『 逆転人生 ~ヤコブの生涯~ 』  2020年7月19日  旧約聖書:創世記30章25~43節  片柳福音自由教会   

序.ヤコブは、故郷を追われ、ハランの叔父ラバンの所に身を寄せて、結婚し、男の子11人、女の子1人の12人の子どもと妻2人の大家族になった。20年の歳月を経て、カナンの故郷に帰る決心をする。

 

1. 変えられたヤコブの人生 「へりくだり地道に働く」(創世記30:25~27)

ヤコブは、叔父ラバンに生まれ故郷に帰る許可を求めている。ラバンに仕え20年の歳月が経とうとしていた。

ヤコブは、変わった。 身を低くして仕えてきた。ラバンに騙されて14年間無償で働いてきた。不必要で無駄としか思えない歳月がヤコブの固い自我を打ち砕き、ヤコブの生きる姿勢を根本から変化させた。貴重な主の訓練の時であった。

かつてのヤコブは、まじめな生き方を通じて、主の祝福を受けて行くというよりは、ずるい手段を用いて、欲しいものは手に入れる短絡的な生き方を求める人であった。しかし、この辛い20年の下積の生活をバネに、地道な生活を心掛け、コツコツと堅実な生き方を積み上げて、その結果、正当な報酬を得るヤコブとなっていた。(参照:ローマ5:2~5)

20年の苦難と忍耐の歳月は、聖霊様の取り扱いを受け、練りきよめられて、主の似姿へと変えられるために必要な歳月であった。自分の生き方が方向転換させられた貴重な宝物の期間となった。

私たちも同じように、先の見えない、苦しく無駄に感じる期間こそが、 実は、私たちの人生を内側から練りきよめ、軌道修正させる貴重な宝となり、主の訓練の時であることを覚えよう!

 

2. 逆転したヤコブの人生 「主の祝福と勝利」(創世記30:30~43)

 

叔父ラバンは、ヤコブによって祝福されたので、ヤコブの滞在を引き延ばすために報酬の提案をする。

そこでヤコブは、ラバンの羊の中で、縞毛とぶち毛と斑毛の羊と黒い羊、やぎは斑毛とぶち毛のやぎを報酬に下さいと求める。当時の羊は、真っ白で、やぎは、黒であった。だからラバンは喜んで同意した。狡猾なラバンは、羊とやぎの群れの中から、斑毛とぶち毛の羊とやぎを選び出し、ヤコブに与えないで、息子たちに与え、ヤコブから3日間の距離を取って離れさせた。

そしてヤコブには、白の羊と黒のやぎの世話をさせて、この中から、産まれる縞毛と斑毛とぶち毛の羊とやぎを与えると言った。こうしてヤコブは、さらに6年間、合計20年間ラバンに仕えることになった。ヤコブは、ポプラや、アーモンドや、すずかけの木の若枝を取り、それらの白い筋の皮を剥いで、群れが水を飲みに来るときに、それを置くと、群れは発情して、縞毛と斑毛とぶち毛の小羊と子やぎをたくさん産んだ。

この結果、ラバンの目論見は外れ、反対にヤコブの大逆転となり、ヤコブは 「このようにして、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、それにらくだとろばを持つようになった。」(30:34)

31章で、ヤコブは夢の中で主が豊かに祝福されたことを知る。(箴言10:22)「人を富ませるのは主の祝福。人の苦労は何も増し加えない。」

ヤコブの苦労は報われた。叔父のラバンに、何度も騙されたが、最後の最後に、人生の大逆転が起こった。

突然、天の窓が開かれたかのように、ヤコブの20年分の報酬に余りあるような家畜と奴隷と財産を得た。

(例話:『三谷康人氏の逆転人生』 カネボウ薬品元会長の三谷氏は45年のサラリーマン人生で、3度降格と左遷を経験した。逆転人生のモットーは、『神と人を愛する』(マルコ12:31・マタイ20:26) 妻といつも祈り、人の幸せを第一に求めた。「神への信仰」と「妻の存在」が、感謝と喜びと平安となり、会社人生を全うすることができた。)

 

  • 適用 : みことばを自分に当てはめましょう。

❶ あなたは、下積の期間、無駄と思える苦しみの時も、へりくだり地道に仕えますか?

❷ 逆転人生は、あなたにもあると信じ、主を待ち望みますか?

先の見えない、苦しい時こそ、あなたの人生を、内側から練りきよめ、軌道修正させる主の訓練の時であることを覚えよう! あきらめないで、神の時を待ち望もう!主は自由自在に祝福することできるお方である。主よ感謝します。

『人生は主の御手の中にある』 2020年7月12日 聖書:創世記30章1~24節 片柳福音自由教会                  片柳教会・主日礼拝

1.   人生は、主の 「御手の中にある」 (創世記30:1~21)

姉のレアが次々と子どもを産むのを見て、妹のラケルは、嫉妬の炎を燃やして、夫ヤコブに「私にも子どもをくださいよ!そうじゃないと死んでやるから!」 と文句を言った。さすがのヤコブも妻ラケルには手を焼き、堪忍袋の緒が切れてしまう。ヤコブは、怒って「私が神に代われるというのか。胎の実をおまえに宿らせないのは神なのだ。」 ヤコブのいう事は正しかった。子どもを産むことは、ただ主の御手の中に握られている。

私たちの人生の生も、死も、肝心なところは、すべて主の御手の中に握られている。私たちは、誰ひとり、生まれる時代も、生まれる場所も、性別も、何一つ自分では決めることはできない。なぜあの時、私があの事故にあったのか?子どもが病気になったのか? あの試練はなぜ?私たちは、天国において、主にお聞きするほかない。私たちの人生は、全能の主の御手の中にある。この厳粛な事実を認め、主に委ね、一歩一歩、主と共に歩んで行こう!

ラケルは、女奴隷ビルハによって、子どもの母になろうとした。「私の膝に子を産む」とは、「養子にする」事である。男の子は「ダン」(かばう)「神が私をかばってくださった」と「ナフタリ」(争う)「姉との死の物狂いの争いに勝った」で、ラケルは勝ち誇っているだけで、姉レアとの争いから解放されていない。

一方、姉のレアは、自分が子どもを産まなくなったので、今度は、女奴隷ジルパによって「ガド」(幸運)と「アシェル」(しあわせ)の二人を得た。そして「恋なすび」の事件が起こった。レアの長男ルベンが野原で恋なすびを見つけ、ラケルはこれを欲しがった。「恋なすび」を食べると妊娠しやすくなると信じられていた。ラケルは「恋なすび」と交換に夫をレアに与えた。結果、ラケルは妊娠しないで、反対に、レアは、5男「イッサカル」(神の報酬)、6男「ゼブルン(神の賜物)を産み、さらに女の子「ディナ」を産んだ。

 

2.   人生は、「 逆転に継ぐ逆転 」  (創世記30:22~24)

ラケルは、女奴隷の二人の子どもを持つことができた。しかし、レアが次々と6人もの子どもを産んで幸せそうにしている姿を見て、ラケルは非常に悩んだ。嫉妬と劣等感を感じ、自分の罪深さを自覚した。そしてラケルは、切実な求めをもって主に近づき、祈り求めた。このようなラケルを主は覚えておられた。そしてついに、主はラケルの願いを聞き入れて、その胎を開いてくださった。産まれた男の子は「ヨセフ」(加える)という意味である。

人生は、逆転に継ぐ逆転である。主は、嫌われていた姉レアを顧みて、次々と子どもたちを授けてくださった。

ところが、今度は、不妊の妻であった妹ラケルを顧みて、初めて子どもの出産へと導かれた。

初めからトントン拍子ではなく、主は、悲しみの後に喜びを、涙の後に祝福を、備えてくださる。

ヤコブの場合も、最初は故郷を離れ、心細い一人旅の人生から始まり、後にイスラエル12部族の先祖となり、

全世界の祝福の基となる不思議な体験をすることになる。同じように、私たちの人生にも逆転に継ぐ逆転が起こる。

主は摂理の御手を持って導き、私たちの人生に勝利と祝福を用意しておられる。

 

  • 適用: みことばを自分に適用しましょう!

