序。ヤコブの生涯のクライマックスです。このマハナイムで、ヤコブは、初めて自分の弱さを告白しました。そして今日の「ペヌエルの体験」「有名なヤコブの相撲の出来事から主のみことばを受けましょう。
- 1、ヤコブ、ヤボクにひとり残る 「一者となる」(創世記32:22~23)
32:22 その夜、彼は起き上がり、二人の妻と二人の女奴隷、そして十一人の子どもたちを連れ出し、ヤボクの渡し場を渡った。
32:23 彼らを連れ出して川を渡らせ、また自分の所有するものも渡らせた。
これまでのヤコブは、名前のように「かかとをつまむ者」「押しのける者」のように自分の能力と力により頼み、自信に満ちて、自力で生きてきました。しかし、ヤコブの策略も役立たず、彼は絶体絶命の危機に立たされました。今までのヤコブの歩みの総決算ともいうべきものです。
ヤコブは、今や打ち砕かれて、へりくだり、主の御前に弱さを告白し、祈りを捧げています。
このマハナイムで、聖なる神に触れる体験をしたヤコブは、その夜、起き上がり、二人の妻と女奴隷、11人の子どもをたちをヤボクの川を渡らせて、ただひとりヤコブだけが、ヤボクの渡し場に残ります。
私たちは、主のお取り扱いを受ける時、個人として神と向き合わされます。どんな人でも、家族からいったん切り離されます。私たちは、普段、様々な集団に属しています。家族があります。親類もいます。
学校や職場の交わりがあります。そのような集団に属する自分と言う意識があります。
その集団の中で、自分を見たり、自分の立場を考えて行動しています。
特に、日本人は人間関係社会の中で生活していますから、人の目が気になります。いつも家族や親類、職場の中で、自分の行動を選んでいます。
けれども、主が、私たちひとりひとりと関わられる時は、それらいっさいから切り離されて、あなたがたではなく、主は、あなたとだけ関わられるのです。
私たちは、聖書のみことば、イエス様の福音を聞くとき、自分が属している集団、家族とか会社、周りの友達など意識して、すぐに他の人のことを考えます。
本当は、主が、私に語り掛けておられるのに、自分が応答することを求められているのに、親や兄弟、友達、職場の人の意見を意識して、他人に語らせようとするのです。
自分の周りの人々が、どう考えるのか? 自分の属する集団、グループがそれに賛同するかどうかで、で自分の身の安全を確保して、ことを進めようとします。日本人の集団主義です。
それは、自分に自信がないからでしょうか? 真理に対して確信が持てないかでしょうか?
自分の属する集団やグループから仲間外れにされることが怖いからでしょうか?
けれども、みなさん、聖なる主は、あなたに呼びかけておられます。 あなたに語り掛けておられます。
神の御声を聴くために、私たちは孤独にならなければなりません。それは個人的なことです。
ヤコブのように、すべてをはぎ取られ、あらゆるしがらみかを取り除かれ、裸のままで主の前に立たされることがあります。
主と一対一の関係、主の間に、わたしひとり「一者」となるのです。
私たちも、ヤコブのように、主に向かって率直に直面している問題を主にぶつけて、主にすがりつくように祈り求めることが大切です。主の前に、あなたも「一者」となりましょう。皆さんアーメンですか?
