『ふたごのトマスと復活の主』2020年4月19日 聖書:ヨハネの福音書20章19~28節 片柳福音自由教会

日本と世界は、コロナウイルスの大きな試練の中にあります。全てをご存知の主が、私たち一人一人を顧みてください。医療の最前線で、懸命に労しているお医者さまや看護師の方々、行政や警察の皆様、患者さんたちを癒し、励ましてください。世界がこの危機を協力して乗り越えることができますように。また学校に行けずにいる子どもたち、ご家族のおひとりおひとりを励まし、お支え下さい。今日も命の御言葉と聖霊さまの力によって、私たちが励ましと祝福を受けることができますように、イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。」

  • 序。先週は、イースターで、イエス様の復活を記念する礼拝でした。この素晴らしい記念すべきイースターに主イエス様にお目にかかれなかったら、皆さんはどうでしょうか? さぞかし、ショックでないかと思います。 実は、弟子たちの中で、イースターの日、イエス様に会うことができなかった弟子が一人だけいました。

その人は「トマス」です。今日はこのトマスとイエス様との出会いの御言葉をご一緒に受けましょう。

  • 1.  ふたごのトマス  (ヨハネ20:24)

 

20:24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

このデドモと呼ばれるトマスとは、どういう人だったのでしょうか? このヨハネ20章に出て来るトマスを見ますと、ただのへそ曲がりの懐疑主義者、悲観主義者に見えます。

ですから、トマスは一般には「疑い深いトマス」と呼ばれています。『讃美歌21』の197番でも、「信仰の弱い人間、見ないと信じない疑い深い人、トマス」と歌われ、人間のマイナスの面を代表する人物のように扱われてきました。英語の世界では、『疑い深い人』のことを「Doubting Thomas」と言われるくらいです。

実に、ありがたくないあだ名です。私も今まではそのように単純に理解していました。この機会に、じっくりと聖書を学びました。そして、新たな発見がありました。その惠みを分かち合いたいと思います。

 

このトマスは、「デドモ」とも呼ばれます。この「デドモ」とは「ふたご」という意味です。

ですから、仲間の弟子たちからはいつも「デドモ」とニックネームで呼ばれていたのです。

なぜ、トマスが「デドモ」「双子のかたわれ」と呼ばれていたのか、その理由は聖書には書かれていませんが、おそらく実際に双子のうちの一人だったのでしょう。

古代においては、双子が生まれる事は、何か不吉な前兆として恐れられて、双子の片方を殺したり、二人とも殺したりする事がありました。その背景には、子どもを同時に何人も産むなど、獣みたいで汚らわしいという偏見があり、実際問題、赤ちゃんを2人育てることが経済的に貧しい社会においては、どちらか弱い方を、捨てて「間引き」する事もあったようです。初代教会は、そのように間引きされ、捨てられた孤児たちを積極的に受け入れ、神の子どもとして育てました。この愛の業が社会を変革していったのです。

さて、イエス様の12弟子たちを見みると、実はそのうち3組が、実の兄弟で弟子入りしています。

まず、漁師のペテロとアンデレ兄弟。次に同じ漁師で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ兄弟。そしてヤコブとタダイの兄弟。12人のうち半分の6人までが、兄弟そろってイエス様の弟子なのです。

ところが、どうして「双子」と呼ばれたトマスだけが独りぼっちなのか?  これは推測ですが、トマスの双子の兄弟は、生まれて間もなく引き離され、もう既にこの世にいないのではないか、とも考えられます。

もしそうだとすれば、トマスが生きているその命は、双子のもう一人が間引きされ、その犠牲の上に成り立っていることになります。弟子たちからもトマスは、いつも「おい、双子のかたわれ」と呼ばれていました。

まぁ慣れていたでしょうが、時折、トマスは、自分の代わりに命を絶たれたもう一人の兄弟のことを思い浮かべることもあったでしょう。

また、双子に生まれたトマス自身も、幼い頃から人々から気味悪がられ、差別される人生を送り、そのことがトマスの心に暗い影を落としていたと考えられます。

トマスが背負ってきた人生の暗さ、心の屈折を想像すると、トマスを単純に「不信仰な人間」だと裁く気にはなれません。私たちもそれぞれに、様々な過去、生い立ち、影を背負っていることを、双子のトマスは、私たちに教えてくれます。 第1のポイントは「ふたごのトマス」です。

 

  • 2、 苦悩するトマス (ヨハネ11:14~16)

トマスを理解するためには、ヨハネ11章14~16節のみことばを学ぶ必要があります。

11:14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。

11:15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」

11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」

 

この出来事の背景は、エルサレムから3キロの所にあるべタニヤの村のラザロが病で死んだのです。

主イエス様は、ラザロの眠りを覚ますために、ラザロの家に行く、と語られました。イエス様のエルサレムへの最後の旅です。ユダヤ教の指導者たちはイエス様を捕らえて、亡き者にしようと陰謀を企てていました。

弟子たちもそれを感じて、反対していたのです。でも、ただひとりトマスだけは、イエス様の死の危険を嗅ぎ取って、主が死なれるならば、俺たちも一緒に死のうと発言しました。トマスは、殉教の死を覚悟していたのです。 トマスはそれほどまでに、主イエス様を熱く、愛して、主イエス様に献身していたのです。

  • トマスはイエス様の死を予期していたものの、それが現実となったショックが大きく「傷心のあまり、イエス様に会わせる顔がない。忍びなかった」のかも知れません。もしそうだとすれば、復活の日に、弟子たちと一緒にいないで、トマスだけが不在だったのは、トマスの心の優しさの表れといってもよいでしょう。

主の十字架の死という悲惨な現実に触れて、トマスは、弟子たちから離れ、ひとり男泣きに泣き崩れ、立ち上がることができないほどに、落ち込んで、心が打ちひしがれていたのではないでしょうか?

