『 ヨセフを変えた穴の体験 ~兄たちに売られたヨセフ~ 』  2020年10月11日 旧約聖書:創世記37章12~36節 片柳福音自由教会

序.ヨセフ物語のテーマは「神の摂理」である。「神の摂理」とは、神の主権に基づいてなされる恵みの御業のこと。あらゆることが、主の栄光と最善のために導かれ用いられることを意味する。私たちは神の摂理を信じないと、すべては偶然と見なすか、運命として諦めるしかない。ヨセフの環境と状況の中に、神の介入と臨在の恵みを受け取ろう。

 

1.  兄たちに、憎まれたヨセフ 「長服をはぎとられる」 (創世記37:12~24)

 

父ヤコブは、兄たちの様子を知るためにヨセフを遣わす。この結果、最愛の息子を失い、ヤコブは後々この事をどんなに後悔したことか。人生は予測不能である。自分の人生は、自分の手の中にあるのではない。だから、人知を越えて、私たちの人生を支配し、万物を治めておられる、目に見えない主の御手を認めよう。

私たちの目には、偶然と見える出来事の1つ1つも、実は、神の完璧な御業の一部であることを、私たちは、肝に銘じよう。ヨセフは、ドタンで、兄たちに会う。そこはヨセフにとって、まさに人生の土壇場となる。兄たちは、ヨセフを亡き者にして、彼の夢を粉砕しようと企てた。しかし、長男のルベンの説得で、荒野にある水を貯める穴に投げ込むことにした。兄たちは、ヨセフのプライドの象徴であった長服を剥ぎとり、穴に投げ入れた。幸運にも穴の水は空で、溺れることはなかった。

 

2.  兄たちに、売られたヨセフ 「銀20枚で奴隷に」 (創世記37:25~30)

 

兄たちは、通りかかったイシュマエル人の商人たちに銀20枚で売った。(当時、大人の奴隷は銀30枚であった。また当時の羊飼い1人の1年間の賃金は銀8枚であった。)商人たちは、エジプトの王パロに仕える侍従長ポティファルに売った。このようにして高慢なヨセフは、父を離れ、自分のプライドの象徴「長服」を奪われ、自由も奪われ、すべてを失い、異教地エジプトで奴隷となった。将来の夢も希望も、すべてが水泡に帰したかのようであった。私たちの人生でも、ギリギリの状況の中で、主が働いて、最悪の事態から守られる主の御手を覚えよう。

 

3. 父ヤコブは、ヨセフを失う 「手の中の宝を手離す」 (創世記37:31~35)

 

父ヤコブは、血の付いた長服を見せられて、ヨセフが野獣に噛み裂かれて死んだものと思い込み、嘆き悲しむ。

主の祝福をヨセフに受け継がせるためには、ヨセフを一度手離す必要があった。ヤコブはヨセフを溺愛して、手の中に握り締めていた。かつてアブラハムがその子イサクをモリヤの山で捧げたように、ヤコブも、ヨセフを手離さなければならなかった。私たちも主から与えられた子どもや仕事を、自分の利己的な愛によって自分自身のもののようにしてしまう危険性がある。親の子離れ、子の親離れが必要である。主から与えられた子どもを、一度全く主にゆだねるならば、主はその祝福を永続的なものとしてくださる。握り締めていた手を広げ、主に委ねよう!

 

  • 結論: 「あなたの穴を忘れるな!」 (旧約・イザヤ書51:1~2)

 

預言者イザヤは、自分の救い出された穴を忘れるなと語った。聖書で「穴」は、苦難や試練の象徴である。主が私たちの人生の歩みの中に「穴」を備えるのは、滅ぼすためではない。主は、その穴の中で私たちに気づきを与え、悔い改めと信仰を教えて、新しい出発をさせる。ヨセフは、惨めな穴の中で、本当の自分と向き合い、初めて真実を知った。この「穴の体験」が、ヨセフが主に用いられ、祝福される生涯へと造り変えられた原点である。

❶ あなたの「穴の体験」は、何だろうか?   あなたの救いの原点は何か? 主と出あった信仰の原点は何か?

いつも救いの原点に立ち返り、主に従い、祝福の道を歩もう。

❷ あなたの「長服」は、何だろうか?     あなたの手の中に握られているものは何か?

子ども、恋人、財産、プライド、あなたの手のひらを広げ、主を信頼し、主に委ねよう!      主よ、感謝します。

『 夢を見る人ヨセフ ~ビジョンが実現する人生~ 』2020年10月4日 旧約聖書: 創世記37章1~11節 片柳福音自由教会  

  • 序.今日からヨセフの物語が始まります。37章から終わりの創世記50章までです。アブラハム、イサク、ヤコブと受け継がれてきた長子の権利を、11番目のヨセフが受け継いだということです。このヨセフ物語は、神の支配、神の摂理が私たちの人生にはあることを明確に教えています。ヨセフの人生に起こった、実に悲惨な罪の現実と主の不思議な導きです。ヨセフは、兄たちにエジプトに売られ、奴隷となり、更に監獄に入れられます。しかし、夢を解き明かす事、エジプトの王様に仕え、総理大臣になり、飢饉で苦しむ父ヤコブと兄弟たちをエジプトに招き、家族と再会し、和解するというのが、大筋の物語です。
  • ヨセフ物語の中心テーマは、「神の摂理」です。
  • 1. 父に偏愛された人・ヨセフ  (創世記37:1~4)

 

37:1 ヤコブは、父が一時滞在していた地、カナンの地に住んでいた。

37:2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、彼の兄たちと羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。

  • 37:3 イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。

37:4 彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。

 

ヤコブの一族は、カナンのベエル・シェバで羊を飼っていました。ヤコブには4人の妻と、12人の子どもがいました。11番目に与えられた男の子が、最愛の妻ラケルとの間に生まれたヨセフでした。

ヤコブは、ヨセフを特別に可愛がりました。それは、溺愛したというべき可愛がりようです。

年を取った時に、生まれた子どもに対して、ついつい甘やかして、親が厳しさに欠けてしまうというのは、いつの時代でも、どこの世界でも、共通のことかもしれませんね。

ヤコブの愛は、明らかに「偏愛」です。つまり偏った愛です。ヨセフだけに、非常に美しい、袖付きの長服、晴れ着を作ってあげました。子どもは12人いるのに、このヨセフだけ、えこひいきしたのです。

兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフを愛して、かわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」とあります。これはヨセフへ嫉妬から来るものでしょうが、同時に父親に対する反抗、怒りです。

ヨセフの「そでつきの長服」、これは王侯貴族が着るような服をイメージしていただければ良いでしょう。兄たちは何を着ているかと言えば、羊飼いですから、当然羊を飼う野良仕事用の服です。

今で言えば、ヨセフは高級ブランド物のスーツ、兄たちはいつもジーパンとよれよれのTシャツ、そんな感じでしょうか。 しかも、2節には、「ヨセフは兄たちの悪いうわさを告げ口した。」とあります。

ヨセフは兄たちの仕事ぶりを父に、「ルベン兄さんは、今日はこんな失敗をしたよ。」、「シメオン兄さんは仕事をさぼっていたよ。」 そんな報告をしていたのでしょう。正義感に溢れていたのでしょう。しかし、父親に偏愛され、王子様のように育てられたので、自分を勘違いして、まるで主人と使用人のような関係です。

 

❶ 偏愛する者 「傷つける」

ヤコブは、ヨセフにだけを、えこひいきしました。これは問題です。やがて多くの問題を引き起こすことになります。 英語で『甘やかす』と言う言葉は、「SPOIL(スポイル)」と言います。

スポイルの直接の意味は「傷つける」という意味です。愛しているようで、それは本当の愛ではないので、実は傷つけているのです。父親から十分に愛を受けることができない子どもは傷ついているのです。

そういう家族が、イスラエルの代表として、主の御手の中に置かれています。

これからどのような展開があるのでしょうか?楽しみです。 ところで、傷ついた人は、「ひがみ」や「妬み」や「敵対心」を持つようになります。「兄たちは、ヨセフを憎んだ」と、この37章には、3回も書かれています。

 

  • 私たちは、どうでしょうか? 自分の中に巣食う偏愛、偏った愛に対してきちんとした処理をする事が大切です。『私はえこひいきする者です。偏った愛になってしまうものです。こんな私を赦して下さい』と祈るときに主は変えてくださるのです。

(第1ヨハネの手紙1:9)「もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」のとおりです。

私たちに必要なのは、誤魔化す事でも、言い訳をする事でも、弁解する事でもなく、「その通りです。そういう弱さを持っています。私はそういう者です」と認め、「私には弱さがあります。主よ、私を憐れんで下さい」と何度でも、何度でも、祈ることです。失敗しても諦めないでください。祈りましょう。その時、主はその罪を赦し、きよめて下さるのです。この恵みにしっかりと預かりましょう。皆さんアーメンですか?

❷ 偏愛された者 「高慢になる」

ヨセフの姿をから学びたいと思います。袖付きの長服は、父の愛のシンボルであり、彼のプライドのシンボルでした。ヨセフの特徴は『高慢』です。ヨセフは父が誰よりも自分を愛していることで、自分を見失い、自分が何者かであるかのように錯覚していたのです。ヨセフはわがままに育ちました。

ですから、態度や言葉が高慢になりました。最近はあまり聞かない言葉ですが、ヨセフは、いわゆるKYです。自分の周りの状況が理解できない。空気を読めない人です。 ですから兄たちは、ヨセフと穏やかに話すことが出来なかったのです。

  • 私たちの内側にも、『高慢』は絶えず出てきませんか? 私たちも自分の高ぶり、高慢を認め、主に告白して、きよめていただく必要があります。

(旧約・箴言16:18 )『高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。』

この御言葉を常に心に留めておきましょう。私たちも、これもしっかり処理して行く事が大切です。

また、人の心の中には、妬みや嫉妬、敵対心があります。ですから、たとえ、自分では正しく見えたとしても、あなたの中に苦々しい思いや妬みや敵対心があるならば、それらは、自分の肉の満足のためであり、悪魔に属するものです。捨てなければなりません。そうしないと、邪悪な思に、私たちが捕らわれてしまいます。

もし、あなたの心の中に、痛み、傷ついた心があるならば、正直に主に申し上げましょう。

『本当に悲しかった、傷ついた、辛かった。主よ、癒してください。心の傷を、主よ癒してください』と主に告白しましょう。イエス様の十字架は、こんな私の心の傷を癒して、きよめ、解放するために与えられました。

『主よ、私は悩んでいます。苦しんでいます。』と、素直に主の前に出ましょう。

主は、あなたを赦し、きよめてくださいます。私たちが、主に用いられる器となるために、私たちは砕かれ、きよめられなければなりません。癒しを求め、きよめて頂きましょう。 皆さんアーメンですか?

