス ~大きな喜びの知らせ~ 』         2020年12月20日

新約聖書:ルカの福音書2章8~20節

序.クリスマスおめでとうございます!2020年、新型コロナによって全世界が、不安と恐れの闇の中にいる。だからこそ、すべての人に、クリスマスが備えられている。世界で最初のクリスマスは、御使いによって「大きな喜びの知らせ」として、羊飼いたちに告げられた。この大きな喜びのクリスマスの御言葉は、現代の私たちにも告げられている。

1.  なぜ、羊飼いたちが、「選ばれた」 のか?  (ルカ2:8)

 

8節「さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。」 羊の世話で安息日に礼拝にも行けない。だから、当時の社会で、羊飼いは、差別され、蔑まれていた庶民であった。主は、彼らを選び、救い主の誕生を告げて下さった。もう一つのポイントは、野宿しながら羊の群れの番をしていたこと。人々が寝静まっている夜中に、一生懸命働いていた。そうしなければ食べてはいけない、経済的にも、苦しい境遇にあった。

現代においても、主は、日々悪戦苦闘しながら必死に働いている人々を選んで、救い主の誕生をお告げになられる。

2.  なぜ、羊飼いは、「恐れた」 のか?    (ルカ2:9~11)

9 節「すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」

天使が突然現れた。羊飼いたちは、宗教家でもない、世俗的な人々なので、非常に恐れた。聖い真の神の御前に立つことは、罪ある人間にとっては恐れ多いこと。しかし、主が「恐れるな」と呼びかけて下さることによって、神との交わり、関係が始まる。羊飼いたちは、神との出会いを求めていた訳ではない。特に信仰が深かった訳でもない。忙しく仕事に追われて、神を求めることもなく過ごしていた。そのような私たちも、ある日突然、主に選ばれて、呼びかけられる。10‐11節「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」と告げられる。

3.  なぜ、羊飼いは、「喜び」 に満ち溢れたのか?

 

旧約聖書で何千年と約束されていた神の救いが、救い主の誕生によって実現した。あなたがたのためにキリストがお生まれになられた。だから大きな喜びなのである。しかし、それだけでは本当の喜びにはならない。これが「大きな喜び」となるための鍵は、「あなたがたのために」という御言葉である。あなたのために、救い主はご降誕された。

羊飼いたちは、すぐに「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けよう」と行動し、マリアとヨセフと飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。羊飼いたちは、イエス様を見た時に、今までの厳しく辛かった人生が、喜びの人生に変えられた。イエス様を見て、自分たちのための救い主であることを確かめ、「神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」 私たちも、救い主に礼拝を献げ、主を賛美しよう。

 

  • 結論: 「クリスマスの大きな喜びはあなたにも」 (ルカ2:17~20)

私たちにも、羊飼いたちと同じことが起こる。まず、主の呼びかけを聴き、救い主イエス様に出会う時、それが本当に私たちの喜びとなる。 ある人は、ある日突然、また別の人は、時間をかけて、救い主と出会う。それが起るのが、礼拝である。 救い主イエス様に出会った羊飼いたちは、2つの事をしたことが記録されている。

❶ 世界最初の伝道  (ルカ2:17)

羊飼いたちは、喜びに満たされて、自然と御子イエス様の誕生の喜びの福音を人々に知らせた。

❷ 主を賛美し、主に感謝を献げた  (ルカ2:20)

羊飼いたちは、神との平和が与えられ、人との平和も与えられ、主への賛美と感謝をささげる人生に変えられた。

私たちも、クリスマスの救い主に、賛美と感謝をささげよう!                      主よ感謝します。

『恐れてはならない ~クリスマスの預言~』 旧約聖書:イザヤ書7章1〜14節 2020年12月13日

アドベント第3週『 恐れてはならない ~クリスマスの預言~ 』

旧約聖書:イザヤ書7章1〜14節

序.今、全世界を新型コロナ感染症の不安と恐怖が覆っている。有名なクリスマスのインマヌエルの預言は、イスラエルの国が戦争の不安と恐れの中で語られた。恐れる私たちも、主は御言葉で呼びかけておられる。

 

1.  絶対絶命の 「 危機  」 (イザヤ書7章1〜2節)

 

今から2700年前、イスラエルは、主への不信仰により国は、北王国イスラエルと南王国ユダに分裂した。イエス様のご降誕の約700年前である。南王国ユダの第12代のアハズ王は、わずか20歳で王となる。

王子として生まれ期待された彼の心は、表面的な栄華とは裏腹に弱小国家ゆえの不安と恐れの連続であった。

当時、世界最大のアッシリヤ帝国が世界征服を狙ってイスラエルへと勢力を伸ばして来た。アッシリヤの攻撃に対抗するため、アラムの王レツィンと北イスラエルの王ペカは反アッシリヤ同盟を作る。彼らは、アッシリヤに対抗するために南王国ユダにも同盟に入るように誘ったが、偶像崇拝と不信仰のアハズは、信仰に立てず、神の視点で世界を見ることもなく、アッシリヤに頼った。逆上した北イスラエルとアラムの連合軍が、反対に南王国ユダのアハズを滅ぼそうと攻めて来た。結果、王の心も民の心も恐れパニックに陥った。

 

2.  クリスマスの希望の 「  預言 」 (イザヤ書7章7〜9・14節)

 