❶ 「人生は、主の御手の中にある」ことを認めて、主にゆだねることができますか?

❷ あなたの人生にも、逆転が備えられていると信じますか?

(詩篇30編5節)「 まことに御怒りは束の間 いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても 朝明けには喜びの叫びがある。」  今、先が見えなくても、決して絶望することはない。 今、涙があっても、主を信じる者は、このお方にあって未来に希望を抱くことができる。

あなたの今の悲しみが、やがて、感動を伴う喜びに変えられることを信じて、前進しよう! 主よ感謝します。

『人生は主の御手の中にある 』 2020年7月12日 旧約聖書: 創世記30章1~24節 片柳福音自由教会     

 

1.   人生は、主の 「御手の中にある」 (創世記30:1~21)

姉のレアが次々と子どもを産むのを見て、妹のラケルは、嫉妬の炎を燃やして、夫ヤコブに「私にも子どもをくださいよ!そうじゃないと死んでやるから!」 と文句を言った。さすがのヤコブも妻ラケルには手を焼き、堪忍袋の緒が切れてしまう。ヤコブは、怒って「私が神に代われるというのか。胎の実をおまえに宿らせないのは神なのだ。」 ヤコブのいう事は正しかった。子どもを産むことは、ただ主の御手の中に握られている。

私たちの人生の生も、死も、肝心なところは、すべて主の御手の中に握られている。私たちは、誰ひとり、生まれる時代も、生まれる場所も、性別も、何一つ自分では決めることはできない。なぜあの時、私があの事故にあったのか?子どもが病気になったのか? あの試練はなぜ?私たちは、天国において、主にお聞きするほかない。私たちの人生は、全能の主の御手の中にある。この厳粛な事実を認め、主に委ね、一歩一歩、主と共に歩んで行こう!

ラケルは、女奴隷ビルハによって、子どもの母になろうとした。「私の膝に子を産む」とは、「養子にする」事である。男の子は「ダン」(かばう)「神が私をかばってくださった」と「ナフタリ」(争う)「姉との死の物狂いの争いに勝った」で、ラケルは勝ち誇っているだけで、姉レアとの争いから解放されていない。

一方、姉のレアは、自分が子どもを産まなくなったので、今度は、女奴隷ジルパによって「ガド」(幸運)と「アシェル」(しあわせ)の二人を得た。そして「恋なすび」の事件が起こった。レアの長男ルベンが野原で恋なすびを見つけ、ラケルはこれを欲しがった。「恋なすび」を食べると妊娠しやすくなると信じられていた。ラケルは「恋なすび」と交換に夫をレアに与えた。結果、ラケルは妊娠しないで、反対に、レアは、5男「イッサカル」(神の報酬)、6男「ゼブルン(神の賜物)を産み、さらに女の子「ディナ」を産んだ。

 

2.   人生は、「 逆転に継ぐ逆転 」  (創世記30:22~24)

 

ラケルは、女奴隷の二人の子どもを持つことができた。しかし、レアが次々と6人もの子どもを産んで幸せそうにしている姿を見て、ラケルは非常に悩んだ。嫉妬と劣等感を感じ、自分の罪深さを自覚した。そしてラケルは、切実な求めをもって主に近づき、祈り求めた。このようなラケルを主は覚えておられた。そしてついに、主はラケルの願いを聞き入れて、その胎を開いてくださった。産まれた男の子は「ヨセフ」(加える)という意味である。

人生は、逆転に継ぐ逆転である。主は、嫌われていた姉レアを顧みて、次々と子どもたちを授けてくださった。

ところが、今度は、不妊の妻であった妹ラケルを顧みて、初めて子どもの出産へと導かれた。

初めからトントン拍子ではなく、主は、悲しみの後に喜びを、涙の後に祝福を、備えてくださる。

ヤコブの場合も、最初は故郷を離れ、心細い一人旅の人生から始まり、後にイスラエル12部族の先祖となり、

全世界の祝福の基となる不思議な体験をすることになる。同じように、私たちの人生にも逆転に継ぐ逆転が起こる。

主は摂理の御手を持って導き、私たちの人生に勝利と祝福を用意しておられる。

 

  • 適用: みことばを自分に適用しましょう!

❶ 「人生は、主の御手の中にある」ことを認めて、主にゆだねることができますか?

❷ あなたの人生にも、逆転が備えられていると信じますか?

(詩篇30編5節)「 まことに御怒りは束の間 いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても 朝明けには喜びの叫びがある。」  今、先が見えなくても、決して絶望することはない。 今、涙があっても、主を信じる者は、このお方にあって未来に希望を抱くことができる。

あなたの今の悲しみが、やがて、感動を伴う喜びに変えられることを信じて、前進しよう! 主よ感謝します。

父の日礼拝『 ヤコブとラケルの出会い 』2020年6月21日 旧約聖書:創世記29章1~14節 片柳福音自由教会          

1. ヤコブは 「足を上げて」 旅を続けた (創世記29:1)

 

父と兄を騙して長子の権利を奪い取ったヤコブは、兄から命を狙われて、杖一本を手に、ハランを目指す旅に出た。信仰者三代目の彼は、ベテルで、生まれて初めて神に出会い、礼拝を捧げ、献身した。

共同訳は29:1「ヤコブは足を延ばして、東の人々の地へと赴いた。」と訳した。旧約へブル語の原語は「ヤコブは彼の足を上げた。」という意味で、これは「礼拝の本質」をよく表している。礼拝は、元気が与えられ、明日のために足が上がることを目的としている。29:1「東(ケデム)」には、「前方」という意味がある。

毎週の礼拝は、前へと向かうあなたの足を上げるためのものである。主に礼拝をささげ、月曜から遣わされる家庭や学校、職場に、前に向かって主と共に歩んで行こう。

 

2.  ヤコブと 「ラケル」 の出会い  (創世記29:2~13)

ハランに到着したヤコブを、感動的な出会いが待っていた。ヤコブは、井戸の傍らで、母リベカの兄ラバンの娘ラケルに出会い「口づけし、声をあげて泣いた。」その後で、叔父のラバンは、ヤコブを歓迎した。

『放蕩息子のたとえ話』で、遠い国で父の財産を湯水のように使い、罪の中に沈没した弟息子が父の家に帰った。父はボロボロの弟息子を抱きしめて、口づけして歓迎した。ヤコブも、異国の地で、受け入れられ、不安な旅人の生活から解放され、新たな生活を見出した。最初に出会ったラケルとの口づけは、この瞬間から二人の結びつきと将来の人生の決定的な出会いを予感させるものであった。

いずれにせよ、人生に悲しみが満ちていても、決して苦しみや悲しみばかりが続くわけではない。悲しみの後には、必ず喉の渇きと疲れを癒してくれるオアシスを主は用意してくださることを忘れてはならない。そうでなければ、私たちの人生は、とうの昔につぶれていた。あなたの人生にも、新風を吹き込んで支えとなってくれる人や信仰の友との出会いを、主は備えておられる。

3.  ヤコブと「ラバン」の交わり (創世記29:13~14)

「例話:小説家・高見順の詩集『死の淵より』の一節「一生の間に、一度も開かれなかった閉ざされたままの部屋が俺の心の中にある。今こそ、それを開く時が来た。いや、やはりそのままにしておこう。その部屋に俺は俺を隠してきたのだ。」 誰でも、夫や妻にも、親や子にも、これだけは知られたくない部屋を、私たちはお互いに持っているのではないか?でも、心を開く勇気がない。真実に生きることはそれほどに難しい。

しかし、ヤコブは初対面のラバンに、29:13「事の次第をすべて話した。」 ヤコブは、どうしてこのような大胆に生きることができたのか? それは、あのベテルでの神との出会いである。(28:15)「わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、、、決してあなたを捨てない。」とのみことばを聞き、主の赦しと愛を体験した。(第1ヨハネの手紙1:3-7) あなたもイエス様を信じ、十字架の血潮による罪の赦しと癒しを受け取り、恐れから解放される。そして夫と妻の交わりが、親と子の交わりが、神の家族の兄姉との交わりが、光の中で、真実な交わりに変えられる。主が備えてくださる、自由で真実な交わりを体験しよう!