 

  • 2. 夢を見る人・ヨセフ (創世記37:5~11)

 

37:5 あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。

37:6 ヨセフは彼らに言った。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。

37:7 見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」

  • 37:8 兄たちは彼に言った。「おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。」こうして彼らは、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。

37:9 ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです」と言った。

 

皆さんは、夢を見ますか? 私はよく夢を見ます。聖書の人々も、夢を見る人が多くいます。新約の聖書のヨセフは、夢を見て、マリヤが聖霊様によって身籠り、全世界の救い主イエス様が生まれることを知りました。

主から与えられる夢によって、私たちは、明るい明日に向かって、未来に向かって歩み出すのです。

  • このヨセフ夢は二つですが、内容は同じです。

一つ目の夢は、7節「畑で束をたばねていると、突然、私の束が、まっすぐに立ち上がり、兄さんたちの束が周りに集まって来て、私の束におじぎしました。

二つ目の夢は、9節「太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです」

この二つの夢は、どちらもヨセフの兄弟、父であるヤコブまでもが、ヨセフを伏し拝むというものでした。

夢が二度繰り返されるということは、それが必ず実現するという保証でした。

  • 37:10 ヨセフが父や兄たちに話した時、父は彼をしかって言った「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」

37:11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた。

 

ヨセフの兄たちは、「ヨセフ、思い上がるのもいいかげんにしろ。」と腹を立てました。当然でしょう。この時ヨセフは17歳です。17歳といえば、現代では高校生です。この甘やかされて育ったおバカなヨセフが成長し、やがて、主に用いられ、遂にはこの夢の通り、実現するのです。

私たちは、この崩壊寸前のヤコブの家庭に、夢が与えられたということに注目しなければなりません。

この夢は、この時には、まだ、将来の何を指しているか、何のことなのか、ちっとも分かりませんでした。

しかし、11節「父はこのことを心に留めた。」とあります。父ヤコブは、ヨセフの夢を心に留めたのです。

主が与えて下さる夢。それは自分たちが予測することの出来る範囲を超えています。しかし、その夢によって示された出来事の中に、主の御心があり、私たちに慰めと平安と喜びをもたらすものです。

私たちは信じて良いのであります。

父ヤコブも兄とのトラブルで、生まれ故郷を出て行った時、ベテルで夢を見ました。それは神の御使いが天にまで達する階段を上り下りするというものでした。そして、主は、「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたを決して、見棄てない。私はあなたを祝福する。」(28章15節)という約束を受けたのです。この夢が、ヤコブの辛い日々を支え、ヤコブの人生に実現しました。 だから、ヨセフの夢をも心に留めたのでしょう。

 

  • 結論: 「あなたも夢を見る人になる」  (使徒の働き2章17~18節)

 

2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

2:18 その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。

 

神の民、キリスト者とは、夢を見る者です。ペンテコステの聖霊降臨によって、人々は預言し、神の御言葉を力に満ちて語りました。若者は幻・ビジョンを見、老人は夢を見ます。

皆さん、私たちに必要なのは、良い結果をもたらすことが出来るマニュアルではありません。

仕事のマニュアルはあっても、人生のマニュアルはないのです。

私たちに必要なのはマニュアルではなくて、主が与えて下さる夢です。 ビジョンです。

主が共に居て下さり、あなたを守り、支え、導いて下さるならば、どんな試練や困難がやって来ても、心が傷つき、倒れても、やがて、必ず、主の祝福と平安へと至る、明日が来ることを信じることです。主からの夢やビジョンは、明日、明後日、十日後に実現するようなものではありません。ヨセフの夢も実現したのは何十年も後のことでした。

神の民とは、いつもこの夢に生きてきた民なのです。主が与える夢に生きた信仰の人々なのです。

私たちの教会にも夢があります。「ミッション・オアシス~地域に開かれた、誰でも安心できる教会~」です。

私たち個人でも、この夢に生きる時、あなたの人生の中に、あなたの家庭の中に、あなたの学校や職場にに希望が生まれます。そしてあなたの将来に希望が生まれます。

この希望は、私たちが、困難な現実に飲み込まれ、罪の中に沈み込んで行くのを防ぐ力です。

「ああ、もうダメだ。」と言う時、「まだ、ダメじゃない。」と言い得る力を与えるのです。

神の民、キリスト者とは、夢見る者です。若者は幻・ビジョンを見、老人は夢を見ます。

あなたも、夢を見る人になります。そして主からのビジョンに生きる人になります。

家族が救われる夢、子どもたちが主に用いられる器になる夢、あなたの将来に新しいビジョンが与える。

こうして。あなたは、家族や人々に希望と励ましを与える人になります。この希望は、どんな困難も、あなたから奪うことが出来ません。私たちは死を超えた復活という希望が与えられているからです。

あなたは、主の摂理の中で、生かされています。夢を見る人は、主のビジョンが実現する人生となります。

愛する皆さん、主が与えて下さる夢と希望の中で、為すべき務めに誠実に励んでまいりましょう。

皆さんアーメンですか?

お祈りいたしましょう。

『 エサウの子孫の末裔(まつえい) ~神に敵対する子孫となる~』2020年9月27日 旧約聖書: 創世記36章1~14節 片柳福音自由教会    

説教レジメ

序.36章は、ヤコブの兄エサウの子孫の末裔の歴史の記録である。エサウは、異教徒のカナンのヒッタイト人のアダとヒビ人オホリバマとアブラハムがエジプトの女奴隷ハガルに生んだイシュマエルの娘バセマテの3人を妻とした。

 

1.  エサウは約束の土地を離れた 「セイルの山地に移住」  (創世記26:1~8)

主がアブラハムと子孫に約束した土地はカナンである。しかし、エサウは、信仰の遺産を軽く見て、繁栄を求め、主の約束の土地から離れ、セイルの山地に移住した。エサウは、自分の欲望に従い、地上での安楽と成功を求めて、自分の望むことを第1に選んだ。こうしてエサウは、信仰の系譜から自分から外れた。その上、自分の好みで異教徒のカナンの2人の娘を妻とし、さらにアブラハムのイシュマエルの娘を妻にした。(新約・へブル12:16~17)

反対に、弟ヤコブ一族は、この地上では、様々な恥辱と悔恨にまみれる。それゆえに、主を求め、主に叫び、主に寄り頼んで歩んだ。神を信じたら、苦しみも悲しみもない、災いにも遭わないのではない。けれども、それらに出遭っても、神の御手の中にある生涯、主の御目が注がれている人生は、本質的に幸いである。私たちは、この地上の無数の人々の中から選ばれ、神の民とされた。この事実に、無上の喜びと共に、感動を覚える。主に感謝しよう。

あなたは、エサウ的な人生、それとも、ヤコブ的人生、いずれを歩んでいるだろうか?

 

2.  エサウの子孫の末裔 「神に敵対するアマレク人」 (創世記36:9~14)

兄エサウは、別名エドムで、カナンの女アダとの間に生まれたエリファズ、このエリファズの側室ティムナとの間にアマレクが生まれた。この子孫がアマレク人である。アブラハムの甥のロトが娘との近親相姦によって生まれた民族モアブ人とアモン人と共に、このアマレク人は、神に敵対する民族の代表である。出エジプト記で、アマレク人は、モーセに導かれた神の民に敵対する。その後も、士師記のギデオンが戦った敵もアマレク人である。さらにサムエル記で、預言者サムエルやダビデ王が戦った敵もアマレク人であった。エサウが、神の約束のカナンを捨て、この地上的な成功と繁栄を求め、自分の欲望のままにセイルの山地を選んだ結果、その子孫も、神に背を向け、イスラエルの民に、ことごとく敵対し滅ぼされる民として、聖書に登場することになったのである。

 

  • 結論: 『 神はすべての人が救われることを望んでいる 』  (第Ⅰテモテ2:4)

 

❶  神の憐れみは、すべての人に注がれている (第1テモテ1:16)

36章24節、エサウの妻ヒビ人のオホリバマの親族の子孫に荒野でロバを飼う少年アナが登場する。彼は、聖書で初めて温泉を発見した。未信者の望みのない悲惨な人々に、温泉によって、主は慰めと励ましを与えられた。

音楽も、私たちに慰めと励ましを与えてくれる神の一般恩恵である。アダムとエバの子アベルを殺した兄カインの末裔であるユバルに音楽の賜物を与えられた。(創世記4:21) 神に背を向けて、罪と滅びの中にいる人々を、主は見捨てることなく、すべての人に神の憐れみは注がれている。主はどんな人も愛し、目を留めてくださる。主に立ち返るなら、救いの御手を差し出してくださる。私たちは、主の証しのために、神のあわれみの見本とされている。

❷  神は、すべての人が救われることを望んでいる

(第Ⅰテモテ 2:4)「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」

なぜ、神に敵対するエサウの子孫の詳細な家系図が保存されたのか?なぜ、神の言葉である聖書に記録される必要があったのか?聖書の神は、全世界、全宇宙の神である。主は、どんなに小さい存在であろうとも、かけがえのない存在であり、主は、すべての人を愛されて、主の救いに招かれている。これが36章のメッセージである。

神は、1人も滅びることを望まず、すべての人が神の真理を知り、十字架で私たちの罪の身代わりとして死んで復活された主イエス様を信じ、救われることを望んでいる。

今日、この福音を、私たちの救われていない家族や友、職場の人々、ご近所の人々に伝える器としての私たちの使命を新たに、主に献身しよう!