預言者イザヤは、パニックとなり、恐れおののくアハズ王に主のみことばを語る。

イザヤの希望のメッセージは、7節の「神である主」とは「諸王の上に立つ真の王、主」という意味で、歴史の主権者である神は、世界の国々の王の中の王である。人の思い通りにはならない。アラムは3年後、北イスラエルは13年後にアッシリヤに滅ぼされる。そしてアッシリヤ帝国もバビロン帝国により、やがて滅びる。「あなたを創造された主は、あなたの全てに責任を負って下さるのだから安心しなさい。」

 

  • 結 論: 「恐れるな、主はあなたと共にいる」 (イザヤ書7章4・13~14節)

 

(1) 静まって、主を信頼しなさい (イザヤ7:4)

第3版では、「静かにしていなさい。恐れてはなりません。」私たちは、突然の出来事に、「まず、静まること」それは「やめよ」「力を捨てよ」「立ち止まって」とか、「武器を捨てる」、「肩の力を抜いて」「握っているものを手放す事」などの意味がある。主の前に、静まり、主を待ち望もう!

 

(2) 主はあなたと共にいます。  (イザヤ7:13〜14)

イスラエルの民は、偶像崇拝に走り、不信仰で、不従順な民であった。そのような不信仰の民に、クリスマスの希望の預言が与えられた。主の約束のしるしは、処女が身ごもり、インマヌエルという名の男の子が生まれる。クリスマスに、「インマヌエル(主はあなたと共にいる)」ことが、私たちに実現した。

私たちは、突然の出来事や病、人の批判や評価の声に恐れを感じる。あなたの不安や恐れは何だろうか?

(マルコ1:10~11)例話:「熊本ハーベストチャーチの中村師の証」。「危機」は「危険」の危(デンジャラス)であり、同時に、「機会」の機(チャンス)にもなる。『主にあって、ピンチは、チャンスになります。』

❶「まだクリスチャンでない人は...」

あなたの心と人生に主イエス様をお迎えし、「インマヌエル」の生活を始める決断をしよう!

❷「クリスチャンの人は...」 毎日の生活で御言葉を聴き「インマヌエルの主」を体験しよう!

朝デボーションで、登校や出勤の前に、車を運転する前に、仕事の前に、勉強や家事や育児の前に、祈ってから始めよう。 あなたも主の愛の心に触れて生活を始めよう!          主よ感謝します。

『苦難には終わりがある ~王の夢を解き明かすヨセフ~』2020年12月6日 旧約聖書:創世記41章1~16節  

『 苦難には終わりがある ~王の夢を解き明かすヨセフ~ 』

旧約聖書: 創世記41章1~16

 

1.  王の見た夢 「牛と麦の穂」   (創世記41:1~7)

 

この章は、ヨセフの生涯のクライマックスである。 献酌官長がヨセフのことを忘れてから2年の年月が過ぎ去った。しかし、主は、やがてヨセフを用いるために着々と準備しておられた。ある日、エジプトの王ファラオは、夢を見た。

❶ 第1の夢は、「肉付きの良い7頭の雌牛とやせ細った7頭の雌牛の夢」 ナイル川から肉付きの良い雌牛が7頭、上って来た。次に、やせ細った醜い7頭の雌牛が川から上って来て、良く肥えた7頭の雌牛を食い尽くした。

❷ 第2の夢は、「肥えた7つの穂としなびた7つの穂の夢」 一本の茎に、良く実った7つの穂が出た。すると今度は、焼けたしなびた7つの穂が出て、肥えた7つの穂を呑み込んでしまった。

 

2.  王の夢を解き明かす 「ヨセフ」  (創世記41:8~16)

 

古代エジプトには、夢を解き明かす呪法師や魔術師が沢山いた。すべての呪法師と知恵のある者が呼び寄せられた。しかし、ファラオの夢の解き明かしができる者は、1人もいなかった。 その時、献酌官長は、2年前に監獄で、夢を解き明かしたヨセフのことを思い出した。こうして、いよいよヨセフが世界のひのき舞台に登場する。ヨセフは、世界の大帝国エジプトのファラオの前に立った。ヨセフは、「夢を解き明かすのは、私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです」と宣言した。 どこまでも、謙遜な主のしもべである。

ヨセフの解き明かしによると、2つの夢は、1つのこと。エジプトにまず7年間の豊作がある。その後、7年間の飢饉が起こる。夢が2度繰り返されたのは、確実に起こることを主がファラオに示されたのである。

 

3.  王の夢へのヨセフの 「提案」  (創世記41:33~43)

 

ヨセフは、夢の解き明かしに基づいて、具体的な解決策を提案する。 ヨセフは、霊的な人であると同時に実際的で有能な管理者、優れたリーダーシップの人であった。ヨセフの提案は2つ。第1は「さとく知恵のある人」を見つける。危機に際して適切な判断と方策を立て、実行するリーダーに全権を委ねなさいという提案である。

第2は、さとく知恵ある人の下に、監督官たちを任命し、豊作の7年間に、食料を集めさせ、保管することである。

ファラオは、ヨセフの夢の解き明かしと提案を聞いて納得した。そしてヨセフにエジプト全土を支配するように命じ、その権威の印として指輪と支配者に相応しい着物を与え、ファラオに次ぐ、総理大臣に任命した。

ヨセフが、総理大臣になったのは、30歳。17歳で、エジプトに奴隷として売られてから13年後のことである。

彼は聖霊様によって砕かれ、忍耐し、主を信頼し、謙遜な人とされ、人の悩みや苦しみに同情できる人になっていた。

(ローマ8:28)主にあって、すべての経験は、益に変えられ私たちがキリストの似姿へと成長するために用いられる。

 

  • 結論: 「 あなたの苦難には、終わりがある 」

 