適用:

❶礼拝は、あなたの人生が、前に向かうための助けになっていますか?

❷人生の悲しみの中で、オアシスのようなあなたの経験・出会いは、何でしたか?

❸本当に自由で真実な交わりの土台となる十字架の赦しと愛を、あなたは体験しましたか?主よ感謝します。

『ペンテコステ(聖霊降臨)の恵み』2020年5月31日 新約聖書: 使徒の働き2章1~18節 片柳福音自由教会

  • 序。今日は、『ペンテコステ(聖霊降臨)礼拝』です。
  • 1.  ペンテコステ(聖霊降臨)の出来事  (使徒2:1~4)

 

2:1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。

2:2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。                                  2:3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。

2:4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

「五旬節」とは過越しの祭りから50日目です。イエス様が私たちの罪のために身代わりとなられて、死んで3日目によみがえって50日目という日です。その時に、天からすごい音が聞こえてきました。

音が響いてきたと思ったら燃えるような炎の舌が現れて、そこにいた120名の弟子たち1人1人の上にとどまったのです。 そうしたら、弟子たちは自分達が知らなかった言葉で突然神の恵みを語り始めました。

このペンテコステ(聖霊降臨)で、3つの出来事が起こりました。

  •  第1は、「風のような響」が起こりました。 (2節)

「すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った」ヘブル語で「風」「息」「霊」は同じ「ルーアハ」で「風」は聖霊様の象徴でした。

  •  第2は、「炎のような分かれた舌」が現われました。 (3節)

「炎や火」は聖霊様を表す比喩として用いられます。主は聖霊と火によってバプテスマを授けるお方です。(マタイ3:11)また、聖霊様は、徹底的に人の罪と汚れをきよめる「焼き尽くす火」(ヘブル12:29)です。「舌」は「言葉」を意味し、福音の言葉を語らせる聖霊様のお働きです。

  •  第3は、「他国のことば」で話し出しました。 (6〜11節)

春の「五旬節」というユダヤ教のお祭りの日、ローマ帝国内から敬虔なユダヤ人やユダヤ教に改宗した人々が大勢に宮に集まっていました。地中海沿岸の15の地域とアジアとアフリカ、ヨーロッパの人々は、みな自分たちの言葉で弟子たちが福音(Good News)」を話しているのを聞いたのです。

  • 例話:日本で伝道しているある宣教師の証です。彼のお母さんはクリスチャンでしたが、お父さんは信仰に妻の信仰に反対し、迫害していました。でもお母さんは出来うる限りお父さんの言うことを聞いていたそうです。ある時、彼らの子供が病気になり、うわ言で何かを言い始めました。その時にお父さんは固まってしまったのです。
  • 病気で寝ているその子どもの口から「神を認めて悔い改めなさい」という日本語が出て来たというのです。その子のお父さんは日本語が少し話せたので、その意味が理解できました。でもその子どもは日本語が話せないのです。まるで嘘のようなホントの話なのですが、それで奥さんも驚いて「それは主だ。」と言って、これをきっかけとしてお父さんもイエス様を信じるようになったそうです。日本語をうなされて話した子どもは、今は、日本で宣教師となって伝道しているというのです。ペンテコステは、主の奇跡の御業により、わたしたちイエス様を信じるすべての人に聖霊様が注がれました。皆さんアーメンですか?

 

  • 2.  ペンテコステ(聖霊降臨)の恵み    (使徒2:16~18)

 

2:16 これは、預言者ヨエルによって語られたことです。

2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

2:18 その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。

ペテロは、旧約聖書の預言者ヨエルが紀元前800年前に預言したことの成就であると語ります。私たちも、弟子達が味わった驚くべき恵みを味わい体験することができます。その中に今、生きることが出来るのです。聖霊降臨の恵みを今朝、共にしかりと頂きましょう。  ペンテコステ(聖霊降臨)の恵みは、3つです。

 

  • 第1に、御言葉を証しする人になります。(2:17)

『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し』

聖霊様を注がれた人は、神のみことばを語り、証しする人になります。使徒ペテロは、無学で、ガリラヤ湖の田舎の漁師でした。ペンテコステの日、聖霊様に満たされたペテロは、この日、福音を語り、一回の説教で3000人の人々が罪を悔い改めて、イエス様を信じ、救われました。聖霊降臨の恵みは、イエス様を信じてわれ、聖霊様を注がれた人は、神のみことば語り、主を証しする人に変えられます。私たちも、聖霊様に満たされて、主の証人として、家族や友に、福音を語り、証ししましょう。皆さんアーメンですか?

  • 第2に、ビジョンと夢に生きる人になります。

2:17 『青年は幻を見、老人は夢を見る。 』

聖霊様を注がれた人は、ビジョンが与えられ、夢に生きる人になります。夢もなく、生きる希望のない若者がイエス様を信じて、ビジョンが与えられて、希望の人に変えられます。

例話:教会の一人の学生は、学校でつまずき、挫折して引き籠りになりました。彼は、マンションの自分の孤独な部屋に3年間も引き籠りとなりました。教会の仲間たちが彼に声を掛けて、教会の卓球に誘い、やがて教会の礼拝にも参加し、イエス様に出会いました。そしてイエス様を信じて、聖霊様は、彼にビジョンを与えられました。それは、自分と同じように、苦しいんでいる若者にイエス様の愛と希望を伝える人になることです。私は、信じています。主は、彼も用いてくださり、ビジョンが実現し、イエス様の愛と希望を伝える人になること信じています。私たちもビジョンと夢に生きる人になります。皆さんアーメンですか?

 

  • 第3に、主イエス様のような人になります。

 

ガラテヤ5章22~23節「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」

このペンテコステの時以来、大きく世界の歴史が変わりました。イエス様の弟子たちは、本当に弱々しく情けない自己中心の者たちでした。イエス様がこれから十字架にかかる苦しいところに立っている時に「俺の方が偉い」とか「自分の方が上だ」と言って、イエス様のお心を理解しないような者たちでした。        その上、イエス様が捕らえられたとき、弟子たちは全員イエス様を裏切り逃げてしました。ところがペンテコステの聖霊降臨以来、弟子たちは、全く変わったのです。本当に謙遜に仕える、御霊の実を結び、真の愛の人に変えられました。弟子のヨハネは、別名を「ボアネルゲ(雷の子)」と呼ばれていました。ヨハネは、すぐにカンシャクを起こし、切れて、怒る人でした。そのヨハネが後に「愛の人ヨハネ」と呼ばれるようになったのです。人が変わることが出来る。それは努力によってですか? いいえ、私たちは自分の力によっては、自分を変えることはできません。弟子たちの内に聖霊様が注がれて、内側から造り変えられたからです。それは今の時代も、私たち全ての者に聖霊が注がれるのです。 皆さんアーメンですか?

どうしてですか? 聖霊降臨の理由は、イエス様が地上に来て私たちの過去の罪、現在の罪、将来犯すであろう罪も全部含めて身に受け、十字架に身代わり架けられたからです。イエス様ご自身は何一つ罪を犯したことはないのに、むごたらしい罰を受けた。それは私の罪、あなたの罪の全てをその身に受けたからです。そして身代わりに裁きを受けられました。そしてイエス様は地獄に落とされ、そこから復活されました。もう罪は処罰されたのです。それゆえに、私達は罪の赦しを受け、信じる者に聖霊様が内住されます。聖霊様は私達を内側から造り変えて下さるために来て下さいます。イエス様を罪からの救い主、そして人生の主・王として信じるならば、すべての人にこの聖霊様が注がれるのです。「私は育ちが悪いから」とか「私は性格が悪いから」は関係ありません。イエス様を罪からの救い主として信じた人は、罪赦されて聖霊が宿り、内側から造り変えられていくのです。そして、聖霊様に明け渡して、主に従いましょう。あなたも、御霊の実を結びます。愛という実です。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という実が出てくるのです。これらの御霊の実は、私たちがイエス様の似姿に変えられることです。皆さんアーメンですか?