『立って、ベテルに上りなさい ~家族の信仰のリバイバル~』 2020年9月13日 聖書:創世記35章1~15節 片柳福音自由教会    

序.『私の家政夫ナギサさん』というドラマで、家政夫のナギサさんが主人公のメイの母に言った言葉があります。「できるところだけじゃなくて、できないところも見てあげてください。」これは「人は見たいものしか見ようとしない。」ということです。人はダメな自分をみたくないし、聞きたくないことは聞こうとしない。私たちも聖書を読みながら、聞きたくない所は聞こうとしないことがあります。ヤコブは家族のことで見ようとしないで、結果家族の危機を迎えました。今日は、家族との回復と信仰のリバイバルがテーマです。

 

  • 1. ヤコブの悔い改め「信仰の原点に帰る」 (創世記35:1)

35:1 神はヤコブに仰せられた。「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」

ヤコブは、シェケムに土地を購入し、滞在しますが、ヤコブにとって安住の地とはなりませんでした。

娘ディナが土地の族長の息子に辱められました。そして、逆上した息子たちはシェケムの人々を騙して、皆殺しにしたのです。散々なことが立て続けに起こりました。

  • 34:30 それで、ヤコブはシメオンとレビに言った。「あなたがたは私に困ったことをして、私をこの地の住民カナン人とペリジ人に憎まれるようにしてしまった。私は数では劣っている。彼らが一緒に集まって私を攻め、私を打つなら、私も家の者も根絶やしにされてしまうだろう。」

今度は、ヤコブ一族が、カナンの人々から憎まれて、虐殺の危機を迎えます。

ヤコブたちは、もうにっちもさっちも行かなくなり、シェケムの土地を出て行くしかなくなったのです。

試練や困難に遭って、どうしたらよいのかわからない時、考えれば頭が痛くなるような状況の時、頭が真っ白になり、我をも見失い、何をどうしたら良いのかわからない時、私たちはどうしたらよいのでしょうか?

私たちが切実に必要とするのは、りっぱな人生論や理屈ではなく、現実に即して具体的なアドバイスです。

ヤコブは、カナンの人々の復讐を恐れ、その不安の中で、神の声を聴きました。

再び主は現れて、次の道を示してくださいました。人は、たとえ真実でなくとも、主は真実なお方です。

たとえ私たちが御言葉を軽んじることがあっても、主はご自身の御言葉に全き義と真実を守られるお方です。ですから、失敗した私たちを見捨てることはありません。

  • ヤコブに主が道を示してくださいました。「ヤコブよ、あなたは立ってベテルに上り、そこに住みなさい。」主は、いつも主の方からヤコブに現れてくださる恩寵です。これが主の恵みです。

20年前に、ヤコブが父と兄を騙して、ハランに逃れる一人旅の途中で、夢の中で天から梯子が地に向かって掛けられて、天使が上り下りしたその場所が「ベテル」(神の家)です。ヤコブが初めて神と出会った場所、祭壇を作り、主に礼拝をささげ、主に献身した。信仰の原点に立って上りなさいというご命令です。

思えば、シェケムには、ヤコブが百ケシタで購入した土地と祭壇がそこにあります。ベテルに上るには、これらのものをみな捨てることを意味します。自分の過去の歩みから断ち切ることは、いかに難しいことか。

私たちは、主のみこころが何かを知りながら、尚、そこに留まってしまうことが何と多い事でしょうか?

しかし、シェケムに留まっている間、その土地がいかに豊かであろうとも、祭壇が立派であろうとも、そこはベテルではありません。

私たちは、いろいろな物が、からみついて、身動きが取れなくなった時、私たちは、原点に立ち返って、自分と主との関係に立ち返る決断が求められます。どんなに諸々のしがらみの中で埋没しそうになったとしても、そこで主と出会うならば、神との交わりを回復するならば、私たちは、いつでも、どこからでも新しくなる事ができるのです。 なたも信仰の原点に立ち帰り、神との交わりの回復を求められていませんか?

私たちは中途半端を続けないで、躊躇せずに、あなたのベテルに上りましょう!私たちもヤコブのように、行き詰まる時、あなたの信仰のスタートラインに、信仰の原点に帰りましょう。皆さんアーメンですか?

 

  • 2. ヤコブの行動 「偶像を捨て、身をきよめる」 (創世記35:2~4)

 

35:2 それで、ヤコブは自分の家族と、自分と一緒にいるすべての者に言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。

35:3 私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」

35:4 彼らは、手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪をヤコブに渡した。ヤコブはそれらを、シェケムの近くにある樫の木の下に埋めた。    (ヤコブは、具体的に2つの行動を起こしました。)

  • 第1は、偶像を捨てた。

ヤコブの家族は、周りのカナンの異教社会の中で、いつしか影響を受けて、身に着けた偶像がありました。家の守り神、異教の偶像バアルやカナンの神々を持っていたのでしょう。ラケルは、父の家からテラフィムという家の守り神を盗み出して、持って来ました。小さな偶像を装飾して耳飾りにもしていました。それらを燃やすことが出来ないので、埋めたのでしょう。 ヤコブは、家族をあげて、主との交わりを回復します。

私たちの内にも、同じような課題はないでしょうか?私たちは天地万物を造られた主なる神様を信じています。私たちの罪のために身代わりとして、十字架で罪の身代わりとなられたイエス様を信じています。

このお方を唯一のまことの神と信じているはずです。それでも、もしかしたら私たちはこの主なる神様に礼拝をささげる者として、それとはまったく矛盾する何かを自分で握り締めていることはないでしょうか?

主を第1にしないで、別のものを第1にする時、それらは偶像となります。

たとえば、お金はとても大切なものです。しかし、主に信頼する以上に、「やっぱりお金よね」と主に寄りのむのではなく、お金を第1にすると時、その人は拝金主義者となります。

学歴も素晴らしいですが、有名大学の学歴が将来の幸せをも、保証してくれると信じると学歴信仰となり、偶像となります。女性や男性も容姿やヘアースタイル、身だしなみを心掛けることは大切な事です。しかし、美貌や容姿が自分を幸せな結婚、人生にしてくれると思い込んでしまうと、それが偶像になります。

私たちの内なる異なる神々、偶像のようなものを、捨てて、主に立ち帰りましょう。アーメンですか?

 

  • 第2は、身を清めて、衣服を着替える。

偶像によって汚れている。シケムでの卑劣で残忍なリベンジをしたばかりの状態では、とうてい聖なる神の御前に出ることは出来ないと考えたのです。ヤコブは自分の身をきよめると共に、それまで着ていた着物を着替えるように命じて、家族の徹底的な霊的な改革を行いました。

主なる神様を礼拝する、神の臨在に近づこうとする人々は、旧約時代は身を清める必要がありました。

私たちも、主の御前に礼拝と感謝を捧げるなら、悔い改めて罪を告白し、偶像を捨て、主イエス・キリスト様の十字架の血潮できよめて頂いてこそ、神の御前に出ることができます。

  • (第1ヨハネの手紙1章7節)

「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」私たちも十字架の血潮によってきよめ頂き、イエス様の救いの義の衣に着替え、新たに主の御前にぬかずきましょう。皆さんアーメンですか?

 

  • 3. ヤコブの献身 「祭壇を作る」 (創世記35:5~15)

 

35:5 彼らが旅立つと神からの恐怖が周りの町々に下ったので誰もヤコブの息子たちの後を追わなかった。

35:6 ヤコブは、カナンの地にあるルズすなわちベテルに来た。彼とともにいた人たちもみな一緒であった。

  • 35:7 彼はそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それは、彼が兄から逃れたとき、神がそこで彼に現れたからである。

 

こうしてヤコブと家族は、リセットして、主との交わりが回復し、家族の信仰もリバイバルしました。

ヤコブたちは、主が示されたベテルへと向かうために立ち上がりました。シェケムからベテルまでは約60キロの距離があります。出発すると、どんなことが起こったのでしょうか?

5節「彼らが旅立つと、神からの恐怖が周りの町々に下ったので、だれもヤコブの息子たちの後を追わなかった。」とあります。再び、驚くべきことが起こりました。「神からの恐怖」が周りの町々に下ったのです。

具体的にどんなことが起こったのかはわかりません。しかし、主の特別なご介入によって、ヤコブと家族、一族は守られました。もし、主のご介入がなければ、周りのカナンの町々の中で、豆粒のようなヤコブたちは、間違いなく滅ぼされたことでしょう。私たちが、主に従う時、主はご自身の民を守ってくださるのです。

ヤコブは、ベテルに到着しました。この場所は、ヤコブが初めて神に出会いを経験した場所です。

主の守りと祝福の約束された聖なる場所なのです。そこに祭壇を築いて、家族で、礼拝を捧げました。

ヤコブは、再び神との交わり、関係を回復しました。そして家族との関係、家族と神との関係が回復しました。家族の中から汚れが取り除かれて、主の臨在の祭壇が築かれて、主への礼拝が始められました。

こうして神との交わりが回復しました。家族のリバイバルが起こりました。

 

  • 結論: 「あなたのベテルに上りなさい」

 

私たちの地上の歩みの中で、戦いは続きます。私たちは、緊張と戦いの中で、まず何をすべきでしょうか?問題の解決の前にすべきことがあります。私たちにとって必要な事は何でしょうか?

❶ まずあなたのベテルへの道を確認することです。

あなたの信仰の原点、スタートラインに立ち返りましょう。

❷ 偶像を捨て、きよめましょう。

イエス様の十字架の恵み、主が流された血潮によってきよめていただかなくてはんりません。

❸ 祭壇を築き、誓いを果たしましょう!

例話:『1923年、米国のシカゴのホテルに、世界的な大富豪たちが集まりました。当時、アメリカの財務省が保有している額よりも、巨額のお金を動かす成功した資産家でした。それから25年後、彼らの最後はどうなったでしょうか?