(詩篇74篇16節)「昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの。あなたは月と太陽とを備えられました。」

ヨセフは、監獄の囚人から、総理大臣に抜擢された。主は、13年間のヨセフの悩みと苦しみの黒雲を一瞬で取り払い、栄光の光で輝かせた。「神の時が満ちて」 主イエス様が30歳で公生涯をスタートしたように、ヨセフも、30歳で人生の晴れ舞台へと導かれた。ヨセフの生涯は、「苦難には終わる時がある」と力強く証している。「神を信じる者の暗さは、トンネルの暗さだ。トンネルの暗さには、終わりがあり、この暗さは、やがて輝く栄光へと通じる暗さなのだ。なぜなら、神を信じる者にとって、暗黒が光への道筋であるからだ。」とある人が証した。(ローマ8:18)

主は、あなたの暗さと苦しみに同情し、光へと導き出す。人に望みを置くのではなく、主に望みを置いて歩もう!主よ感謝します。

 

  『 神を認めよ  ~執事選出総会によせて~ 』2020年11月29日  聖書:創世記41章1節  片柳福音自由教会         

  • 1. 神を認めないこの世

この世は、神を認めようとはしません。

世界の国々の流れの中にも、そして個人の生活の営みの中にも、神の入り込む余地を与えません。日本人は、「運命」と「偶然」が織りなす人生が、そこに存在するだけです。

この世は、神を見ようとはしません。その見方、それ自体が根本から間違っています。 根本的なところが間違っているので、やがてそのことが、人々を苦しめることになります。

私たちは、聖書の教える真理によって、この世の教えから解放され、自由になる必要があります。

確かに、今、世界はコロナによって苦しみ、悪い時代であると感じられます。あるいは、物事が思い通りにならず、その上、病気や人間関係、仕事、経済と様々な試練もあり、神の臨在を覚えることは難しいと言えるかもしれません。祈って求めたことが一向に実現しそうにない時、私たちの信仰は試されます。

私たちが生きている現実世界が、神の存在を前提とした考え方から、あたかも裏切るかのように見えることがあります。 けれども、神を無視したら、その結果は、どうなるのでしょうか?

この世のすべての現象と歴史の流れから神を除いて考えようと本気で決めたらどうなるでしょうか?

当然、すべてが「運命」と「偶然」の世界に放り出されるのです。

しかし、実際は、そんなことを誰も望んではいないはずです。だから、多くの人は、神を無視しても、どこかで何か不思議な力に依存しようと考えるのです。日本という国ほど、宗教音痴な国はないと言われます、自分は無神論だと主張する人が大勢います。けれども、また一方で、これほどまでに多くの迷信と新興宗教の偶像崇拝の多い国はないと言われます。

  • 例話:『文化庁の日本の宗教人口の統計』(2017年)
  • 神道系は8474万人、仏教系は8770万人、合計1億7244万人。これにキリスト教系等を加えると1億8223万人。日本の人口約1億2600万人をなんと4割も上回るのです。面白い矛盾です。

理性的なことだけでは人間は心を満たされないことを実によく物語っています。聖書が語るよう、人は、神を求めるように作られているのです。

さて、ヨセフの物語は、神は摂理の御手をもって、私たちの全生涯を導いておられることを認めなさいと語ります。あなたと家族の歩みの中に、神を認めましょう。皆さんアーメンですか?

  • 2.  神を認めたヨセフ (創世記41章1節)

41:1 それから二年後、ファラオは夢を見た。見ると、彼はナイル川のほとりに立っていた。

さて、創世記41章1節の冒頭には、「それから2年の後」という書き出しに目を留めて頂きたいと思います。

ヨセフは、兄弟たちによって、エジプトに売られました。そこで、王に仕える侍従長ポテファルという主人に奴隷として買われました。神はヨセフとともにおられたと何度も何度も繰り返します。ところがポテファルの妻の怒りを買い、無実の罪で監獄に入れられました。目に見える状況はますます悪くなっていきます。

不思議なことに、そうなっても聖書は、「主は、ヨセフとともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださった(39:23)と語ります。

ヨセフの監獄に王に仕える献酌官長と料理官長が入ってきました。ヨセフにとってチャンスが来たかのように見えました。彼らの見た夢を解き明かしたヨセフは、自分の無実を訴え、必死になって王のファラオに執り成して、監獄から出れるようにして欲しいとお願いました。ところが献酌官長は、夢の通りに元の地位に復帰すると嬉しさのあまり、ヨセフのことを忘れてしまいました。

それから2年の月日が過ぎ去りました。この監獄での2年はエジプトに奴隷として売られ過ごした10年よりも、もっと長くヨセフに感じたことだろうと思います。

ヨセフは、2日待ち、2週間、2か月待ち、執り成しの期待は、空しく地に落ちて、「もうだめか」肩をがっくりと落とし、目も落とすヨセフです。

けれども、昔も今も、人の力が絶望する時が、神の機会です。

『主にあって、ピンチはチャンスになります。』

ヨセフの忍耐の学校は、卒業式の時を迎えていました。「それから2年後」と聖書は語ります。神の支配がここにあります。何のための2年だったのでしょうか?主が御手の中でヨセフに許されたように、私たちの歩みの中にもあります。必ず主の目的があります。 ヨセフは、主を信頼することと主への謙遜が求められました。

  • 第Ⅰペテロ5:6 ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

私たちは、主への信頼共に、へりくだり、謙遜を学ばねばなりません。ヨセフの忍耐の学校は卒業の時を迎えます。私たちは、自分の力で自分の人生を切り開こうと考えたり、自分で自分の人生の人生設計を考えて、それを貫こうと考えている限り、たとえ立派な計画であっても、主がそれをお許しにならない場合があります。主にとどめられることがあります。多くの人が神に出会うことができない理由もここにあります。