お祈りしましょう。「聖霊様、ペンテコステ礼拝を感謝いたします。教会の誕生と共に、私たちにひとりひとりに聖霊様が注がれたことを感謝します。人格者であられる聖霊様、あなたを歓迎いたします。弱く貧しい私たちの心を聖霊様に満たしてください。御霊の実を結び、愛の人、主の似姿へと変えてください。聖霊様によって夢とビジョンに生きる者と変えてください。主イエス様の御名によってお祈りします。アーメン」

『聖霊の力を受けて証人となる』2020年5月24日 新約聖書:使徒の働き1章1~11節 片柳福音自由教会

  • 1. 昇天は主イエス様の王の即位式 (使徒1:1~11)

 

主イエス様は、私たち全人類の救いのために、私たちの罪を身代わりに背負われて、十字架におかかりになり、死なれ、三日目に復活されました。復活は大変ショッキングな出来事であったと思います。誰一人死んだ者が生き返るなど考えもしない、想像もできないことでしたから、中には疑う人たちも多くいたに違いありません。

しかし、イエス様はそれから40日間にわたって、数々の確かな証拠をもってご自身がよみがえられたことを証しをしてくださいました。40日が過ぎまして、弟子たちが見守っているうちに、イエス様は天に携え上げられ、全く見えなくなってしまいました。そのとき白い衣を着た御使いが弟子たちのそばに立って、「あなたがたはどうして天を見上げているのか。やがてイエス様はあなた方が見たように、今度は逆に天からこの世に再び来てくださるであろう」と言われました。

さて、イエス様の昇天は現代の私たちには理解しにくい出来事です。地球は球体です。スーパーマンのように垂直に上昇するならば大気圏を突き抜けて、宇宙に到達します。イエス様は弟子たちの目の前から挙げられて、いったいどこに行かれたのでしょうか? ここで注意しなければならないのは、現代人は今の宇宙観を聖書に読み込もうとすることです。

しかし、ここは、当時の聖書の人々が、持っていた世界観を理解することが大切です。聖書の時代の人々は、「天」と「地」と「地下」という三層からなる世界観を持っていました。人々にとって「天」は文字通り上にあります。そこは主なる神様がおられるという領域です。

ですから、主イエス様の昇天は、イエス様が天にある神の右の座に着かれたのです。

  • マルコ16:19 「主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。」

これは、主イエス様が、本来のお姿、三位一体の神の第2位格で、神のひとり子のイエス様が、本来のお姿、栄光の王の王、主の主として、この全宇宙、全世界の王として即位されたことを意味しています。

受肉されたイエス様が、この地上で、全人類の救いのために十字架の死と復活をされて、この地上でのお働きのクライマックスとして、イエス様は昇天され、この宇宙の王として即位され、王座に着かれました。

ですから、イエス様は、昇天して、この地上から取り去られたのではなく、この地上を治めるために、その王座に昇られたのです。主イエス様は、すべての人の主となられました。ですからイエス様は、弟子たちの目の前で、天に昇天されました。これは王として即位式です。これは悲しむべきことではなく、むしろ喜ぶべき出来事でした。イエス様は、私たちの王として足趾されました。皆さんアーメンですか?

 

  • 2. 聖霊降臨は私たち弟子の任職式 (使徒1:4~5・8)

 

1:4 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」

復活されたイエス様は、弟子たちを直ちに、宣教へと遣わしたわけではありません。

むしろ、彼らがイエス様が昇天された後も、エルサレムにとどまり、聖霊様が下ってくるのを待つように命じられました。聖霊様の力を受けて初めて、弟子たちは主の証人になることができるというのです。

「教会は、聖霊様を受けてイエス様の証人となった弟子たちの共同体であると言えます。」

イエス様の宣教も、聖霊様の力によるものでした。

  • イエス様が公生涯の初めにまずバプテスマのヨハネより洗礼を受け、天から聖霊様が下り、その力を受けて、宣教をスタートされました。

ルカ3:21 さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、

3:22 聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

このようにイエス様のお姿は、弟子たちの姿と並行のパラレルになっています。弟子たちがこれから行う宣教は、イエス様の宣教の継続です。そして聖霊様の力によって導かれるものです。

  • 旧約聖書の中でも、見ることができます。北イスラエルと南王国ユダの時代に活躍した預言者にエリヤがいます。エリヤは、バアル崇拝と対決し戦いました。その弟子にあたるのがエリシャでした。先生のエリヤは、使命を終えると竜巻に乗って天に挙げられますが、弟子のエリシャはエリヤの2倍の霊を受けて、預言者としての働きを継続しました第2列王記1~2章にあります。

まず第1に先生のエリヤの宣教の働き、第2に、先生のエリヤの昇天、第3に、エリシャに霊の注がれて、第4に、弟子による宣教の継続というパターンです。

イエス様と弟子たちの関係も同じです。主イエス様のような宣教のお働きを、弟子たちは、聖霊様の力を受けて、継続発展させてゆくのです。私たちも聖霊様を受けて、キリストの弟子と任命されます。

そして遣わされるのです。皆さんアーメンですか?

 

  • 結論: 「聖霊様に満たされて、主の証人となる!」(使徒1:8)

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

聖霊様が下ると、あなた方は力を受けますと主は約束されました。この力は新約聖書のギリシャ語の「ディナミス」です。ダイナマイトの語源です。聖霊様の力は、大きな岩をも打ち破る力です。私たちの抱えている困難や問題、病、罪の性質をも打ち破る聖霊様の力です。

  • イエス様は、弟子たちが聖霊様を受けて、ご自分の弟子となることを告げられましたが、それがどのようになるのかは、三段階です。まずエルサレム、次にユダヤとサマリヤ、そして最後が地の果てまです、
  • 第1段階は、エルサレムから始まります。(使徒の働き2章のペンテコステの教会誕生です)
  • 第2段階は、ユダヤとサマリヤのイスラエル全土です。(使徒の働き8~9章ピリポやペテロの宣教です)
  • 第3段階は、地の果てです。パウロの世界宣教により実現しました。(使徒13章以降)

このように、昇天前に、イエス様が弟子たちに語られた御言葉は、主の教会がどのような存在であるのかを教えられました。教会は、聖霊様の力を受けてイエス様を証しする共同体となることです。

そしてクリスチャンと教会は、どのように宣教するのか、それはエルサレムから始まり、ユダヤとサマリヤ、最後は地の果てを目指すのです。教会は、イエス様の地上での宣教のお働きを引き継いで、神の民イスラエルを回復し、あらゆる民族に福音を証しするのです。

現代の私たちもまったく同じです。個人的に、イエス様を信じ、受け入れ、聖霊様の力を受けます。私たちはキリストの弟子となるのです。ペンテコステの聖霊降臨は、私たちクリスチャンのキリストの弟子としての任職式です。兵士が、素手で、裸で、戦場に行くことはありません。兵士は制服を着て、ヘルメットや靴を履き、武器を手に取って戦地に遣わされます。私たちクリスチャンも、裸で行くのではありません。

聖霊様の力を受け、御言葉で武装して遣わされます。そして遣われる地は、まずエルサレム、私たちの家族です。 次に、ユダヤとサマリヤ、あなたの学校や職場です。そして最後は、地の果て、日本と世界へと主の証人として遣わされてゆくのです。今週も、約束の聖霊様を待ち望み、聖霊様に満たされ、家族を励まし祝福しましょう。家事や育児に励みましょう。オンライン授業のお友達も、聖霊様に満たされて学校に行きましょう。職場にも聖霊様に満たされ、人々を励まし、祝福しましょう。皆さんアーメンですか?