「アメリカ最大の総合製鉄会社の会長であるチャールズ・シュワブ、死ぬまでの五年間は借金暮らしで、無一文で亡くなりました。アメリカ最大の小麦の投機会社を率いたアーサー・コットンは、事業に失敗して苦労し、外国で亡くなりました。ニューヨーク証券取引所社長のリチャード・アイットニーは、ニューヨークの刑務所から出た直後に息を引き取りました。」

富が成功と幸せの象徴の資本主義万能の時代に、大富豪たちの悲劇的な最後は、大いに考えさせられます。私たちは委ねられた賜物をどのように用いているでしょうか? 宗教改革者マルチン・ルターは語っています。「救いのためには三つの回心が必要です。心の回心、からだの回心、そして財布の回心です。」

そのためには、絶えず信仰の原点であるキリストに、聖書に、礼拝に帰る事です。アブラハム、イサク、ヤコブと続くイスラエルは、全世界の祝福の基となりました。私たちもそれぞれの遣わされた地で、祝福の基となるのです。

そのために、信仰の原点に絶えず戻りましょう。あなたの祈りの祭壇は崩れてはいませんか?

主に祈りをささげ、主を賛美し、神との交わりの祭壇を再建しましょう!そうするならば、主から驚くような祝福をいただくことになります。神からの恐れがあなたのまわりに下り、多くの人々が主を認め、主を畏れるようになるでしょう。ヤコブはベテルで主に対して誓った什一献金を約束を果たします。私たちも主に対する感謝と献身の証である什一献金を主にお献げ致しましょう。信仰の原点に戻るとは、家族の信仰のリバイバルとなります。私たちも霊的なベテルに帰り、身をきよめ、祭壇を築きましょう。皆さんアーメンですか?

お祈りいたしましょう。

『 ヤコブの娘ディナの事件 ~家族の危機に対処する~』2020年9月6日 旧約聖書:創世記34章1~31節 片柳福音自由教会 

 

  • 序、私たちにとって、家族はかけがいのない存在です。ですから自分の家族が理不尽な扱いを受けたり、傷つけられたりすることは耐え難い悲しみとなります。そういう痛みは、できれば経験したくありません。みなが幸せであってほしいとどんなに望むことでしょうか。しかし、大なり小なり、私たちはそうした経験を味わうことがあります。真の神を信じ、従うヤコブの家族もまた例外ではありません。ヤコブは、兄エサウとの破れ、崩壊した家族関係が、和解と再生へと導かれ、20年来の課題を解決しました。ヤコブはシェケムに土地を購入して祭壇を作り、主に礼拝を献げました。そこで安心したのも束の間で、その矢先、家族の危機を迎えます。
  • 1. ヤコブの娘ディナの事件 (創世記34:1~4)

 

34:1レアがヤコブに産んだ娘ディナはその土地の娘たちを訪ねようと出かけて行った。

34:2 すると、その土地の族長であるヒビ人ハモルの子シェケムが彼女を見て、これを捕らえ、これと寝て辱めた。

ヤコブには、11人の息子と1人の娘がいました。12番目の最後が、姉レアが生んだ娘ディナです。おそらく13~16歳位で、現代の中高生と同じです。

シェケムの町は城壁に囲まれた都市です。一方、ヤコブたちは町の郊外の野山で羊の世話をして、天幕生活をしていました。娘のディナは思春期真っ最中です。ファッションやおしゃれに目覚め、同じ年ごろの女性に関心があり、シェケムの娘たちを訪ねて町に出かけました。

最近来たヤコブ一族のことはすでに町の噂になっていました。その一人娘ディナのことも噂になっていました。ディナは、原宿に遊びに出かける中高生の気分だったかもしれません。

シェケムの族長はハモルの息子シェケムは、ディナを見て、自分の家に、拉致して、寝て辱めたとあります。彼女はレイプされました。

現代でも、スマホを通して家から簡単にアクセスして、このような性犯罪に巻き込まれ被害者になる危険性が沢山あります。ネットの掲示板で呼び出されて、監禁される事件が後を絶ちません。子どもたちにとって、現代のネット社会は危険に満ちています。

実は、このカナンの異教のヒビ人の習慣に「略奪結婚」という非人道的な蛮行が行われていました。結婚のために強引に女性を略奪して、その後で結婚するという犯罪のような結婚です。

偶像崇拝の異教徒たちの道徳的基準がいかに低いものであったかかがよくわかります。

  • 34:3 彼はヤコブの娘ディナに心を奪われ、この若い娘を愛し、彼女に優しく語りかけた。

34:4 シェケムは父のハモルに言った。「この娘を私の妻にしてください。」

このような犯罪の後で、シェケムは、ディナに心を奪われて、父ハモルに結婚を願うのでした。

 

  • 34:8 ハモルは彼らに語りかけた。「私の息子シェケムは、心からあなたがたの娘さんを恋い慕っています。どうか娘さんを息子の嫁にしてください。

34:9 私たちは互いに姻戚関係を結びましょう。あなたがたの娘さんを私たちに下さり、私たちの娘をあなたがたが迎えてください。

34:10 そうして私たちとともに住んでください。この土地は、あなたがたの前に広がっています。ここに住み、自由に行き来し、ここに土地を得てください。」

34:11 シェケムは彼女の父や兄弟たちに言った。「皆さんのご好意を得られるのなら、おっしゃる物を何でも差し上げます。

34:12 どんなに高い花嫁料や贈り物であっても、私にお求めください。おっしゃるとおりに差し上げます。ですから、どうか、あの人を私の妻に下さい。」

 

この加害者シェケムとその父ハモルの言動は、驚きです。レイプという女性の体と心を傷つけた犯罪に対して、反省も謝罪の言葉もありません。しかも、娘さんを息子の嫁にくださいとぬけぬけと結婚の交渉を始める無神経さにも驚きです。

その上、ヤコブたちに対して「結婚して親戚になれば、皆さんは、この土地に住んで、自由に行き来きできます。またどんなに高い花嫁料も、高価な贈り物でも提供します。」

この世は、私たちに巧み、肉の愛を示して、地位や財産、高価な贈り物など、人間の物欲を利用して目的を達しようとしています。共存共栄の提案は、ヤコブたちにとって、人間的には魅力的な内容となっています。

  • しかし、これは罪の隠ぺい行為です。共存共栄の提案の背後には、シェケムの人々の利益追求の魂胆があったのです。ヤコブたちの家畜や財産も、自分たちのものになるという目論見です。

悪魔が、イエス様を誘惑した時も同じです。マタイ4章で、もし、悪魔にひれ伏したら、全世界のすべての富と宝の全部を与えようと誘惑しました。しかし、イエス様は、あなたの神、主だけを礼拝しなさいと言って誘惑を退けられました。

 

  • 2. ヤコブの息子たちの悪だくみ (創世記34:5~31)

 

34:5 ヤコブは、シェケムが自分の娘ディナを汚したことを聞いた。息子たちは、そのとき、家畜を連れて野にいた。それでヤコブは、彼らが帰って来るまで黙っていた。

34:6 シェケムの父ハモルは、ヤコブと話し合うためにやって来た。

34:7 ヤコブの息子たちは野から帰って来て、このことを聞いた。息子たちは心を痛め、激しく怒った。シェケムがヤコブの娘と寝て、イスラエルの中で恥辱となることを行ったからである。

このようなことは、してはならないことである。

「このようなことは、してはならないことである。」は原文では「そうすべきではない」です。

聖書では、絶対すべきことではない、あり得ないことです。ところが、ヤコブは、娘ディナが汚されたこと聞きましたが、息子たちが戻ってくるまでは黙っていました。ヤコブは父として、家族の危機の中で、一番リーダーシップを発揮しなければならないのに、沈黙しています。

反対に、息子たちは、心を痛め、怒っています。か弱い妹が、力ずくの暴力を受け、恐怖におののき、苦しめられたのです。

本当なら、ヤコブは家族全員で、神に助けを祈り、主のみこころと導きを求めるべきでした。そして自分の最愛の家族の娘ディナが辱めを受け、人権が侵害され、汚されたのです。

加害者に対して、謝罪と罪の悔い改めを求めるべきでした。ヤコブは、リーダーシップを発揮しないので、反対に、ディナの兄シメオンとレビは、怒りに任せて、ある巧みを企てます。

  • 34:13 ヤコブの息子たちは、シェケムが自分たちの妹ディナを汚したので、シェケムとその父ハモルをだまそうとして、

34:14 答えた。「割礼を受けていない者に私たちの妹をやるような、そんなことは、私たちにはできません。それは、私たちにとって恥辱となることですから。

34:15 ただし、次の条件でなら同意しましょう。もし、あなたがたの男たちがみな、割礼を受けて、私たちと同じようになるなら、

34:16 私たちの娘たちをあなたがたに嫁がせ、あなたがたの娘たちを妻に迎えましょう。そうして私たちはともに住み、一つの民となりましょう。

34:17 しかし、もし、あなたがたが私たちの言うことを聞かず、割礼を受けないなら、私たちは娘を連れてここを去ります。」

妹の結婚の条件に、「割礼」を受けることを提案しました。

シェケムの人々はこれに同意して、街の男子は全員受けることになりました。

「割礼」とは、イスラエルの宗教儀式です。生まれた男子は7日目に割礼を受けて、神の民となる契約の儀式でした。 生殖器の包皮の一部を切り取るのです。神の民にとって聖なる信仰の儀式を騙し討ちの手段として用いたのです。

 

  • 34:25 三日目になって、彼らの傷が痛んでいるとき、ヤコブの二人の息子、ディナの兄シメオンとレビが、それぞれ剣を取って難なくその町を襲い、すべての男たちを殺した。

34:26 彼らはハモルとその子シェケムを剣の刃で殺し、シェケムの家からディナを連れ出した。

34:27 ヤコブの息子たちは、刺し殺された者のところに来て、その町を略奪した。自分たちの妹が汚されたからである。

34:28 彼らは、その人たちの羊や牛やろば、それに町にあるもの、野にあるものを奪い、

34:29その人たちの全財産、幼子、妻たち家にあるすべてのものを捕虜にしたり略奪したりした

ヤコブは、一族を守るために、周囲との軋轢を避けて、事を荒立てないようにという消極的な態度に終始しました。そして、子どもたちに、神の御言葉の原則を示すことをしないで、父親としてリーダーシップを発揮できませんでした。

逆に、子どものシメオンとレビは、逆上して、復讐します。割礼で痛みが一番強くなる3日目に、シメオンとレビと一緒に僕たちは、シェケムの町を襲い、すべての男を殺し、ディナを連れ出して、街の全財産を略奪しました。これは明らかに行き過ぎた虐殺です。彼らの復讐を正当化することはできません。

まさか、神の教えにみちびかれているはずのヤコブの家族の中で、異邦の民も顔負けの、人を騙す策略と残虐の極みが、足元で繰り広げられました。しかし、これが現実です。

ヤコブの息子たちも罪人です。だからこそ、旧約・新約聖書を貫いて、イエス様の十字架の贖いにしか、人間には救いがないのです。主は、このようなヤコブの一族をの人々を受け入れ、神の人に作り変えられるのです。神の愛と忍耐は、何と大きいことでしょうか?