自分の計画通しに事が進まないことも、神の憐れみによるのです。そして私たちを愛してくださる神の慈愛に触れる経験でもあるのです。あなたが神を認め、神の力強い御手の下にへりくだるとき、主は、一番良い時にあなたを高く上げてくださいます。

  • 例話:『英国から草津に来たコーンウォール・リー宣教師(1857-1941年)』

昔、らい病は恐ろしい伝染病と恐れられていました。温泉が良いという事で、全国から草津温泉に集まったハンセン病患者に仕えたのがリー先生です。リー先生はハンセン患者の皆さんから『母様(かあさま)』と慕われた方です。幼い日に宣教師となるビジョンが与えられましたが、イギリスでは、作家として用いられていました。宣教師となる為に待つ訓練を受けて、長く待たされて、へりくだり、謙遜を学びました。

なんと50才で宣教師となり日本に派遣されました。8年間日本各地で伝道し、59才の時に草津に伝道に来て、ハンセン病患者の現状を知り、草津のハンセン病患者1000人のために生涯を捧げました。

リー先生は、いつも笑顔で仕えました。教会には毎週500名のハンセン病患者の方々が礼拝に集うようになりました。20年間、79歳まで奉仕して、自分の全財産はみな献げて、病院や学校も作り、この世から捨てられた病者のために仕えました。84歳で召され、日本の土となりました。その後、その功績を記念して、リー宣教師の記念館が作られ、草津市の名誉市民となっています。

  • 結論:「神を認めよ」
  • (箴言3章5~6節)3:5 心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。3:6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

愛する皆さん、「時満ちて、必ず神の時が来ます」それまで、思い煩いを主にささげ、神の力強い御手の下にへりくだりましょう。謙遜を学びましょう。主イエス様の御言葉に従って、どんな時にも、どこにおいても、主を認めましょう。主はあなたの道を真っすぐにされます。そして主は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。皆さんアーメンですか?お祈りいたしましょう。主よ感謝します。

『 ヨセフの待つ訓練 』2020年11月22日  聖書:創世記40章5~23節 片柳福音自由教会

 

1.   同情するヨセフ   (創世記40:5~8)

ヨセフがいる監獄に、エジプトの王ファラオに仕える献酌官長と調理官長が投獄された。侍従長ポティファルは、ヨセフを二人の世話係に任命した。

ここにも神の摂理がある。ヨセフがこの二人と接することで、やがて監獄から出られるようになる。この二人は、夢を見たが、その意味が分からず、イライラしていた。ヨセフは、「なぜ、今日、お二人は顔色がさえないのですか」と尋ね、同情している。ヨセフは自ら囚人でありながら、他の人の痛みに共感し、同情を注ぐ、心豊かな人に成長していた。

もし、ヨセフが、周囲の人たちの悪巧みに腹を立て、恨んでいたら、自己憐憫に陥って、ニヒルで、冷酷な人間になっていたかも知れない。しかし、ヨセフは、へブル語で「へセド」(神の誠実な愛)を知り、主を喜ぶことに満たされていた。ヨセフの生涯の特徴は、「夢と解き明かし」である。

ヨセフは与えられた賜物を十分に発揮し、主に用いられた。あなたの聖霊様の賜物は何だろうか?主からの賜物を発見し活用しよう。その人の生涯は、主の御前に美しく輝く。聖霊様の賜物について、ローマ12章と第1コリント12章を読み主に求めよう。

 

2.   夢を解くヨセフ  (創世記40:9~19)

❶ 献酌官長の夢を解き明かす (40:9~13)

その夢は、一本のぶどうの木があり、その木には三本のつるがあった。芽を出し、花が咲き、ぶどうになり、杯にぶどうをしぼり、それを王ファラオに差し出した。ヨセフの解き明かしは、三日目に献酌官長が監獄から出され、再び前の地位を回復すると告げた。この夢の中には、さらに深い教訓がある。

人生の真の成功と幸福である。ぶどうの木はイエス様で、私たちは枝として、つらなり、実を結び、人に証して、幸福な生活を送ることができる。(ヨハネ15:5~8)

❷ 料理管長の夢を解き明かす

料理官長の夢は、頭の上にかごが三つあり、一番上のかごにパロの様々な食べ物が入っていた。ところが空の鳥が食べてしまった。ヨセフの解き明かしは、三日目に死刑に処せられる。これが本当の預言者である。人に媚びることをせず、神を恐れ、ただ主の告げられたことを、そのまま伝える。料理官長は、職務に不忠実な者であった。

この夢は、私たちに警告している。主のために用いるべき時間、財産、才能、主の賜物を自分のためにだけ使い、主のために用いないならば、それは無益な生涯になってしまう。(ヘブル書9:14)

ヨセフの夢の解き明かしの通りに、3日後の王の誕生日の祝宴で、献酌官長は、元の役職に復帰し、料理官長は、処刑された。

 

3.   忘れられたヨセフの願い (創世記40:14~15・23)

誰一人頼れる人がいないヨセフは、献酌官長に、自分は、濡れ衣を着せられて、投獄されたので、ファラオに執り成して、監獄から出れるようにして欲しいと頼む。しかし、彼はヨセフの事を忘れてしまう。人は頼りにはならない。

ヨセフは、主にのみ信頼することを学ぶために、さらに2年監獄に留められた。

 