お祈りしましょう「愛する主よ、復活のイエス様が昇天され王として即位されて、私たちと家族の歩みを支配し、導かれておられること感謝します。王の王、主の主が私たちに聖霊様を送り、キリストの弟子と任命してくださり感謝します。主よ、私たちを聖霊様に満たしてください。そして今週も主の証人として私たちをひとりひとりを用いてください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン」

『あなたは主を愛しますか ~主の3つの命令に生きる~』2020年5月17日 ヨハネの福音書21章15~19節  片柳福音自由教会       

  • 序. 復活されたイエス様は、失望落胆する人の傍らにお立ちになられます。そして私たちを慰め、励ましてくださるお方です。復活の主は、ガリラヤ湖で弟子たちの傍らに立ち、呼びかけ、大漁の恵みを与え、一緒に朝ご飯も食べました。そして3つの命令を与えられました。今朝は、私たちにも与えられている主イエス様の3つの命令の御言葉をご一緒に受けましょう。
  • 1.  主を愛しなさい (21:15~17)

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」                                  21:16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

21:17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」

ペテロたちは、イエス様と初めて出会った時、召命を受けて、主の弟子となり、仕事を捨てて、イエス様に従って行きました。しかし、弟子たちは、イエス様の十字架に躓き、自分たちの裏切りに失望落胆して、傷ついていました。イエス様はそのような人を放って置かれることはありません。イエス様は、失望落胆した人を訪ねます。イエス様は、その人の傍らに立たれます。そして励ましと慰めを与えられます。その人の心の傷を癒して、再び回復させてくださるのです。先週は、大漁の時、ペテロは上着をまとって湖に飛び込みイエス様の所に行きました。「上着とは、罪の悔い改めとイエス様を信じる信仰の上着です。」

 

  • イエス様はペテロに「あなたは私を愛していますか?」とチャレンジしました。実は、イエス様は神の愛、無条件の愛・自己犠牲の愛を表すギリシャ語のアガペーの動詞アガパオーという言葉を使って「ペテロ、あなたは私をアガパオー神の愛で愛するか?」と尋ねられたのです。ペテロはイエス様が大好きです。
  • でもイエス様を裏切ったから、もう愛しているとは言えません。そこで、ペテロは友情の愛を表すフィレオーという言葉で、「主よ、私は、フィレオー友としてあなたを愛します」と答えたのです。すると2度目も「ペテロあなたはアガパオー神の愛で私を愛するか?」と尋ねます。ペテロは、2度目も友情の愛 フィレオ―で「私はあなたをフィレオー友として愛します」と答えます。するとイエス様は、3度目は、「では、友情の愛・フィレオーでいいから友として私を愛するか」と尋ねます。ペテロは友情のフィレオーで「あなたを愛します」と3度答えました。なぜ、イエス様は、3度も繰り返し「あなたは私を愛するか」と尋ねられたのでしょうか?

ペテロがイエス様を三度否定したことに関係があると思います。ペテロは人を恐れ、自分を守ろうとして、三度も否定し、イエス様を裏切ってしまったのです。そのようなペテロに、イエス様は、三度、「あなたは私を愛しますか?」と問いかけ、チャレンジしました。それはペテロが、3度、主を裏切り、傷ついたペテロの心を、主は3度尋ねて、ペテロの傷ついた心を1つ1つ癒されたのです。

ペテロを過去の失敗と痛みと傷から、癒して慰め、励ました新しく立ち上がらせるためです。ペテロが前に向かって進み出すためです。ペテロの未来を開くためです。私たちの主は赦し主です。福音は罪の赦しの恵みです。でも、何んと多くの人が過去の罪や失敗にいつまでもこだわり続けていることでしょうか? 主が赦してくださっているのに、自分が自分を赦すことができない人が多くおられます 自分を赦せない、自分を受け入れられないという人は、決まって、他の人をも赦し、受け入れることができないのです。でも自分を赦すことによって、自分が癒されます。イエス様の赦しと癒しの愛の御言葉を受け取りましょう。イエス様は、あなたを赦し、癒してくださいます。

そして今後は、「あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」あなたは、イエス様ご自身だけを目当てにするか? あなたは、イエスだけを見上げ、何があってもイエス様から目を離さず、イエス様だけを目当てに「主を愛しなさい」と決断を迫っています。

「主を愛しなさい」これが私たちへの第1のご命令です。主を愛しましょう。

 

  • 2. 主の羊を牧しなさい (15~17節)

 

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」                                 21:16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

21:17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」

  • イエス様はペテロに、15節「わたしの子羊を飼いなさい。」16節「わたしの羊を牧しなさい。」

17節「わたしの羊を飼いなさい。」  3回、「主の羊を牧しなさい」と命じました。

「牧しなさい」とは、羊のお世話をすることです。ペテロを教会の奉仕者として任命しました。

現代の教会では、これは牧会です。これは牧師の使命です。牧師はみことばの教えと訓練、祈りによって、教会の健全な霊的成長のために働きます。同時に牧会は、広い意味では、全てのクリスチャンの使命です。

家庭にあってお父さんやお母さんは、子どもたちの牧会をします。子どもたちの身体と心と魂を養い育てることです。ですから家庭も牧会です。子どもたちに御言葉を教え、祈り、子どもの霊的成長に仕えます。

学校も牧会です。クラスメートのために祈ること、励ますこと、証しする事も羊を飼うことです。

職場も牧会です。同僚や部下を励まし、牧会します。お客様、上司や同僚の祝福を、会社の繁栄を祈り求め、仕えます。私たちは、何歳になっても遣わされた所で、ご近所や親族の羊飼いとして、羊を牧して、魂に仕えます。 教会の奉仕は、主イエス様のお喜びを目当てにして、教会の兄弟姉妹にお仕えするのです。兄弟姉妹に報いを期待してはなりません。イエス様を喜ばせるために主の羊を牧しましょう。

 

  • 第1ペテロ5章2~4節

5:2 あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。

5:3 割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。

5:4 そうすれば大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。

 

良い羊飼いは、権力をふるう王様のようにではなく、むしろ羊を愛して、羊のために仕えて、犠牲を払う人が羊飼い、牧者なのです。教会だけではなく、家庭でもそうです。家長として、親として、羊飼いのように仕えるのです。学校や職場でも、サーバントリーダーとして、イエス様が私たちに仕えられたように、しもべとして仕えるのです。羊に仕える教会の牧師や執事やリーダーたちもは、イエス様のように命を捨てる愛を模範とします。また家庭においてもしかりです。夫は、妻と子どもの羊飼いとして、仕えるように立てられています。妻も子どもの羊飼いとして立てられています。学校や職場でも、あなたは羊飼い、サーバントリーダーとして仕えるように遣わされています。あなたも遣わされた所で羊飼い、牧者として立てられています。あなたの羊を牧しましょう!

  • 3、 主に従いなさい (18~19節)

 

21:18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」

21:19 イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

  • 「自分の両手を伸ばす」という言葉は、両腕を伸ばして十字架に磔になるという古代の表現です。

明らかに、ペテロの殉教を預言した言葉です。ペテロは、自ら願って、逆さ十字架刑による殉教の死であったと言われています。 「わたしに従いなさい」という命令は、ただ生きているというのだけなく、自分の自我を、願望を十字架に付けて、主に従うのです。そうすれば、あなたは、ペテロやパウロのように、死においてさえも神の栄光を表わすことになるということです。あなたがイエス様の愛に応答し、主に従う時、主は、あなたが生きて時も、もちろん、死においてさえも、主は栄光を現してくださるのです。

私たちが、どんなに失敗しても、私たちを回復させ、主の召命を全うさせてくださる主です。

絶望せず、失敗を恐れず、イエス様の証人として、主に従い、主のご栄光のために励みましょう。

 

  • 結論: 「主の3つの命令に生きよう!」

 

私たちは、健康で、健全な信仰生活を送るために、今日の主の3つのご命令に生きることを確認しましょう。

❶あなたは主を愛しなさい ❷あなたは主の羊を牧しなさい ❸あなたは主に従いなさい

  • 実は、この3つは相互関係があります。もし、あなたがイエス様を愛するならば、あなたはイエス様に従っていきます。そしてあなたがイエス様の御言葉に従い、主のために生きるなら、イエス様のために羊を牧し、人々のたましい祈り、仕え、奉仕するようになります。こうしてあなた自身が神と人々を愛して、健全に霊的成長をするようになるのです。(聖化の恵みです)
  • マザー・テレサは言いました。『大切なのは、私たちがどれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけの愛を、その行いに込めるかということです。 小さいことに、大きな愛を!』

愛する皆さん、人生は一度きりです。後悔のないように、一度の人生を、あなたもイエス様を愛してイエス様に従い、主のために牧会の奉仕に仕え、主の3つの命令に生きましょう!アーメンですか?