 

  • 結論:「主に立ち帰り、主に祈り求め、徹底的に従う」

 

❶ 「家族の危機に、主に助けを求め、祈る。」

34章には、「神」という言葉が、一度も出てきません。ヤコブは家族の危機の中で、個人的にも、家族でも1回も祈っていません。危機の時にこそ、家族一緒に、主に助けを求め祈り、主のみこころを求める時です。

 

❷ 「普段から、家族に信仰の教育をする」

ヤコブは、ラケルの子ヨセフだけを偏愛して、子どもたちを等しく愛して、神を畏れ、神を愛する教育を十分に与えることができませんでした。

その結果、目に見える一族の繁栄を勝ち取っても、神の民として一番大切な神への信頼と愛がなおざりとなり、子どもたちはこの世の流行を追い求め、この世の価値観に馴染んで、道を踏み外しました。

箴言22:6 「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」

家庭礼拝で、主を愛し、主に従う祝福と喜びを分かち合うことです。

親が子に、聖書の正しい基準を教えないと、この世の価値観に子どもは染められてしまいます。

私たちも、しっかりと自分を見つめ、点検しましょう。子どもたちのために家庭礼拝や祈りの祭壇を再建しましょう!皆さんアーメンですか?

 

❸ 中途半端な信仰から信仰の徹底へ

ヤコブの事をあらだけないようにという、優柔不断な消極的な態度は、どうしたのでしょうか?

ヤコブの中途半端な信仰にあります。

ヤコブが本来向かうべき場所は、あの神との出会いの場所ベテルでした。ヤコブは、はじめから約束の地ベテルに向かうべきでした。ベテルに行くように命じられました。しかし兄との再会と和解を得て、安心してシェケムに土地まで購入しました。シェケムは、あくまでも一時の通過点、休憩場所にしか過ぎないはずであった。しかしそこに彼が腰を据え、落ち着き始めたことが今日の悲劇を生んだ一つの原因でした。

私たちは、聖書を知る世界に立っているからと言って、気を緩めずに、中途半端な信仰、生き方で、世間の常識や風潮に流されないようにしましょう。主イエス様を信じ、

(ヘブル書12:1~2)「私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、、、、信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」

とへブル書は私たちに勧めています。私たちもイエス様を、人生の主・王として心に迎え、イエス様を罪から救い主として、しっかりと信じ、イエス様から目を離さないで、信仰を貫きましょう。皆さんアーメンですか?

 

適用

❶あなたの危機の時、家族の危機の時、あなたはどうしますか?

主に助けを祈り求めましょう。主のみこころを求めましょう。

❷家庭礼拝で子どもたちにみことばの霊的教育をしましょう!

子どもたちに、聖書の正しい基準、人生の土台を据えましょう。

❸あなたの信仰は、中途半端ではありませんか?

聖書のみことばに立ちましょう! 信仰に徹しましょう。

お祈りいたします。

 

『 ヤコブとエサウの和解~家族の崩壊と再生の物語~ 』2020年8月30日 聖書:創世記33章1~20節 片柳福音自由教会

  • 序.今日のテーマは、「家族の崩壊と再生の物語」です。
  • 1. 兄エサウとの和解への道 (創世記33:1~3)

 

33:1 ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウがやって来た。四百人の者が一緒であった。そこで、ヤコブは子どもたちを、レアとラケルと二人の女奴隷の群れに分け、

33:2女奴隷たちとその子どもたちを先頭にレアとその子どもたちをその後にラケルとヨセフを最後に置いた。

33:3 ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。

創世記33章は、いよいよ兄エサウと、20年ぶりに再会する場面です。

ヤコブは32章で、悲壮な思いで、ヤボクの渡しを渡りました。そこで、神の人と出会い、主に祝福してくださいと、一晩相撲して格闘しました。ついにヤコブは、股関節が外されてしまいました。ヤコブの古い自我は打ち砕かれて、そしていよいよ4百人を引き連れて来るエサウと対面したのです。その対面に際してヤコブは、家族を3つのグループに分けました。第一のグループは女奴隷のジルパとビルハ、そして彼女らが生んだ子どもたちです。第二のグループは、レアとその子どもたちです。第三のグループは、ラケルと、彼女が生んだただ一人の子ヨセフです。ここには明らかに、ヤコブの心における家族の中の序列が現れています。

ヤコブが最も愛したのはラケルでした、兄エサウとの対面を前にして彼は、最も愛するラケルとヨセフを最後に置いたのです。もしもエサウとその手勢四百人が襲いかかって来ても、他の家族が犠牲になっている間に、ラケルとヨセフだけは生き延びることができるように、ということです。随分ひどい話だとも思いますが、しかしそこに人間の赤裸々な現実が表されていると言えますし、何よりも、ヤコブがエサウとの対面において起るかもしれない最悪の事態を覚悟していたことが伺えます。ただヤコブは、家族を犠牲にして自分が生き延びようとしていたのではありません。

  • このように家族を三つのグループに分けて配置した後、3節にあるように、ヤコブは先頭に進み出て、真っ先に兄エサウと対面したのです。彼は決して卑怯者ではありません。

ヤコブはこのように深い恐れと覚悟とをもって兄エサウとの再会に臨みました。

しかも、ヤコブが兄に対してとった態度は、兄の僕として、徹底的に従順を示すことでした。

3節に、「ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。」

7回は聖書では完全数です。ヤコブは、新しい人になり、へりくだり、兄に対してしもべとしての完全な従順と謙遜を現しいています。ヤコブは、兄エサウを前に、7回も地にひれ伏し、へりくだって、兄を迎えます。

 

  • 2.   兄エサウとの和解  (創世記33:4~11)

 

33:4 エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。

33:5 エサウは目を上げ、女たちや子どもたちを見て、「この人たちは、あなたの何なのか」と尋ねた。ヤコブは、「神があなた様のしもべに恵んでくださった子どもたちです」と答えた。

33:6 すると、女奴隷とその子どもたちが進み出て、ひれ伏した。

33:7 次にレアもその子どもたちと進み出て、ひれ伏した。最後にヨセフとラケルが進み出て、ひれ伏した。

 

兄エサウは、走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、二人は共に泣いたのです。

恐れていた襲撃は起りませんでした。エサウはヤコブを歓迎し、20年ぶりの兄弟の再会を喜んだのです。

アッという出会いでした。走り寄ったエサウは「弟よ、わが弟よ」といきなり口づしてくれたのです。そして二人は、泣きじゃくり大泣きしました。ヤコブは自分のことを「しもべ」と呼んでいます。これは本心であったと思います。そして家族もエサウに丁寧に、ひれ伏しお辞儀をしました。

 

  • 33:8 するとエサウは、「私が出会ったあの一群すべては、いったい何のためのものか」と尋ねた。ヤコブは「あなた様のご好意を得るためのものです」と答えた。

33:9 エサウは、「私には十分ある。弟よ、あなたのものは、あなたのものにしておきなさい」と言った。

33:10 ヤコブは答えた。「いいえ。もしお気に召すなら、どうか私の手から贈り物をお受け取りください。私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです。兄上は私を喜んでくださいましたから。

33:11 どうか、兄上のために持参した、この祝いの品をお受け取りください。神が私を恵んでくださったので、私はすべてのものを持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。

 

8節以下には、ヤコブが贈った贈り物についてのやりとりがあります。ヤコブは、兄エサウのご機嫌直しの策略に、贈り物の家畜を、3つに分けて、先に送っていました。ここで感動的なのは、エサウの一言です。

エサウは、ヤコブに対して「わが弟よ」と兄弟として初めから語っています。

そして「私には何で十分ある。弟よ、あなたのものは、あなたのものとしておきなさい」と言ったのです。

「そんな気を使うことなごない。俺はもう十分だ。おまえの物は、お前のものにしておけ。これからも何かと物入りだろう」まことに淡泊なエサウです。ヤコブとは正反対です。兄エサウは20年振りに再開した弟に対して、太っ腹というか、淡泊と言うか、大雑把というか、素朴というか。温かい思いやりの男です。江戸っ子のように「宵越しの銭はもなねえ」無欲な男でした。最後は、ヤコブの強い願いを受け入れて、贈り物を受け取りました。

感動的な再会と共に、あっけないほどに、ヤコブは兄エサウとの和解が出来ました。なぜ、このように20年来の家族の崩壊と再生ができたのでしょうか? その和解の秘訣は、前の32章にあります。

 

  • 3. 主の御顔を見る (創世記33:10)

 

33:10 ヤコブは答えた。「いいえ。もしお気に召すなら、どうか私の手から贈り物をお受け取りください。

私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです。兄上は私を喜んでくださいましたから。

 

ヤコブは、兄エサウを、神の御顔を見るように見ています。ここに和解のカギがあるのです。

人々と和解するためには、人を見るのではなく、神の御顔を見るのです。「神の御顔」がキーワードです。

このことは、前の創世記32章から始まっています。

  • 32:18 『これらは、あなた様のしもべヤコブのものでございます。ご主人のエサウ様に差し上げる贈り物でございます。ご覧ください。ヤコブもうしろにおります』と答えよ。」

32:19 彼は第二の者にも、第三の者にも、群れ群れについて行くすべての者に命じた。「あなたがたがエサウに出会ったら、これと同じことを告げよ。

32:20 また、『ご覧ください。あなた様のしもべヤコブは、私どものうしろにおります』と言え。」ヤコブは、「自分の先に行く贈り物で彼をなだめ、その後で彼と顔を合わせよう。もしかすると、私を受け入れてくれるかもしれない」と思ったのである。