  • 結論: 「 あなたは、神の時を待ち望みなさい 」

(ヘブル書10:36)「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。」

例話:『ネルソン・マンデラ』彼は、クリスチャンの家庭に生まれ、34歳で弁護士となる。南アフリカの人種隔離政策「アパルトヘイト」への闘争で、45歳の時、国家反逆罪で終身刑となる。1990年釈放される。72歳まで27年間という刑務所での時間を、主は、マンデラを国の指導者として相応しい人間となるように成長の機会として用いられた。彼は大統領となり、民族の和解と平等な国を再建した。ノーベル平和賞を授賞し、95歳で召された。私たちも、主からの賜物を見出して、家庭や学校、仕事、教会で用いて仕えよう。約束のものを得るために、忍耐し、神の時を待ち望もう。

主よ感謝します。

『 神のなさることは、すべて時にかなって美しい 』 2020年11月15日 旧約聖書:創世記39章20節~40章7節 片柳教会 

1.  最悪の中にも届く、主の「 恵み」 (創世記39:20~23)

ヨセフは、兄たちに売られて、エジプト王の侍従長のポティファルの奴隷となった。ポティファルに信頼されて、家の管理のすべてを任された。ところが、主人の妻の誘惑を拒絶して、濡れ衣を着せられたヨセフは、監獄に突き落とされ、人生最悪を経験する。しかし、苦しみの場所に、主は共にいてくださった。

主の恵みが届かない最悪や最低は存在しない。21節の「恵み」は,(ヘセド)ヘブル語で 「誠実な愛」である。旧約で245回使われている。へセドは、神の愛を現わす重要な言葉で、私たちを決して見棄てない、真実な愛である。その結果、監獄の長の心にかなう者となり、ヨセフは監獄の管理者に任命され、主が成功させてくださった。あなたにも注がれている主の恵みを数えよう。

2.  最悪の中での、主の 「最善」 (創世記40:1~4)

王の監獄に新入りが来た。献酌官長と料理官長の二人は、エジプト王の側近で政府の高官であった。この二人は、王の怒りを買い、投獄された。侍従長ポティファルは、ヨセフを二人の世話係に任命した。こうして、ヨセフは、王のもとから投獄された献酌管長と、出会うべくして出会った。

ヨセフの目には、自分は見放されて、人生最悪の結末に見えたことだろう。 けれども、どん底の監獄から、主の導きの糸が進展しつつあった。神のご計画は、献酌官を送り、ヨセフと出会い、やがて直接、エジプトの王ファラオとの対面という人生の決定的な場面へと発展することになる。

このように主の導きは、私たちの目にはしばしば隠されている。最悪と思える中にも、主の最善の備えがある。

あなたが、人生のどん底、最悪と思える時も、いや、いついかなる時も、主の最善は備えられている。

3.  最悪の中で、誠実に  「 歩む 」 (創世記40:5~7)

ヨセフは、諦めず、くさらず、自分の為すべきことを誠実に行った。かつてはKYで、周りの人々の思いを全く読めなかったヨセフが、7節「なぜ、今日、お二人は顔色がさえないのですか」と気遣っている。ヨセフは、自分の問題から目を離し、他者を思いやる心を持ち、人の痛みに共感し、励ます人となった。

彼は、囚人の身であっても心は自由人であった。 ヘセドの誠実な愛を受け、ヨセフは誠実に神と人に仕えた。

パウロは、世界宣教で迫害を受け投獄された。パウロは獄中でも誠実に神と人に仕え、手紙を書き送った。エペソ書・ピリピ書・コロサイ書・ピレモンへの手紙・テモテへの手紙第1第2・テトスへの手紙、この7つは新約聖書の「獄中書簡」と呼ばれ、パウロの伝道で得た成果以上に、2000年に渡り、全世界で用いられている。今も私たちの信仰を養い、たくさんの人々を救いに導いている。無駄と思えた獄中でこそ、人生最高の主への奉仕を成し遂げた。

(箴言28:10)「 誠実な人たちは幸せを受け継ぐ。」

私たちも、今遣わされている家庭や学校、職場で、無駄と思える、空しく思える所でも、誠実に歩もう!

  • 結論:  『 神のなさることは、すべて時にかなって美しい 』  (伝道者の書3章1~3・11)

例話:「米国次期大統領ジョー・バイデン氏は、「信仰は暗闇の中でこそ輝く」とキルケゴールの有名な1節を引用し証している。大統領選挙の勝利演説では、伝道者の書を引用し「なにごとにも時がある。建てる時、植える時、癒やす時。アメリカは今、癒やす時」と語った。聖書は「すべての営みには神の時がある」と語る。人の時と神の時は異なる。

新約聖書のギリシャ語で時間を現す2つの言葉がある。「χρόνος」(クロノス)「物理的な時間」と「καιρός」(カイロス)「神の定められた時」である。「カイロス」は、あなたと家族にも「神の時」があるということである。だから「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」のである。神の時を、あなたも忍耐して待ち望み、誠実に神と人に仕えよう。

  • 適用:
  • ❶ 自分の計画を主に委ね、神の時を待つ。
  •  ❷ 自分の問題に集中するのではなく、隣人に関心を示す。
  • ❸ 試練の中でこそ、神と生きた交わりを築き、主から与えられた夢を捨てない。
  •  主よ感謝します。

 

 

『 ヨセフの誘惑の訓練 ~主が共におられる~』2020年11月8日 聖書:創世記39章5~23節  片柳福音自由教会 

1.  誘惑は、必ずやってくる  (創世記39章5~6節)