お祈りしましょう 「愛する主よ、イエス様はペテロを愛をもって赦し、受け入れたように、私たちひとりひとりも十字架と復活の愛により罪赦され、癒されたことを心から感謝します。私たちもペテロのように、イエス様の3つの命令、チャレンジに応え、主だけを目当てに主を愛し、羊飼い、牧者として家庭や学校、職場で、教会で、愛をもって家族や隣人にお仕え、奉仕することができますように、そして終わりまで主にお従い出来ますように、イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン」

『母の祈り ~カナン人の母の信仰~ 』2020年5月10日   マタイの福音書15章21〜28節 片柳福音自由教会

 

  • 序.  今日は「母の日の礼拝」です。 お母様方の日頃のご労に拍手で感謝を表しましょう。

「おかあさんの影響」について考えてみましょう。

① アメリカの千人の牧師に対して、牧師の仕事を選んだ、最大の原因をたずねたところ、998人までが同じ答えでした。それは、「おかあさんの影響」でした。

②アメリカの16代大統領、アブラハム・リンカーンか、10歳の時、母ナンンーは自分の死期の近いことを知り、その枕元にアブラハムを呼びました。お母さんのナンシーはこう言いました。「私は、おまえがどんな偉い人間になるよりも、聖書の教える通りに生きてほしいんだよ。」と言い、一冊の聖書を渡してから、主のもとに召されたといいます。母の信仰がリンカーンを生んだのです。

  • 今朝は、主イエス様に出会った一人の母の姿から祈り求める信仰について、また母の愛について、主のみことばを受けましょう。 イエス様は、公生涯でただ1度だけイスラエルを離れて、ユダヤ人以外の異邦人の住む所に行かれました。ツロはガリラヤから北東に約50キロ離れた地中海に面した港町、シドンはさらに海岸沿いに北に35キロの異邦人の町です。様々な偶像礼拝が蔓延る日本のような異教社会です。イエス様はユダヤ人だけでなく、私たち異邦人をも愛しておられます。主は全世界のすべての人々を愛されておられます。第1テモテ2章4節「神はすべての人が救われて真理を知ることを望んでおられるのです。」そして主を求める魂、救いを求める魂は、世界中にいます。主の御言葉を受けましょう。

 

  • 1.  カナン人の母の2つの特徴   (15:21〜22)

15:21 イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。

15:22 すると見よ。その地方カナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。

娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。

イエス様が、異教の地ツロとシドンの地方に来たというニュースは、またたくまに、この地域一帯に知れ渡ります。そこにカナン人の一人の母親が登場します。彼女はイエスさまを尋ねてやって来ました。

さて、この名も無いカナンの女性には2つの特徴があります。

  • 第1の特徴は、この母には悩みがありました。

家族のことで悩んでいました。彼女の娘が悪霊に取りつかれて苦しんでいたのです。わが子を思う母の愛です。たくさんの名医みてもらいました。それでも一向に良くなりません。お医者がダメなら、異教の偶像の神々です。色々な偶像の宮を尋ね歩き、祈り、霊媒師に祈祷してもらってたのですが、ダメでした。そんなある日、イスラエルのメシヤと呼ばれるお方がこの町に来られたと聞きました。この母親は、なりふり構わずイエス様に憐れみを求めたのです。叫び声をあげてイエス様に憐れみを求めたのです。

  • 第2の特徴は、この母には信仰がありました。

22節でイエス様に対して「主よ。ダビデの子よ。」と叫んでいます。どれほどの信仰かはわかりませんが、主を呼び求める信仰がありました。しかも、この女性は「娘を憐れんで下さい」と言わずに、「私を憐れんで下さい」(キリエ・エレーソン)と主に叫んでいます。

私たちは問題、たとえば、家族や子育て、学校や仕事・病気、人間関係、恋愛や結婚の問題の原因を、いつも自分の外にあると思いがちです。この子が、あの人がとです。

しかし、信仰は、私と神との関係です。このカナン人の女性のように、「主よ。私こそ問題なのです。私を憐れんでいください!」と、叫び求めました。今のコロナの試練の中で、あなたも「主よ、私を助けてください。私を憐れんでください」と、正直に主に向かいましょう。皆さんアーメンですか?

 

  • 2、  カナン人の母の3つの信仰 (23~28節)

この母親は、イエス様に、喜ばれ、ほめられます。この母は主イエス様から大きな祝福をうけることができました。その3つの信仰とは何でしょうか?

(1)  無視されても求める信仰 (23節)

15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」

この母は、娘のことを思うと、辛くて、苦しくて、胸が引き裂かれるようで、叫ばずにはおられなかった。それに対してイエス様は、驚くべき事に、一言も答えられず、黙っておられた、無視されたのです。

あなたは友達に無視されたことはありませんか? 親に無視されたことはありませんか? 学校の先生から無視されたことはありませんか? 職場の上司や同僚から無視されて、「しかと」されたことはありませんか? こちらが挨拶をしても、顔をそむけられ、無視され何も返ってこない、その人が他の人には笑顔で挨拶をしているのを見ると、どんな気持ちになるでしょうか? 心は傷つきます。

イエスさまに、無視されたが、彼女は、主イエス様のあわれみと愛を、どこまでも、どもかでも求める信仰がありました。弟子たちは、この女があまりに叫び求め続けるので、うるさくてしかたがありません。イエス様に言いました。「このカナンの女は、うるさくて、とてもカナワン」。(23節)

人にうるさがられても、無視されても、なぜ、求めたのでしょう?この女性はイエス様のご人格をよく知っていたからです。 私たちは主なる神様をどれだけ知っているでしょうか?

聖書は、主は、愛の神、恵みの神、真実な神であることを啓示しています。

  • (マタイ5:45) 「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」
  • (2)   断られても求める信仰 (24~25節)

15:24 イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」

15:25 しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」

やがて、主イエス様はやっと口を開かれました。 しかし、冷たかった。

「わたしはあなたとは関係ない」と言われたんです。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには遣わされていません。」(24節) 主イエス様は、この女性の申し出と願いを断られました。イエス様の使命、宣教の優先順位はまず、イスラエルの民への宣教でした。

25節「しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。とさらに叫んでいます。あたかも、彼女は主イエス様の都合を無視して、主イエス様のあわれみと愛にどこまでも、どこまでも、すがりついていく主への信頼・断られても求める信仰がここにあります。

  • (3)  拒絶されても求める信仰 (26~27節)

15:26 すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」

15:27 しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」

主イエス様は、さらに冷たい言葉を投げかけられます。失礼ですね。イエス様は彼女を犬呼ばわりされたんです。みなさんがこの女性の立場ならばどうされますか? 無視されて、断られて、最後は、犬呼ばわりされる。私ならとっくに腹立てて、帰ってしまいそうです。

しかし、この母は言いました。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」 「 はい、イエス様、私は犬です。でもイエス様、小犬でも、ペットの犬は、ご主人様の食卓のパンくずをいただくではありませんか? 私と私の家族をあわれんで、ほんの少しの恵みをあわれみをください。」とあきらめないで、さらに求めたのです。

  • 15:28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。

ここに、この母の「見上げた信仰」があります。イエス様は彼女の信仰をテストされたのです。

私たちも時々信仰のテストがあります。でも、この母親の娘は癒されました。拒絶されたと感じても、主に求めましょう!皆さんアーメンですか?