 

  • これは、ヤコブがしもべたちに、命じたのです。

20節を直訳するとこうなります。『わたしの顔の前に行く贈り物で、彼の顔を覆い、その後、わたしは彼の顔を見よう。恐らく彼はわたしの顔を上げてくれるだろう。』

 

  • ヘブル語の(ペヌ)「顔」という言葉が、実は4回も使われています。ヤコブは兄エサウの顔に捕えられて、脅えています。私たちも、関係の悪い人の顔がいつも思い浮かび、その顔に脅えて、自由になれないことがありますね。(ペヌ)「顔」が、創世記32~33章の鍵の言葉です。

ヤコブは兄エサウの顔を立てるために、莫大な贈り物を送り、和解の道を開こうとしました。拓こうとしました。ヤコブは、妻や子どもたちを夜ヤボクの川を渡らせました。夜中、何者かがヤコブを襲いました。ヤコブは兄エサウが送った刺客だと思いました。しかし、それは神が送られた使いでした。ヤコブは神の使いと夜明けまで格闘しました。夜の暗闇の中で、徹夜の格闘をしました。激しい格闘です。主の使いはヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ちました。ヤコブの股関節が外れました。しかし、ヤコブは「祝福してくださるまでは離しません」。ヤコブ(掴み取る)の名の通り、ヤコブはここでも祝福を掴み取るまで、主の使いを離さない。主の使いは言います。「お前の名は何というのか」。「ヤコブです」と答えると、主の使いは言います。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」。「ヤコブ」から「イスラエル」への名前の転換。それが主の使いから与えられた祝福でした。「ヤコブ」(掴み取る者)から「イスエラエル」(主が戦い勝利する者)に名前が変えられました。新しくされました。

 

  • 32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」

32:29 ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。

32:30 そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。

 

ヤコブは叫びます。30節「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている。私は救われた。」

ヤコブは自分の罪を赦して、祝福してくださった、その場所を「ペヌエル」(神の顔)と名付けました。

30節のこの言葉は、20節の言葉と響き合っています。

20節「わたしの顔の前に行く贈り物で、彼の顔を覆い、その後、わたしは彼の顔を見よう。恐らく彼はわたしの顔を上げてくれるだろう」。

兄エサウとの和解のために、どうしての越えなければならない川です。ヤコブは兄エサウの顔色を窺い、莫大な贈り物を捧げるという人間的な手立て行くで、和解の道を探ろうとしました。しかし、真夜中、主が使いをヤコブに夜通し格闘させたことにより、ヤコブの口からこのような言葉が生まれた。「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」。

ヤコブは大切なことを忘れていたのです。「神の御顔」です。兄エサウとの和解のために、「神の御顔」を求める。神のみこころを尋ねることを忘れていました。

  • イエス様も、十字架の上で、ご自分を嘲り、呪う人々を見るのではなく、御父を見上げて、(ルカ23:34)「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」と赦しを祈られて、勝利しました。イエス様も父の御顔を慕い求められました。

ヤコブは、ペヌエルで神に御顔を見ました。それは、ヤコブが20年前にベテル(神の家)で、神と顔と顔とを合わせたベテルでの出来事と響き合っています。ヤコブの信仰の原点です。夢の中で、天から梯子が降りて来て、天と地を結んだ。主はヤコブに天からの梯子を架けた。その時、主はこう語られた。

 

  • 28:15 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

故郷へ足を踏み入れ、兄エサウと和解する道。それは莫大な贈り物をするという兄エサウの顔色を伺う人間的な手立てによって果たされるものではないのです。

「わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしはあなたを決して見捨てない」と語られる主の確かな御言葉、御手によって果たされるからです。

ヤコブは主の使いに腿の関節を外され、もはや自分の足で立てないことを経験した。私が掴み取る(ヤコブ)のではなく、主が戦い勝利する(イスラエル)、その主の力、主の恵みによってのみ立ち得ることを経験した。それがペヌエルでの経験でした。あのベテルでの経験を更に強く味わった出来事でした。主の御顔を慕い求めたからです。皆さん、私は人の顔を見て、恐れるのでは、主の御顔を慕い求めしょう。主の御顔が私たちを恐れから解放し、自由にしてくれます。主の御顔を見るよう人を見て、主が和解の道を開かれるのです。 主の御顔を慕い求めましょう! 皆さんアーメンですか?

  • 33:19 そして天幕を張った野の一画をシェケムの父ハモルの息子たちの手から百ケシタで買い取った。

33:20 彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと呼んだ。

この後、ヤコブは兄と別れて、シェケムに土地を購入し、そこに祭壇を築き、主に礼拝を捧げました。そしてそこを、「エル・エロヘ・イスラエル」(神は、イスラエルの神です)。主は私イスラエルの神ですと信仰の告白を捧げました。主は、ヤコブ・イスラエルだけでなく、私たちの神です。皆さんアーメンですか?

 

  • 結論: 主の御顔を慕い求めよ!

 

詩篇105:4 『主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。』

詩篇の記者は、主とその御力を求め、絶えず主の御顔を慕い求めなさいと勧めています。

ヨハネの福音書14:9 『わたしを見た人は、父を見たのです。』

そして、イエス様は、私を見た人は、父を見たのですと言われました。主イエス様の御顔をいつも慕い求めましょう。主の御顔、イエス様の御顔が、家族の崩壊と再生の秘訣です。傷ついた人間関係の回復と和解、勝利の鍵です。皆さんアーメンですか?

 

  • 適用:「御言葉を自分に適用しましょう」

❶ あなたは、人を恐れ、人の顔に脅えることはありませんか?

❷ 和解のために、人の顔を見ないで、イエス様の御顔を求めましょう!

主よ感謝します。

 

 

『平和を作る者は幸いです ~2人の元軍人の救いと和解~』 2020年8月16日 片柳福音自由教会       聖書:マタイの福音書5章9節       片柳教会・敗戦75年記念礼拝 ka

序.太平洋戦争で、日本人300万人が戦死した。多くは病気や餓死。アジアでは2千万人が犠牲となった。悲劇の中で起こった、2人の軍人の回心とピースメーカーとなった和解の働きの主の御言葉を受けよう。。

1. 2人の軍人の救いと和解

❶「ジェイコブ・デシェーザー」(Jacob DeShazer, 1912 – 2008年)1942年4月18日、日本本土に最初に空襲したアメリカ空軍の軍曹である。彼の証の小冊子『私は日本の捕虜だった』より紹介する。

私は中国で不時着し、40カ月間、日本軍の捕虜となる。東京に投獄され、拷問され、飢餓状態に置かれた。3人の戦友は銃殺され、戦友バップ・ミーダーは食料不足のために餓死した。その時、気違いになる程、日本人を憎んだ。その後、人類の憎しみの原因について思い巡らす。何が日本人をアメリカ人嫌いにさせたのか、また何が私を日本人嫌いにさせたのか、その原因について考えた。人類の憎悪を、真の兄弟愛に変えるキリストに心が向いた。看守が取り寄せた聖書を熱心に6回読んだ。旧約の預言がキリストであること知る。新約聖書で、旧約の預言を成就したイエス・キリストの誕生を見た。

(使徒10:43)「預言者たちもみなイエスについて、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられると証ししています。」この御言葉を固く信じ、私の心は喜び踊り、1944年6月8日(ローマ10:9~10)「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。」その瞬間、私は救われた。そして私や仲間を飢えさせ、殴る日本人を見た時、憎しみが、慈愛へと変わっていることを発見した。神は私に「行け、イエス・キリストの血の贖いによる救いの道を日本人に教えよ」と召命を受け1948年、私は宣教師として1977年まで日本で宣教した。

 

❷ 「淵田 美津雄」(1902-1976年)1941年12月8日、真珠湾攻撃における空襲部隊の総指揮官で「トラトラトラ」(我奇襲ニ成功セリ)の打電をした有名な軍人。『真珠湾からゴルゴダへ』の本から紹介する。

真珠湾攻撃の時、私も全飛行隊員も、アメリカに対する強い憎しみに満ちていた。しかし、4年後、遂に日本の敗北に終わった。敗戦後、日本軍に宣教師であった両親を殺されたアメリカ人女性の日本人捕虜への親切な働きを知る。その女性が憎悪から人類愛へ転向したことが不思議であった。

ある日、渋谷駅前で、一人のアメリカ人が『私は日本の捕虜でした』というパンフレットを配っていた。

私の心は、デシェーザーが獄中で虐待されている時に、彼はなぜ人間同士が憎み合うのかを考え、「憎悪を真の兄弟愛に変えるキリストの教え」に捕らえられた。私も聖書を読んで(ルカ23:34)「父よ、彼らを赦したまえ、その為(な)す所を知らざればなり」で、私はハッと、アメリカのお嬢さんの話が頭にひらめいた。敵を赦す博愛、今こそ、私もわかった。私は目頭がジーンと熱くなり、大粒の涙がポロポロとこぼれた。

私はゴルゴダの十字架を仰ぎ、まっすぐにキリストに向き直した。その日、私はイエス・キリストを救い主として受け入れた。そして神が私に何をなせと命じていなさるのか、ハッキリわかった。私はこの深い神様の恵みと愛を、私の体験を通じて一人でも多くの人に伝える証し人として、残る生涯を捧げようと決心した。

淵田美津雄は、アメリカで和解と伝道をした。また日本では、デシェーザー宣教師と協力し、10年間、北海道から沖縄まで伝道し、キリストの和解の使者となった。

 

  • 適用:みことばを自分に適用しましょう!

第1に、あなたは、神と和解していますか?