ヤコブの11番目の息子ヨセフは、父に溺愛されて、兄たちに憎まれて、エジプトに奴隷と売られた。王に仕える侍従長ポティファルに買われたヨセフは、信頼され用いられた。ヨセフの働きによってポティファルの家は益々繁栄した。

ヨセフの存在は、主人の妻の目にも留まる。ヨセフは体格も良く、イケメンの青年であったので、主人の妻は、毎日ヨセフを誘惑をした。誘惑は、どんな人にも、必ずやってくる。

 

2.  誘惑は、どのようにやってくる?  (創世記39章5~10節)

❶ 祝福されている時・疲れている時に誘惑はくる (39:5)

すべてが成功している時に誘惑はくる。また反対に、肉体的・精神的・霊的に疲れている時に、誘惑はやってくる。

イエス様が荒野で悪魔の誘惑を受けられたのは、ヨルダン川で洗礼を受け公生涯のスタートの祝福の時であった。

❷ 長所を用いて誘惑はやってくる  (39:6)

6節「ヨセフは体格も良く、顔だちも美しかった。」ために誘惑されたように、私たちも才能や容貌や能力など長所と思われる所を通して誘惑がやってくる。誘惑を受けることは、罪ではない。誘惑に乗ってしまうことが罪となる。

❸ 身近な人を通して誘惑はやってくる (39:7)

ヨセフの受けた誘惑は、身近な人を通してきた。私たちの学校や職場の身近な人を通して誘惑はやってくる。

❹ 誘惑は、何度も繰り返される (39:10)

10節「毎日ヨセフに言い寄った。」毎日誘惑されると人間は、感覚が麻痺してし、誘惑に負けやすくなる。

 

3.  誘惑に打ち勝つ   (創世記39章8~10節)

❶ ヨセフは、いつも主を前に置いた。 (39:9)

9節「どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか。」とヨセフは語っている。

ダビデは詩篇16篇8~9節で、いつも主を目の前に置いたと語っている。

❷ 聖霊様とみことばの武器を持つ

イエス様は、荒野での誘惑の時、聖霊様に導かれ、御言葉によって悪魔の誘惑を退けた。無力な私たちの武器は、御言葉の剣を持つことが大切である。(エペソ人への手紙6:11・17)

❸ ヨセフは、弱さを知っていた (39:11~12)

あなたは自分の弱さを知っているだろうか?ヨセフは知っていた。だから主人の妻が毎日誘惑しても、その言葉を聞き入れなかった。誘惑には、逃げるが勝ちである。ヨセフは、濡れ衣を着せられて、監獄に入れられた。

  • 結論: 「主はあなたと共におられる」  (創世記39:21~23)

私たちには、なぜなのか、今は、わからなくても、必ずや、主が祝福してくださることを体験することができる。

そのためには、いつもあなたの前に主を認め、主と共に歩む時、主は豊かに祝福してくださる。人間は、生まれた環境、置かれた状況が、人生を決定するのではない。あなたの人生を決定するのは、「誰と共にいるか」である。

主と共にさえいるならば、何一つ不幸も、失敗もない。主は、大いなるお方で、摂理の御手をもって、あなたとご家族を導かれておられる。

(イザヤ48:10) 「見よ。わたしはあなたを錬ったが、銀のようにではない。わたしは苦しみの炉であなたを試した。」仕事の悩み、人間関係の悩み、病気の苦しみの炉で、主は私たちを訓練される。

主の御言葉と聖霊様によって、あなたはイエス様の似姿へと変られる。主は、あなたと共におられ、育児や家事、学校、仕事、人間関係を訓練し、祝福してくださる。そして主はあなたを成功させてくださるのだ。   主よ感謝します。

『 13番目の弟子となる ~5つのパンと2匹の魚~ 』 2020年11月1日 新約聖書:マルコの福音書6章30~44節    

序.少年がイエス様に献げた「5つのパンと2匹の魚」で、男だけで5,000人を養った奇跡の物語である。

1.  現実は、問題がいっぱい!  (マルコ6章30~36節)

イエス様は、12弟子を宣教に遣わされた。弟子たちは、御言葉を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出し、主の御業を体験して、喜びに溢れて戻った。食事をする暇もなく、奉仕で疲れている弟子たちとイエス様は、舟に乗り、ガリラヤ湖の向こう岸に休暇に行かれた。

ところが、群衆が、先回りして、イエス様を待っていた。イエス様は、群衆をご覧になり、深くあわれまれた。それは、人々が、羊飼いのいない羊のように、身も心も魂も疲れ果てて、瀕死の状態であったので、休暇を中止し、病人を癒し、みことば教え、人々に仕えられた。

やがて、夕方になり、今度は、食べ物・経済の問題が起こった。いつの時代も問題はいっぱいある。コロナ禍で、人々は、感染の不安と恐れの中にいる。また仕事を失った人や経済の問題を抱えている人が大勢いる。反対に超多忙となった医療者や行政の方々もいる。若者の自殺者が昨年の3倍に増えている。家庭も、学校も、会社も、教会も、問題はいつもある。

 

2.  あなたがたの手であげなさい   (マルコ6章35~38節)

弟子たちは、「イエス様、もう暗くなり、みんな空腹です。解散して、家に帰ってもらいましょう。」と、提案した。

私たちは、目の前の困難な問題にぶつかると、問題に対して心を閉ざすことで自分を守ろうとすることがある。男だけで五千人以上もの人々の空腹に対して、自分たちにできることは何もない、と弟子たちは考えた。すると、イエス様は、37節「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」と語られた。もし全員に食べさせるには、200デナリ(2百万円)の大金が必要であり、弟子たちには、不可能に思えた。