 

  • 結論: 「私たちも、諦めずに求め続ける祈りの人となろう!
  • (1)主のあわれみと愛にすがりつく信仰です。
  • (2)主のみ言葉をそのまま受け入れる信仰です。
  • (3)主にへりくだって求める信仰です。

 

食卓から落ちるパンすぐでも、というへりくだった心・信仰です。

ヤコブ4:6 「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」

このカナン人の母親は、主イエス様に、第1に無視された。第2に断られた。第3に拒絶された。それなのに、主イエス様の愛とあわれみを受け、娘の病気はいやされました。どこまでも、どこまでも主イエス様の愛とあわれみを信じつづけ、み言葉を受入れ、へりくだった心と態度をもって、ひたすらに主に求め、祈り求め続けたからです。私たちも諦めずに、求め続ける祈りの人になりましょう!皆さんアーメンですか?

 

  • 例話: 水野源三さんは瞬きの詩人と言われています。小さい時にかかった脳性麻痺の影響で、彼は一生涯寝たきりで、体も口も動かせない生活を送りました。しかし、お母さんの助けを得て、ただ唯一動いた目の瞬きで、イエスさまをたたえる詩を作ったのです。

「白い雲は 母の顔  笑った顔が 泣いた顔に変わり 雨となる

雨の音は 私のために 祈り続けてくれた 母の声

雨上がりの空は 私の重荷を になってくれた 母の愛」

  • 「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。」(イザヤ38:5)と言ってくださる主は、かならず、私たちの祈りに答えてくださるお方です。皆さんアーメンですか?

お祈りいたしましょう。「天の父なる神様、母の日の礼拝を感謝いたします。私たちに母をお与えくださり感謝いたします。お母様方に豊かな顧みと祝福をお与えください。私たちも、このカンナ人の母のように、ひたすらに、へりくだり、主に向かい、祈り求め、あなたの約束と祝福を、受けられますように主イエス様の御御名によってお祈りいたします。アーメン。」

『舟の右側 ~ティベリア湖畔の奇跡~ 』2020年5月3日聖書:ヨハネの福音書21章1~11節 片柳福音自由教会

序。新型コロナウイルス感染症の影響で、子どもたち、お母さん方、受験生、仕事が困難となり経済的な戦いの中にある皆さん、ご高齢の皆さん、ご病気の皆さん、本当に大変な中でこのオンライン礼拝に参加されておられると思います。 イースターのイエス様の復活の後で、お弟子さんたちは、やりきれない空しさを抱えていました。ガリラヤ湖の別名ティベリア湖畔での弟子たちと復活の主の出会いの物語から主の祝福の御言葉を受けましょう。

  • 1. 昔の生活に戻った弟子たち (1~3節)

21:3 シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。

  • (1)  十字架から逃げたから

弟子たちは、エルサレムから生まれ故郷ガリラヤに戻って行きました。そこには、3度もイエス様を否んで逃げたペテロを筆頭に、イエス様を見捨てた他の弟子たちもいました。そしてガリラヤ湖で漁をしていました。なぜ一度は、捨てた漁師の仕事をしたのでしょうか?

弟子たちは、十字架に躓き、イエス様を裏切り、自分自身にも失望し、しかたなく、生活のために漁師の生活に戻っていたのかもしれません。いずれにしても、弟子たちが、十字架から逃げ出したことに違いはありません。失望落胆し、主イエス様と共に歩む事も、人生の目的も見失いかけていた弟子たちの姿をここに見るのです。

ヨハネ15章5節のイエス様のお言葉を思い起こします。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」

主イエス様から離れた歩みは、表面的には順調そうに見えても、本当の意味で、実を結び、実を残すことはないのです。

私も学生時代、留年し、卒業後の全ての道が閉ざされて、アルバイトの生活に明け暮れていた頃は、心はイエス様から離れて、それは砂を噛むような虚しい生活でした。

イエス様は、私について来たい者は、自分の十字架を背負って私についてきなさいとお命じになりました。十字架の道には、確かに苦しみ、痛み、戦い、迫害、そしり、辱め、犠牲があります。しかし、十字架の道を歩む者だけに本当の恵み、祝福、主の勝利が約束されているのです。

今朝、あなたは、自分の前に差し出されている十字架の道を歩まれていますか?それともそれを避け、安易な道を選ぼうとしていますか? 私たちの心を今朝、自己吟味しましょう。もし、あなたが十字架を避けておられたら、今日、選び直しましょう!皆さん、アーメンですか?

  • (2)   自分の能力や経験に頼っていた

弟子たちは、故郷ガリラヤに帰り、元の生活、生き方に戻ってしまいました。私たちも、イエス様にお会いする前の状態に戻ってしまう事がある事を教えてくれます。自分の生まれながらの肉の力で失敗し、だめだから主を信じ、主に拠り頼むように変えられたのに、信仰生活に行き詰まりを感じると私たちは、また昔の経験、昔の成功体験、自分の力、自分の能力に頼ろうとするのです。

本当に頼るべきお方、主から離れてしまうと、頼るのは自分の力や経験だけになってしまいます。

主から離れると、人は結局、限りある自分の能力や経験だけに、あるいは、親や家族、他の人や財産やお金に頼ることになるのです。ここに落とし穴があるのです。

 

  • 2.  岸辺に立たれた主 (4~11節)

 

(1) イエス様と再びお会いした弟子たち(4~5)

21:4 夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。

21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」

主イエス様は、ガリラヤ湖の岸辺に立たれました。ペテロたちが夜通し働いても、魚が一匹も取れず、疲れきった朝です。イエス様は、失望落胆する者の傍らに立たれます。

今朝も、主はいつも失望する私たちの傍らに立たれるお方です。

イエス様は、「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」と優しく呼びかられます。

これは、弟子たちの心を探る質問です。私たちの弱さ、失敗、実を結ばない人生を見透かしておられる質問です。 イエス様を離れては何も出来ない、本当の豊かな実を結ぶことが出来ない。そんな弟子たちの弱さ、失敗、落胆を、主は知っておられます。

  • キリストなき家事や育児、キリストなき仕事や勉強、キリストなき人生設計や家庭形成の空しさ、喜びのない人生をイエス様教えてくださいました。弟子たちも、私たちもイエス様に結びついたからこそ大漁の恵み、祝福を経験したのです。 これは単純な真理です。しかし、わかりきったこの真理を自らにあてはめるかどうかで雲泥の差がでます。主イエス様との正しい関係に入ることは、信仰の原点に立ち返り、イエス様を受け入れることがスタートです。

ペテロのことを考えてみましょう。7節で、弟子のヨハネが「主だ。」と言った時、ペテロは裸であったので、上着をまとって湖に飛び込んだと記されています。

「上着をまとった」ペテロの行動の中に主と正しい関係の回復の仕方を教えられます。主との関係が回復するためには”上着”が必要なのです。それは、「罪の悔い改めと主イエス様への信仰という上着」です。あなたは今日、ペテロのように、湖に飛び込む必要はありません。しかし、”上着”をまとい主の御前に出ることが必要です。今朝、あなたも「罪を悔い改め、イエス様を信じる信仰」をもって主の御前に出て、もう一度、人生をリセットをして、あなたと主イエス様との関係を回復しませんか?

 

  • (2)主のみ言葉に従ったから(6~11)

21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。                                                                      弟子たちは、主イエス様のみ言葉に従い、大漁を経験しました。

  • 主の御言葉に従うことは祝福の土台です。6節「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」「右側」とは「神の側」「神の権威と祝福の場所」意味します。

弟子たちが一晩中、網を打っていた舟の左側とは、自分の考えや経験、努力の側です。過去の成功体験です。あなたの今までの歩みは、舟の右側に網を打っていましたか?それとも左側に網を打っていましたか? 弟子たちは、イエス様に従い、舟の右側に、みんなで協力し、神の側に網を打ったのです!