神と和解すること、自己中心と神への不従順の罪を悔い改めて、神と和解しましょう。

第2は、あなたは、和解の使節として遣わされています。(Ⅱコリント5:18~20)  主よ感謝します

説 教  『 イスラエル(神が戦われる) ~ヤボクの祈りの格闘~』 2020年8月9日 聖書: 創世記32章22~32節  片柳福音自由教会         

序。ヤコブの生涯のクライマックスです。このマハナイムで、ヤコブは、初めて自分の弱さを告白しました。そして今日の「ペヌエルの体験」「有名なヤコブの相撲の出来事から主のみことばを受けましょう。

 

  • 1、ヤコブ、ヤボクにひとり残る 「一者となる」(創世記32:22~23)

 

32:22 その夜、彼は起き上がり、二人の妻と二人の女奴隷、そして十一人の子どもたちを連れ出し、ヤボクの渡し場を渡った。

32:23 彼らを連れ出して川を渡らせ、また自分の所有するものも渡らせた。

これまでのヤコブは、名前のように「かかとをつまむ者」「押しのける者」のように自分の能力と力により頼み、自信に満ちて、自力で生きてきました。しかし、ヤコブの策略も役立たず、彼は絶体絶命の危機に立たされました。今までのヤコブの歩みの総決算ともいうべきものです。

ヤコブは、今や打ち砕かれて、へりくだり、主の御前に弱さを告白し、祈りを捧げています。

このマハナイムで、聖なる神に触れる体験をしたヤコブは、その夜、起き上がり、二人の妻と女奴隷、11人の子どもをたちをヤボクの川を渡らせて、ただひとりヤコブだけが、ヤボクの渡し場に残ります。

私たちは、主のお取り扱いを受ける時、個人として神と向き合わされます。どんな人でも、家族からいったん切り離されます。私たちは、普段、様々な集団に属しています。家族があります。親類もいます。

学校や職場の交わりがあります。そのような集団に属する自分と言う意識があります。

その集団の中で、自分を見たり、自分の立場を考えて行動しています。

特に、日本人は人間関係社会の中で生活していますから、人の目が気になります。いつも家族や親類、職場の中で、自分の行動を選んでいます。

けれども、主が、私たちひとりひとりと関わられる時は、それらいっさいから切り離されて、あなたがたではなく、主は、あなたとだけ関わられるのです。

私たちは、聖書のみことば、イエス様の福音を聞くとき、自分が属している集団、家族とか会社、周りの友達など意識して、すぐに他の人のことを考えます。

本当は、主が、私に語り掛けておられるのに、自分が応答することを求められているのに、親や兄弟、友達、職場の人の意見を意識して、他人に語らせようとするのです。

自分の周りの人々が、どう考えるのか? 自分の属する集団、グループがそれに賛同するかどうかで、で自分の身の安全を確保して、ことを進めようとします。日本人の集団主義です。

それは、自分に自信がないからでしょうか? 真理に対して確信が持てないかでしょうか?

自分の属する集団やグループから仲間外れにされることが怖いからでしょうか?

 

けれども、みなさん、聖なる主は、あなたに呼びかけておられます。 あなたに語り掛けておられます。

神の御声を聴くために、私たちは孤独にならなければなりません。それは個人的なことです。

ヤコブのように、すべてをはぎ取られ、あらゆるしがらみかを取り除かれ、裸のままで主の前に立たされることがあります。

主と一対一の関係、主の間に、わたしひとり「一者」となるのです。

私たちも、ヤコブのように、主に向かって率直に直面している問題を主にぶつけて、主にすがりつくように祈り求めることが大切です。主の前に、あなたも「一者」となりましょう。皆さんアーメンですか?

 

  • 2、ヤコブ、ある人と格闘する 「祈りの格闘」 (創世記32:24~26)

 

32:24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

ヤコブがヤボクの渡しで一人だけ後に残ると、ひとりの人が現れて、ヤコブと格闘します。

有名な「ヤボクの渡しの相撲」です。ある人が、闇の中からいきなり現れて、取っ組み合いとなったのです。さぞかし驚いた事だろうと思います。ヤコブも20年羊飼いをしています。力自慢です。しかし、相手の強さといったら半端じゃありません。夜明けまで格闘は続きました。これは祈りの格闘です。

ヤコブは、自分の家族から離れ、ひとりだけになり、個人として「一者の祈りの格闘」をします。

一心不乱に格闘します。一切の人間的な知恵や八方手を尽くした後で、ヤコブがたどり着いたのは、主の御前でした。最後の最後はの備えは、いつも神の御前にあります。いいえ、本当の備えは、初めから神の御前に用意されています。ヤコブは、ありきたりの祈りでは、物足らないのです。ついには、主のふところふかく、神と組み打ちをするような特別な恵みの体験です。私たちも、主のふところ深く入り込んで、初めて、真の満足を得るのです。

  • (詩篇77篇) 77:1 私は神に声をあげて叫ぶ。私が神に声をあげると神は聞いてくださる。

77:2 苦難の日に私は主を求め夜もすがらたゆまず手を差し伸ばした。

詩篇の記者は、天地万物の造り主、全知全能の神の御前に、自分のいっさいを差し出して、死の物狂いになって、主に向かい、率直に、直面している問題をぶつけ、すがりつくように祈り求めています。

ヤコブも、神の御使いと格闘して、それこそ死に物狂いで、主に祝福を求めます。

 

  • 32:25 その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。

 

ついに、その人は、ヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのももの関節を打ちました。ここは、「打った」と共に「触れた」とも読むことができます。この人は恐るべき力の持ち主です。ヤコブのももの関節に触れただけで、ヤコブは股関節は外れて、一生、足を引きずって、歩くようになります。ヤコブは、身体障害者となり杖を使わないと、歩くことができなくなりました。けれども、依然として、ヤコブは格闘を続けるのです。

 

  • 32:26 すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」

 

ヤコブの関心は、もはや兄エサウのことではありません。あんなに兄を恐れて、エサウの手から救い出してくださいと必死に求めていました。しかし、徹夜の祈りの格闘の後の、ヤコブの祈りに目を留めたいと思います。彼は何を求めているでしょうか? 「私を祝福してください」と言っています。

エサウのことは、もはや問題ではありません。今や、エサウに命を取られようが、問題ではありません。

 

ヤコブのこれまでの人生は、祝福を奪い取って来た人生でした。そのヤコブが、ここで、本当の本物の神の祝福を求めています。  ヤコブは、そのことに気づいたのです。

この主からの祝福、本物の祝福を得るまでは、どこまでもどこまでも食い下がろうとしています。

「私を祝福してくださらなければ、私はあなたから離れません。」

 

主の祝福がなければ、自分はどうになもらならいと感じています。たとえエサウに命を奪われようが、自分の抱えている課題、たとえば、家族や仕事や、受験、病気や人間関係の課題がどれほど大きかろうが、そんなもの問題ではありません。

根本的に、私の魂が主によって祝福されなければ、私が主に救われなければ、意味はない。

私のたましいの問題こそが、自分の全生涯にとって、最も深刻な課題であり、最重要事項なのだ!とヤコブはわかったのです。

自分のたましいは、主の前に失われている、このまま行けば、私は滅んでしまうと直感しています。

これは、ヤコブの「回心」です。ヤコブにとって、今までの生き方を悔い改めて、本当に主に寄り頼む、ヤコブにとって「回心」です。

私たちも、ヤコブのように、主の御前に、死に物狂いで主を求め、主にすがり付きましょう。

私たちも本音で、主にぶつかって、主の祝福を求めましょう! 皆さんアーメンですか?

  • 3、ヤコブ、イスラエルとなる  「 神が戦われる」 (創世記32:27~32)

 

32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」

32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」

 

その神の人はヤコブに名を尋ねます。「あなたの名は何か」「ヤコブ」ですと答えます。

ヤコブとは、彼の古い性質、古い生き方を現す名前でした。「かかとを掴む者」「押しのける者」という意味です。だが、その神の人は「あなたはもうヤコブではない、あなたはイスラエルだ」

 

  • 第2コリント人への手紙5章17節「 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

 

人は、罪を悔い改めて、イエス様を信じ、聖霊様によって新しく生まれ変わります。新しい名を得ます。

ヤコブは、新しく「イスラエル」となりました。ヘブル語の「イスラ」(戦う・治める)と「エル(神)」の2つの言葉の合成語です。

「名は体を現す」 これまでのヤコブの生涯は「イスラヤコブ」(ヤコブは治める)でした。しかし、これからは、イスラエルは「神が戦われる」となるのです。私たちは、苦難に満ちた生涯を自分ひとり戦っているように感じますが、これからの生涯は、主が私たちの側に立って、神が戦われて、勝利するのです。

 

その人は「あなたは神と戦い勝った」と言いました。本当の所は「神に勝たせて頂いたのです。」

人が神に勝てるはずがありません。これは、私たちの主の励ましです。私たちも、また教会も、試練に遭います。主は、試練に遭うことを許されます。私たちはそれらと格闘します。しかし、私たちは、個人的にも、教会も、主の恵みよって、守られ、主にあって勝利するのです。 主に勝たせて頂くのです。

 

  • イエス様は、約束されています。

ヨハネ16:33「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

イエス様は、力強い御手で、あなたのために盾となり、守って下さり、攻撃では、神の右の手で勝利してくださるのです。皆さんアーメンですか?

 

  • 32:29 ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。

32:30 そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。

32:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に昇ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。

32:32 こういうわけで、イスラエルの人々は今日まで、ももの関節の上の、腰の筋を食べない。ヤコブが、ももの関節、腰の筋を打たれたからである。

 

ヤコブは、「あなたの名を教えてください」と願います。ここでヤコブは、このお方が神であることを確信しています。28節では、「あなたは神と戦い勝った」と言われました。

さらにヤコブ自身が30節で「 ヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」と語っているからです。

 

私は、この人こそは、旧約のイエス様だと確信しています。

イエス様が、ヤコブに直接、現れて、ヤコブの信仰を義と認めて、新しい名前を与え、彼を祝福された。

 

私たち神の子どもも、ヤコブと同じペヌエルの経験が全ての人に必要な経験です。

誰でも、ペヌエルの経験を真剣に求めるならば、主はその求める全ての人に必ず与えてくださいます。

 

あなたは、本当に、神と出会うために、ひとり「一者」となり、神と一対一で向き合うのです。

まず、最初に、主イエス様の十字架による永遠の贖いの御業を信仰を、主は必ず与えてくださいます。

イエス様は、あなたに信仰による義をもたらしてくださいます。さらに聖化の恵み、キリストの似姿へとっ変えられます。 あなたの未解決の課題の解決のために、主はあなたを祈りの格闘へと導かれます。

 

イエス様はゲッセマネの園で、私たちの先駆けとなり血の汗を流し祈られました。

ヤコブは、祝福を受けましたが、同時にももの関節を打たれ痛みの代償を払いました。

本物の主の祝福を受ける前には、痛みや苦難の代価を払わなければならないことを覚えましょう。

イエス様も父の栄光を受けられる前に、私たちの救いのために十字架の苦難を受けられました。

私たちも、神の栄光の前には、十字架の苦難があることを覚えましょう。そしてあなたに備えられた主の道を歩むのです。あなたもヤコブのように、信仰の杖を持って、主に寄り頼みましょう。

主が、いつもあなたに先立ち、主が戦われて、勝利し、あなたを祝福してくださいます。皆さんアーメンですか?