私たちの目の前の現実は、いつも深刻で、問題のみを見ると失望する。しかし、問題があるのは、実は、問題ではない。問題だけを見るのが問題なのである。イエス様は、あなたの目の前にいる人々のために、今、あなたにできることをしなさい。と語られた。ひとりの少年は、お母さんが作った「大麦の5つのパンと焼き魚2匹」のお弁当を主に献げた。(ヨハネ6:8-9)

弟子たちは、これでは何の役にも立たないと思った。しかし、イエス様は、「私の所に持って来なさい」と命じている。世界の問題やコロナの前では、私たちは全く無力に見える。しかし、主を見上げて、あなたの手にあるわずかなものを、イエス様に献げよう。

 

3.   イエス様に不可能はない  (マルコ6章39~44節)

イエス様は、群衆を50人の組、100人の組に分けて、5つのパンと2匹の魚を手に取り。天を仰いで感謝と賛美の祈りをささげ、祝福された。これは聖餐式である。弟子たちは、イエス様からパンと魚を受け取り、人々に配った。聖書は、みんな満腹し、残りを集めると12のかごが一杯なったと記している。男だけで5000人いたとある。

  • 結論: 「 あなたも、13番目の弟子になる 」

このパンと魚の奇跡の物語は、4つの福音書全部に記録されている。それだけ重要な出来事であった。

あなたの問題がどんなに大きく困難でも、主に不可能はない。また、あなたの持てるものが、どんなにわずかなものでも、どんなに小さなものでも、それを主に献げるならば、主は幾倍にも祝福して用いてくださる。この少年は13番目の弟子となり、主に献げた。主は少年の信仰とささげものを豊かに祝福された。今度はあなたが13番目の弟子となることを、主は求めておられる。

●例話『伝道船ロゴス・ホープ号とドゥロス号は、全世界を航海して900万人以上の人々に福音を宣べ伝えた。初めは米国の婦人クラップさんの祈りから始まり、高校生のジョージ・バウワーが救われて、OMという宣教団体が誕生し、1970年2隻の伝道船が与えられ、世界宣教に用いられている。

主よ感謝します。

『 ヨセフの孤独の訓練 ~主が共におられる~ 』2020年10月28日 聖書:創世記39章1~5節 片柳福音自由教会

1.  ヨセフの孤独   (創世記39:1~5)

ヤコブの11番目の息子ヨセフは、兄たちに憎まれ、ドタンの荒野の穴の中に突き落とされ、イシュマエルの商人に銀貨20枚で売られた。エジプトの王に仕える侍従長ポティファルに奴隷として買い取られ、多くのものを失った。

❶ ヨセフは、故郷を離れた。

ヨセフは、無一文でエジプトに連れて来られた。ヨセフにとって最も大切にしていた、あの「長服」さえも奪われた。

ヨセフは、言語、習慣、食事、道徳の規準の全く異なる外国の地にひとり住んで、本当に孤独を感じた。

❷ ヨセフは、自由を奪われた。

ヨセフは、自分の意志ではなく、奴隷として売られた。 ヨセフは、自由を奪われてしまった。

❸ ヨセフは、愛する人々から離された。

ヨセフは、家族や友から引き離された。ヨセフは、父の愛情の中にアイデンティティーを見出していた。ヨセフは、若く、高慢で、自分の本当の姿が見えなかった。かつて、父ヤコブが、兄と父を騙してハランに逃れ、孤独の中で、本当の自分の姿を知り、神と向き合い、自分の神として信じて、自立できたように、ヨセフも、孤独の中で、自分と向き合い、主を信じ、自立することができた。ヨセフは、主イエス様のひな型である。ヨセフは遠くエジプトに売られて、奴隷となったが、兄弟たちは、少しも彼の苦しみを知らなかった。同じように、イエス様は、私たちの罪のために、天から、この世界に降り、つぶさに人間の辛苦をなめられたのに、私たちは、主イエス様の御苦しみを知らず、悟ることもなかった。

 

2.  ヨセフの苦しみ

❶ ヨセフは、兄たちを恨んだ。

ヨセフは、自分をドタンの穴に落とし、イシュマエルの商人に銀20枚で売った、兄たちを憎み、恨んだに違いない。

しかし、たとえ、兄たちを恨んだとしても、そのようなことは何の解決にもならなかった。

❷ ヨセフは、父の名を呼んだ。

ヨセフは、ドタンの穴で、またエジプトへの道中、「お父さん、ぼくを助けて!」と何度も叫んだに違いない。ついに、ヨセフは、絶体絶命の中で、主に祈り、主に叫んだ。人は目に見えるものに頼っているうちは、主に祈ることはしない。「目に見えるもの」が奪い取られ、頼ることができなくなった時に、初めて人は、心の底から主に祈り求める者となる。

 

3.  ヨセフと共に主はおられた (創世記39:2~5)

39章には「主がヨセフとおもにおられた」が4回(2,3,21,23節)出てくる。主が共におられてことで何が起こったか?