- 2、ヤコブ、ある人と格闘する 「祈りの格闘」 (創世記32:24~26)
32:24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
ヤコブがヤボクの渡しで一人だけ後に残ると、ひとりの人が現れて、ヤコブと格闘します。
有名な「ヤボクの渡しの相撲」です。ある人が、闇の中からいきなり現れて、取っ組み合いとなったのです。さぞかし驚いた事だろうと思います。ヤコブも20年羊飼いをしています。力自慢です。しかし、相手の強さといったら半端じゃありません。夜明けまで格闘は続きました。これは祈りの格闘です。
ヤコブは、自分の家族から離れ、ひとりだけになり、個人として「一者の祈りの格闘」をします。
一心不乱に格闘します。一切の人間的な知恵や八方手を尽くした後で、ヤコブがたどり着いたのは、主の御前でした。最後の最後はの備えは、いつも神の御前にあります。いいえ、本当の備えは、初めから神の御前に用意されています。ヤコブは、ありきたりの祈りでは、物足らないのです。ついには、主のふところふかく、神と組み打ちをするような特別な恵みの体験です。私たちも、主のふところ深く入り込んで、初めて、真の満足を得るのです。
- (詩篇77篇) 77:1 私は神に声をあげて叫ぶ。私が神に声をあげると神は聞いてくださる。
77:2 苦難の日に私は主を求め夜もすがらたゆまず手を差し伸ばした。
詩篇の記者は、天地万物の造り主、全知全能の神の御前に、自分のいっさいを差し出して、死の物狂いになって、主に向かい、率直に、直面している問題をぶつけ、すがりつくように祈り求めています。
ヤコブも、神の御使いと格闘して、それこそ死に物狂いで、主に祝福を求めます。
- 32:25 その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。
ついに、その人は、ヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのももの関節を打ちました。ここは、「打った」と共に「触れた」とも読むことができます。この人は恐るべき力の持ち主です。ヤコブのももの関節に触れただけで、ヤコブは股関節は外れて、一生、足を引きずって、歩くようになります。ヤコブは、身体障害者となり杖を使わないと、歩くことができなくなりました。けれども、依然として、ヤコブは格闘を続けるのです。
- 32:26 すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
ヤコブの関心は、もはや兄エサウのことではありません。あんなに兄を恐れて、エサウの手から救い出してくださいと必死に求めていました。しかし、徹夜の祈りの格闘の後の、ヤコブの祈りに目を留めたいと思います。彼は何を求めているでしょうか? 「私を祝福してください」と言っています。
エサウのことは、もはや問題ではありません。今や、エサウに命を取られようが、問題ではありません。
ヤコブのこれまでの人生は、祝福を奪い取って来た人生でした。そのヤコブが、ここで、本当の本物の神の祝福を求めています。 ヤコブは、そのことに気づいたのです。
この主からの祝福、本物の祝福を得るまでは、どこまでもどこまでも食い下がろうとしています。
「私を祝福してくださらなければ、私はあなたから離れません。」
主の祝福がなければ、自分はどうになもらならいと感じています。たとえエサウに命を奪われようが、自分の抱えている課題、たとえば、家族や仕事や、受験、病気や人間関係の課題がどれほど大きかろうが、そんなもの問題ではありません。
根本的に、私の魂が主によって祝福されなければ、私が主に救われなければ、意味はない。
私のたましいの問題こそが、自分の全生涯にとって、最も深刻な課題であり、最重要事項なのだ!とヤコブはわかったのです。
自分のたましいは、主の前に失われている、このまま行けば、私は滅んでしまうと直感しています。
これは、ヤコブの「回心」です。ヤコブにとって、今までの生き方を悔い改めて、本当に主に寄り頼む、ヤコブにとって「回心」です。
私たちも、ヤコブのように、主の御前に、死に物狂いで主を求め、主にすがり付きましょう。
私たちも本音で、主にぶつかって、主の祝福を求めましょう! 皆さんアーメンですか?
- 3、ヤコブ、イスラエルとなる 「 神が戦われる」 (創世記32:27~32)
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」
その神の人はヤコブに名を尋ねます。「あなたの名は何か」「ヤコブ」ですと答えます。
ヤコブとは、彼の古い性質、古い生き方を現す名前でした。「かかとを掴む者」「押しのける者」という意味です。だが、その神の人は「あなたはもうヤコブではない、あなたはイスラエルだ」
- 第2コリント人への手紙5章17節「 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
人は、罪を悔い改めて、イエス様を信じ、聖霊様によって新しく生まれ変わります。新しい名を得ます。
ヤコブは、新しく「イスラエル」となりました。ヘブル語の「イスラ」(戦う・治める)と「エル(神)」の2つの言葉の合成語です。
「名は体を現す」 これまでのヤコブの生涯は「イスラヤコブ」(ヤコブは治める)でした。しかし、これからは、イスラエルは「神が戦われる」となるのです。私たちは、苦難に満ちた生涯を自分ひとり戦っているように感じますが、これからの生涯は、主が私たちの側に立って、神が戦われて、勝利するのです。
その人は「あなたは神と戦い勝った」と言いました。本当の所は「神に勝たせて頂いたのです。」
人が神に勝てるはずがありません。これは、私たちの主の励ましです。私たちも、また教会も、試練に遭います。主は、試練に遭うことを許されます。私たちはそれらと格闘します。しかし、私たちは、個人的にも、教会も、主の恵みよって、守られ、主にあって勝利するのです。 主に勝たせて頂くのです。
ヨハネ16:33「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
イエス様は、力強い御手で、あなたのために盾となり、守って下さり、攻撃では、神の右の手で勝利してくださるのです。皆さんアーメンですか?