  • 『適用』: みことばを自分に適用しましょう!

❶ あなたも、ひとり「一者」になる必要がありますか?

❷ あなたが「祈りの格闘」をする課題は何ですか?

❸ あなたも、ヤコブからイスラエル(神が戦われる)、勝利の人生を求めますか?

 

お祈りいたします。

「父なる神様、御子イエス様、聖霊様、麗しい三位一体の主の御名を心から賛美します。コロナの中で、主に守られ、オンラインで、また教会で、神の家族の皆様と共に主に礼拝を献げることができる恵みを感謝いたします。夏休みの子どもたちご高齢の皆様をお守りください。医療や福祉の最前線で仕えておられる皆様を支え、祝福してください。暑い中、職場で一生懸命に働いている兄弟姉妹を守り、霊的にも、経済的にも豊かに祝福してください。ヤコブはペヌエルで格闘しました。私たちも「祈りの格闘」を通じて、ひたすらに主に向かい、時には死に物狂いで主を求め、主の祝福を求め、真の霊的回心と聖化、きよめを頂くことができますように導いてください。ヤコブからイスラエルと名前が変えられたように、私たちも、神が戦われる、勝利の人生を歩ませてください。主イエス・キリスト様の御名によってお祈りいたします。アーメン。主よ感謝します。」

『ヤコブの恐れと弱さ ~マハナイムの体験~』2020年8月2日 聖書: 創世記32章1~21節 片柳福音自由教会

 

1.    ヤコブの恐れと弱さ  「未解決の問題」

❶  この世との戦い  (ラバン)

ヤコブは、狡猾なラバンに騙されて、20年間無償で働かされた。しかし、ヤコブは主に守られ、祝福された。故郷帰還の危機も、主の直接介入によって守られた。(ミツパの契約)ヤコブとラバンの戦いは、私たちも体験する「この世との戦い」である。主は、この世との戦いでも、私たちを守られる。

❷  自分の弱さとの戦い  (エサウ)

ヤコブには20年経っても、乗り越えることができていないひとつの課題があった。双子の兄エサウは、ヤコブに長子の権利と祝福を騙し取られて殺意を持っていた。問題は根本的には解決してはいない。ヤコブの身から出た錆で、彼のアキレス腱、弱さである。私たちも、問題を根本的に解決せずに、一時的に逃れる。しかし、主はその課題を解決するために、私たちを再び、その問題に直面させられる。

 

2.ヤコブのマハナイム体験 「神の聖さに出会う」 (創世記32:1~2)

 

神との出会いの体験は、私たちの生涯の転換点となる。

神のみこころに生きる新しい歩みが始まる。そして未解決の課題も取り扱われる。ヤコブは兄エサウとの未解決の問題と向き合わねばならなかった。主は、恐れの中にいたヤコブを助けるために、神の御使いを送られた。ヤコブは、天の軍勢を見て、「マハナイム(2つの陣営)」と名付けた。(参照:第2列王記6章で、預言者エリシャを守るために、取り囲んだ火の馬や戦車の神の陣営がある。)

20年前の初めての神との出会い「ベテル体験」は、神の一方的な恩寵、恵みの体験であった。孤独な旅をするヤコブを主は「ありのままで」受け入れた。罪を意識せずに、問題は脇に置いて、ヤコブを励ました。主はヤコブと共にいて守り、祝福してくださる。「主の臨在の体験」、それが「ベテルの体験」であった。

20年後、「聖なる神」とヤコブは出会う。天の軍勢の力強さと聖さに圧倒されて、自分の中にある致命的な問題、自分の罪と弱さを取り扱われた。マハナイムの体験は「神の聖さに触れる体験」「きよめの体験」であった。

(参照:イザヤ6:1~7神殿で召命を受けたイザヤの体験はヤコブと似ている) あなたは、主の聖さに触れる「マハナイム体験」主のきよめの体験を受けているだろうか? 聖なる神との出会いを求めよう!

 

3.   ヤコブの和解への「行動」 (創世記32:3~21)

ヤコブは、主から勇気を与えられて、兄エサウにしもべを遣わして和解の行動をとる。エサウは、400人のしもべを引き連れて来るとの報告を受けて、非常に恐れる。ヤコブは必至に3つの防衛策を立てる。

❶ ヤコブは、群れをふたつに分けた (32:7~8)

それは1つの宿営が襲われても、残り1つの宿営は逃れることができると考えた。臆病なヤコブである。

❷  ヤコブはエサウへの贈り物を用意した  (32:13~16)

家畜550頭の贈り物は、現在の価格で約1億5千万円(ヤギ1頭7万、羊1頭7万、ラクダ1頭150万、牛1頭100万、ろば1頭100万円) 高価な贈り物である。しかし、ヤコブは、手練手管を尽くしてもなお恐れていた。

❸ ヤコブは、主に祈った (32:9~12)

祈りの初めと終わりには、「主の祝福の約束」を繰り返して祈り、約束を誠実に守られる神のご性質に訴えて、必死に嘆願している。ヤコブは、自分の内にある弱さを告白している。10節 「私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるに値しない者です。」これがマハナイム体験から与えられる恵みである。彼は聖なる神を体験して「自分の罪と弱さ」と「神の聖さ」を学んだ。ヤコブが変えられる転換点となる。しかし、直ぐに主の答えはない。依然として、罪の弱さの中にもがき苦しみながら生き続けて、ゆっくりと聖化され続けた。私たちの聖化の歩みも同じである。マハナイムは、恵みの転換点である。私たちもマハナイムの主の恵みを求めよう! 主よ感謝します。

  • 『適用』: みことばを自分に適用しましょう!

❶ あなたの未解決の課題は何ですか?

❷ あなたはマハナイム体験をしましたか?求めましょう!

『故郷帰還の決断と旅立ち』  2020年7月26日 旧約聖書:創世記30章25~43節 片柳福音自由教会     

序.ヤコブは、20年間のハランの叔父ラバンのもとでの生活に別れを告げ、いよいよ故郷カナンへと旅立つ。

 

1.故郷帰還のヤコブの決断「 3つのサイン 」 (創世記31:1~27)

 

❶ 外的な環境  (31:1~2)

ラバンとその息子たちのヤコブに対する態度が変化した。主のみこころの道を判断するための第1のサインは、周りの環境である。あなたの周りの状況・環境の変化、神の時か否か、客観的に判断するための貴重な材料である。

❷ 自分の思い (31:5~7)

ヤコブの思いが、もはやここには居られないとなった。主のみこころを求める時に、自分の考えや気持ちを知ることは重要である。(ピリピ2:13) あなたが今、何を願い、求めているのかも決断するための、2つ目のサインとなる。

❸ 主のみことば (31:3)

主は「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」

肝心な事は、天からの示し、主のみことばは、みこころに従う、第3のサインとなり、確信となる。

 

2.ヤコブの旅立ちと主の介入 「ミツパの誓い」(創世記31:13~49)

ヤコブは、妻のレアとラケルに故郷に帰る決意と主の導きについて語る。20年間の彼女たちの父ラバンの不当な待遇をあげて、幾度も報酬の約束を変えて騙したこと。しかし、主はベテルでの祝福の約束通りに、ヤコブを守り、家族を与え、家畜も、財産も豊かに祝福されことを語る。

ヤコブは、再三、主の御名を口にしている。ヤコブが常日頃、主を覚え、祈り、主に従う人であったのかがよくわかる。反対に叔父ラバンの信仰は、占いをしたり、家の氏神テラフィムを祭り、異教的な習慣、偶像崇拝の影響を受けてきよめられていない。私たちの中にも、自己中心性と主以外の色々な物や偶像に心を寄せる不純さが残っている。主によって、きよめて頂こう。

ヤコブは、妻たちに、父ラバンを取るか、夫を取るかと迫った。妻たちは、即座にヤコブに賛同しハランを脱出する。

3日後、ヤコブが脱出したことをラバンは知って、身内の者を率いて7日かけて追い着いた。もしも、主が天から直接介入して、夢の中で、ラバンを止めなければ、その結果はどんなに悲惨なものとなっていたことだろう。

私たちにとっても、人間関係程難しいものはない。人間関係は、最大の試練のひとつであり、主の訓練となる。

人間関係を通して、聖霊様は私たちを取り扱い、打ち砕かれて、主の似姿へと造り変える最高の訓練の時である。

しかし、主は、ヤコブとラバンの関係が最悪の結果に至らないように、配慮して介入され、ふたりは和解し、平和の契約(ミツパの誓い)を結んだ。(31:45-49)(参照:コロサイ1:20) 人間関係の中にも、天から介入してくださる主を見上げて、祈りつつ、主の赦しと和解の回復の時を祈り求めよう。

 

  • 結論:「ヤコブの生涯に見る、3つの神の恵み」

❶ 臨在の神(31:5) 主は、どんな時でも、どこにでも臨在され、私たちといつも共にいてくださるお方である。

❷ 災いから守られる神 (31:7)

❸ 報いてくださる神 (31:42)

彼は、ラバンに20年間苦しめられた。しかし、最後の最後は、主が、正しいさばきを行われて、祝福で報われた。

  • 適用: みことばを自分に当てはめましょう!

❶ あなたは、主のみこころを求める時、3つのサインで決断しますか?

❷ 主が、あなたの人生に介入して助け、守られたことはありましたか?

❸ 3つの恵み(臨在の神・災いから守る神・報いる神)を、あなたは信じますか?          主よ感謝します。