❶ ヨセフは、主を信じることができた。

ヨセフは、孤独の中で、直接、主との人格的な交わりを持ち、生きた信仰を持つことができた。父の言葉を思い出した。(創世記35:3) ヨセフは、初めて、アブラハム・イサク・ヤコブの神を、ヨセフの神として信じることができた。

❷ ヨセフは幸運な人となった (39:3~5)

主が、ヨセフとともにおられたので、ヨセフは幸運な人となり、成功し、主人から信頼され、すべてを任された。

❸ ヨセフを通して証しされた。

主人はヨセフの成功の原因は、彼の信仰にあるとわかった。(創世記22:18)主の祝福の約束の成就である。

 

  • 結論: 「主は愛する子を訓練される」 (新約・へブル書12:6~7・10~11)

私たち親が、我が子の成長を願い訓練するように、天の父は、愛する子どもが、ご自分の聖さに預かり、御子イエス様の似姿へ変えられ、成長するように訓練し、御霊の実を結ばせてくださる。(ガラテヤ5:22~23) やがて人々は、あなたの中に主の品性、愛の実を見出す。

●例話:『W.W.J.D.』は、「What Would Jesus Do?」の略で、「イエス様ならこんな時どうされるだろう?」という意味。クリスチャンの祈りの言葉。悩んだ時や選択を迷っている時、「もしイエス様だったら(こんな時)どうするだろう?」と、私たちも、いつも主を仰ぎ見て、尋ね、求め、歩もう!

主よ感謝します。

『 ユダとタマルの物語 ~罪人の真ん中に~ 』2020年10月18日 旧約聖書:創世記38章1~19節 片柳福音自由教会

序.38章は、理解に苦しむ箇所で、近親相姦など、乱れた性の問題が記録されている。ユダとタマルの物語がヨセフの物語に割り込んで、ヤコブの長子の権利は、ヨセフではなく、4番目のユダへと引き継がれる。

 

1.  ユダの結婚  「カナンの女シュア」 (創世記38:1~10)

ヨセフがエジプトに売られて後、ユダは兄弟たちから別れ、ヘブロンから10数キロ北のアドラムに天幕を張った。ユダはカナン人の女シュアと結婚し、エル、オナン、シェラという3人の男の子が与えられた。

 

2.  息子たちの結婚 「主に打たれる」 (創世記38:6~10)

ユダは長男エルにタマルを嫁に迎えた。エルは間もなく死んだ。その理由は、繰り返し悪事を犯し、「主の目に悪しき者であったので、主は彼を殺された。」 長男が死んだので、ユダは次男のオナンに「兄嫁のところに入って、兄のために子孫を残しなさい。」とタマルと結婚させた。当時は、一族の名と財産を継ぐために、弟が兄嫁と結婚した。この結婚を「レビラート婚」(申命記25:5-6)という。ところが、オナンは子どもが、自分のものとならないと、わかっていたので「兄嫁のところに入ると地に流していた。」 ここからオナニーという言葉が生まれた。しかし、これは自慰行為ではない。オナンの罪は、❶神聖な結婚を汚す主への反逆の罪。❷父と兄への不従順の罪。❸妻に対する不誠実の罪。この悪しき罪ゆえに、オナンも主に打たれ、死んだ。

 

3.  ユダとタマルの出来事 「神殿娼婦を装う」 (創世記38:11~27)

二人の息子を失ったユダは、3男シェラも死ぬことを恐れ、嫁のタマルを実家に帰した。ユダの妻が死に、喪が終わり、ユダは羊の毛を売るためにティムナにやって来た。タマルは一大決心して、行動を起こした。

タマルは、シェラの妻にしてもらえないので、最後の手段として舅のユダとの間に子どもを産み、ユダの家の嫁として子孫を残す務めを果たそうとした。タマルは、やもめの着物を脱ぎ、ベールをかぶって神殿娼婦に変装した。当時、偶像の宮の祭りで、男と娼婦が交わる習慣があり、これを利用して、ユダに近づいた。

羊の毛を売り、お金を得たユダは、妻を亡くした淋しさもあり、嫁のタマルとは知らずに娼婦を買った。

ユダは、子やぎ一匹の報酬の約束に、ユダの身分や証の「印章とひもと杖」をタマルに与えた。やがて、嫁のタマルが売春をしてみごもったというニュースが届いた。ユダは、激しく怒り、「あの女を焼き殺せ」と命じる。ユダは、自分の売春行為を棚に上げて、一方的にタマルを責めた。人は、罪を悔い改めず、主によって赦されていない時、人は他人の罪を厳しくさばく。それは人をさばくことで、自分を義とするからである。

ユダは、保証の品を見て、「あの女は私よりも正しい」と認めた。タマルは信仰の行動によって、ユダの子孫を残した。その子ペレツの子孫からダビデ王が生まれ、やがて全世界の救い主キリスト様が誕生した。

 

  • 結論: 『みこころが地でも行われますように。~信仰は行動~』

(マタイ6:10)「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」と私たちは、主の祈りをささげる。

私たちは、主に従う時、まず計算をする。自分にとってそれは得か?損か? 信仰とは、聖書のみことばを神の真理と認めて告白することだけではない。主を信頼し、主の愛の懐に飛び込むことである。あらゆる不安、問題、心配をお任せして、主の祝福に委ね、行動することである。信仰は、名詞ではなく、動詞である。

御言葉への信仰の応答、行動が求められている。ユダは、息子の死で、臆病になり、消極的になった。

反対に、嫁のタマルは行動の人で、神の契約と祝福を考え、大切に思い、信仰によって行動を決断した。

あなたは、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るだけの歩みに、なってはいないか?

あなたの信仰は、ユダ?それともタマル? 御言葉を通して、聖霊様があなたに働いておられる。神の摂理を認め、喜び、主のみこころが実現するために、御業に仕えよう。あなたの罪の悔い改めや和解の行動、子育てや勉強や新しい仕事に、教会の奉仕に、信仰をもって、応答し、行動しよう!     主よ感謝します。