その結果は、何と153匹の大漁でした。                                  21:11 シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。

この153匹という数字は、当時知られていた魚の種類とも、世界の民族の数とも言われます。

教会はどのような人々が来ても救いの網が破れることがありません。そして教会は1つです。

あなたも今までの左側の自己中心から、弟子たちのように、今度は、舟の右側に、みんなで協力し、主のみことばに従う時、大きな祝福を受け、大いなる御業を拝するのです。

家庭でも、学校や職場でも、実を結ぶ生涯となるのです。「イエス様を信じて、再スタートする時、人生はやり直せる。」そればかりか、パウロは、ピリピ4:13「私は、私を強くして下さる方(キリスト)によって、どんなことでもできるのです。」 と語っています。「主にあってマイナスはプラスになります。」

ご一緒に行ってみましょう「主にあって、マイナスはプラスになります!」 アーメン。

今のコロナの苦しみも、マイナスは主にあってプラスに必ず変えられます。

  • 21:9 こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。

21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」

21:13 イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また魚も同じようにされた。

イエス様は、裏切ったペテロたちを責める事もなく、むしろ疲れ切った弟子たちのために、イエス様は温かい朝食を備えておられました。「さあ食べなさい」焼きたてのパンと焼き魚です。日本ならは、炊き立てのご飯とみそ汁と焼き魚と漬物の朝食です。これは聖餐式です。黙って弟子たちに給仕し、仕えるイエス様のお姿は叱責以上の効果があります。弟子たちには、生涯忘れ得ぬ恵みと祝福の交わりとなったのです。

  • 結論 :「あなたの舟の右側に網を打ちなさい」  (ヨハネ21:6)

21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。

今日のみことばを受け、自分の生活にみことばを適用し、実践しましょう。

あなたが、何もとれなかったという経験は、何でしょうか?素直に自分自身を見つめ直しましょう。舟の左側に網を打って、実を結ばない繰り返しの出来事は何だったのでしょうか?

今朝、祈られたことのない方も、素直に「主よ、私を助けてください」と祈り求めませんか?

「罪の悔い改めとイエス様への信仰という聖なる上着をまとい」、人生の選び直しをして、主との正しい関係を回復しましょう!

❶あなたが、主の御言葉に従う時、大きな祝福があるのです。

今までのあなたの舟の左側に網を打つ、昔からの自分の能力や力に頼って、本当の意味で、実を結ばない空しい繰り返しではなく、本当の実を結ぶため、あなたの人生をリセットして、主に立ち帰り、選び直しをして、もう一度、あなたの舟の右側に、新しく神の側に、主に信頼し、主に拠り頼み、舟の右側に網を打って、主のみ言葉のチャレンジに応え、祝福を受けましょう!皆さんアーメンですか?

お祈りいたしましょう。「愛する主よ。感謝いたします。私たちが実を結ぶことなく、失望落胆の時も、あなたは私たちの傍らに立ち、呼びかけて、励まし、新しい備えをしてくださいます。主に信頼して、舟の右側に網を打ちます。今月もコロナの大きな不安と危機の中にあっても、おひとりおひとりが、家庭での育児や家事で、また勉強やビジネスにおいて、信仰により御言葉の原則に従い、あなたの祝福を受け、本当の実を、豊かな実を結ばせて下さい。主イエス・キリスト様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

『人生の同伴者 ~エマオ途上の物語~』2020年4月26日  聖書:ルカの福音書 24章13~33節 片柳福音自由教会

序.今朝は、イエス様が復活されたイースターの夕方の出来事、「エマオの途上の物語」です。私たちは、ひとりぼっちでは生きられません。私たちの歩む人生の同伴者についてご一緒に考えてみましょう。エマオ途上の二人の弟子と復活の主イエス様との出会いのみことばから主の祝福を受けましょう。

 

  • 1. イエス様は、あなたの人生の同伴者です。〜共に歩まれるお方〜(13-17節)

24:13 ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。

24:14 彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。

24:15 話し合ったり論じ合ったりしているところにイエスご自身が近づいて来、彼らと共に歩き始められた。

24:16 しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。

復活の夕べ、イエス様が十字架に架けられて死なれてしまったので、失望落胆した2人の弟子が、都エルサレムから西の村エマオに行くため日没の夕日に向かってトボトボと歩いていました。

  • そこに復活の主イエス様が近づかれた。しかし、彼らには分からなかった。私たちが、神はどこかに行ってしまった!と思える時も、悲しみと失意の感覚とは無関係に、主は共におられるのです。私たちの気分や感情とは、関係なく、永遠に共に歩まれるお方がおられます。主イエス様はあなたの人生の同伴者です。皆さんアーメンですか?

 

  • 2. イエス様は、あなたの人生の解説者です。〜あなたのエマオ(現実)を解説するお方〜(17-27節)

24:25 そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。

24:26 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それからその栄光に入るはずだったのではありませんか」

24:27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

 

  • 困惑する弟子にイエス様は、旧約聖書からご自身の十字架の死と復活による神の救いのご計画について解き明かされます。ここでイエス様は解説者として聖書を説き明かすのです。

私たちも弟子たちと同じように、聖書の意味も、自分の直面している現実も理解できないことがあります。しかし失望しなくてもよいのです。主は、あなたの人生に起こる出来事の苦しみの意味や人生の価値と目的を説き明かす解説者です。

  • 例話:『人生は刺しゅうの絵』

中世の偉大な神学者であり牧会者であったアウグスチヌスは、「人生とは、刺しゅうの絵の裏側を見ているようなものです。この地上では、私たちは、色々な出来事に、翻弄されます。 その出来事の意味が理解できずに私たちは、悩み、苦しみます。色々な糸が絡み合いごちゃごちゃになっています。

  • しかし、やがて天国に行った時に、主は、私たちに、表に描かれた美しい絵を見せてくださるのです。」

聖霊様は、みことばを通してあなたの人生を解き明かしてくださるお方です。イエス様は、あなたの人生の解説者となってくださるのです。皆さんアーメンですか?

 

  • 結 論 : 『イエス様は、あなたの同伴者です。』  (24:28-33節)

24:28 彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。

24:29 彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。

24:30 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。

24:31 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

24:32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」

24:33 二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。

 

この後で、二人の弟子は、イエス様を、家に迎え、共に食事をして、その時に、始めて、今まで解き明かしてくださった方が、イエス様だと分かります。するとイエス様のお姿は見えなくなりますが、ふたりの心は燃えていました。そして復活の証し人として、再び立ち上がっていくのです。

最後に『 Footprints (足跡)』という詩を紹介させて頂きます。

 

  • 例話: 詩  『 Footprints (足跡)』

“ある夜、私は夢を見た。

私は小高い丘に立ち、これまで歩んできた人生の砂丘を振り返って眺めていた。

延々と刻まれた自分の足跡と並んで、もう一組の足跡がついていた。

  • それは、「私は決してあなたを離れない」と約束してくださった、主イエスさまのものだった。

しかし、足跡がところどころ、一組しかなかった。それは、私がもっとも辛く苦しかったとき、悲しみのどん底

にあったと思えるようなときだった。

  • 私は驚いて、イエスさまに尋ねた。「私があなたをもっとも必要としていたとき、どうして私を見放したのですか?」 すると、こんな返事があった。「愛するわが子よ。私は一度も、あなたから離れたことはない。

あなたが試練にあって苦しんでいたとき、そこに、一組しか足跡が見えないのは、私があなたを背負っ

ていたからだよ。」”

主イエス様は、あなたの人生の同伴者です。イエス様は、あなたの人生の主、救い主です。

あなたはイエス様を罪から救い主として受け入れられたでしょう? 今日、イエス様をあなたの救い主として受け入れましょう。私たちには、今は、わからない事がたくさんあります。でも、やがて、イエス様は、あなたの人生の解説者として、全ての出来事の意味を解き明かしてくださるのです。

ですから、あなたも、イエス様をあなたの人生の主として心にお迎えし、人生の王として従いましょう。

お祈りをいたしましょう。「愛する主よ。私たちは、突然の出来事に翻弄されて、頭も混乱します。また失望落胆し、下を向いて彷徨う時、主よ、あなたは私たちの傍らに近づき、私たちの人生の同伴者となってくださることに感謝いたします。私たちの地上の旅路での様々な理解できな出来事も、やがてあなたは人生の解説者として、解き明かしてくださるこに感謝します。主イエス様、あなたを救い主として信じ受け入れます。主が私たちの同伴者、解説者として共に歩んでくださることに感謝します。主イエス・キリスト様の御名によってお祈りいたします。アーメン」