- 32:29 ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
32:30 そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
32:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に昇ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。
32:32 こういうわけで、イスラエルの人々は今日まで、ももの関節の上の、腰の筋を食べない。ヤコブが、ももの関節、腰の筋を打たれたからである。
ヤコブは、「あなたの名を教えてください」と願います。ここでヤコブは、このお方が神であることを確信しています。28節では、「あなたは神と戦い勝った」と言われました。
さらにヤコブ自身が30節で「 ヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」と語っているからです。
私は、この人こそは、旧約のイエス様だと確信しています。
イエス様が、ヤコブに直接、現れて、ヤコブの信仰を義と認めて、新しい名前を与え、彼を祝福された。
私たち神の子どもも、ヤコブと同じペヌエルの経験が全ての人に必要な経験です。
誰でも、ペヌエルの経験を真剣に求めるならば、主はその求める全ての人に必ず与えてくださいます。
あなたは、本当に、神と出会うために、ひとり「一者」となり、神と一対一で向き合うのです。
まず、最初に、主イエス様の十字架による永遠の贖いの御業を信仰を、主は必ず与えてくださいます。
イエス様は、あなたに信仰による義をもたらしてくださいます。さらに聖化の恵み、キリストの似姿へとっ変えられます。 あなたの未解決の課題の解決のために、主はあなたを祈りの格闘へと導かれます。
イエス様はゲッセマネの園で、私たちの先駆けとなり血の汗を流し祈られました。
ヤコブは、祝福を受けましたが、同時にももの関節を打たれ痛みの代償を払いました。
本物の主の祝福を受ける前には、痛みや苦難の代価を払わなければならないことを覚えましょう。
イエス様も父の栄光を受けられる前に、私たちの救いのために十字架の苦難を受けられました。
私たちも、神の栄光の前には、十字架の苦難があることを覚えましょう。そしてあなたに備えられた主の道を歩むのです。あなたもヤコブのように、信仰の杖を持って、主に寄り頼みましょう。
主が、いつもあなたに先立ち、主が戦われて、勝利し、あなたを祝福してくださいます。皆さんアーメンですか?
❶ あなたも、ひとり「一者」になる必要がありますか?
❷ あなたが「祈りの格闘」をする課題は何ですか?
❸ あなたも、ヤコブからイスラエル(神が戦われる)、勝利の人生を求めますか?
お祈りいたします。
「父なる神様、御子イエス様、聖霊様、麗しい三位一体の主の御名を心から賛美します。コロナの中で、主に守られ、オンラインで、また教会で、神の家族の皆様と共に主に礼拝を献げることができる恵みを感謝いたします。夏休みの子どもたちご高齢の皆様をお守りください。医療や福祉の最前線で仕えておられる皆様を支え、祝福してください。暑い中、職場で一生懸命に働いている兄弟姉妹を守り、霊的にも、経済的にも豊かに祝福してください。ヤコブはペヌエルで格闘しました。私たちも「祈りの格闘」を通じて、ひたすらに主に向かい、時には死に物狂いで主を求め、主の祝福を求め、真の霊的回心と聖化、きよめを頂くことができますように導いてください。ヤコブからイスラエルと名前が変えられたように、私たちも、神が戦われる、勝利の人生を歩ませてください。主イエス・キリスト様の御名によってお祈りいたします。アーメン。主よ感謝します。」