立ち上がれないような人は、弱い人というのでなく、本当は心の優しい人です。言い換えれば、トマスは、正直な人です。トマスは、愛の深い人だったのでしょう。

愛の深い人は、悲しみも人一倍深く感じるからです。このような人なら、私たちは、自分の悩みや苦しみを共感してもらうことができ、トマスのそばにいるだけで、私たちの気持ちが落ち着くような気がします。

ここに良心の呵責に悩み、苦悩するトマスの姿を見ることができます。

  • 3.  赦されたトマス (ヨハネ20:25~28)

20:25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。

トマスは、主イエス様の十字架の死という出来事に直面しました。この十字架の出来事は、以前からトマスの心の中に潜んでいたもうひとつの影と重なり合って、大きな重荷となっていた可能性が高いのです。

トマスは、本来ならば、イエス様といっしょに死ぬつもりでした。しかし、現実には、自分はここに生きていて、イエス様だけが捕えられて殺されてしまった。こんな自分が生きるために、イエス様を見殺しにした……。この感覚は、トマスのこれまでの人生そのものと響き合うものがありました。双子のかたわれとして、自分の兄弟が殺されたおかげで、自分は、この世に生きている現実があったからです。

「ああ~、イエス様が自分の代わりに死に、自分はここに生きている」という事実は、彼の心のいちばん深い部分で、トマスを苦しめ続けている真実と重なり合うのです。だからこそ、トマスは、意固地になって、仲間の弟子たちに「俺は決して信じない。」と言ったのではないでしょうか。

  • 20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。

20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

8日後の日曜日、イエス様は心を頑なにしているトマス、ひとり意固地になってへそを曲げているトマスのために、わざわざイエス様は、現れて、トマスに十字架の釘の跡を示して、語られました。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手をみなさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。」と優しく語られたのだと思います。

双子の兄弟の死によってトマスの心にかかっていた暗い影、トマスを縛っていたトラウマは、イエス様の身代わりの十字架の死と復活によって新しい意味を与えられました。

「わたしがここに生きている、その背後には誰かの死がある」ということ。そのことで、心を病み、停滞したままでいるのではなく、「イエス様が死んでくれたからこそ、私は今を生かされているのだ!」

と現実を前向きに、しかし厳粛に受けとめ直して、人生を再出発する道を、イエス様は、トマスにお示しくださったのです。トマスにとって、それが復活のイエス様との出会いによる「赦し」の恵みでした。

「赦し」とは、私たちの罪深い現実を直視した上で、それでも「罰せられたり責められたりすることはもうないのだから、勇気をもって、希望をもって、そこから一歩踏み出しなさい」という呼びかけです。

すなわち、再出発への招きです。

罪をしっかりと自覚した上で赦された者は、自分のエゴイスティックな現実から目をそらすことは無い。でも、少しづつ、自分の人生のありかたを、変えてゆく。すなわち「悔い改め」に向かって行くのです。

20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」

こうして、トマスはイエス様に「私の主、私の神よ。」と最高の信仰告白をしました。復活の主イエス様に出会った者は、誰でも、イエス様はその人にとって、「私の主、私の神」となるのです。

私たちの主イエス様に、あなたも「私の主、私の神よ」と、今朝、信仰を新たに告白しましょう。

 

・結論: 「あなたは、聖霊様を受け遣わされる」(ヨハネ20:21~22)

20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

20:22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

トマスは、復活のイエス様に出会い、イエス様を信じ、「私の主、私の神よ」と信仰告白して、聖霊様を受け、トマスの人生は、新しく生まれ変わりました。

  • 新しく生まれ変わったトマスは、今度は、何とイエス様の双子の兄弟として歩んで行ったのです。

トマスはイエス様に似た者となり、イエス様のような生涯を送りました。それが双子のトマスなのです。

呪いの双子が、祝福の双子となったのです。イエス様は「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」とおしゃいました。その後のトマスの生涯は、「トマスの福音書」を書き上げ、遠くペルシャ、そしてインドまで宣教し、やがて殉教の死を遂げたと云われています。 私は、イエス様の双子となったトマスが大好きになりました。

皆さん、私たちもトマスのあとに続いて行きましょう。私たちも聖霊様に変えられてゆきましょう。

トマスのように主に遣わされたあなたの場所、家庭や学校、職場、教会で、最後まで主のために生きに、働き奉仕して、主に変えられた証の生涯を全うさせて頂きましょう!皆さん、アーメンですか?

お祈りいたしましょう。「愛する主よ。私たちは、今朝、それぞれの家庭や場所で、あなたによって招かれ、オンライン礼拝に集い、主の恵みを頂き、心から感謝いたします。私たちは、あなたから頂いた、この命が、復活の主の愛によって、赦され、生かされていることを常に思い起こさせてください。願わくは、私たちがそれぞれ自分に与えられた命を、他者から奪うためでも、他者を利用するためでもなく、お互いのために用いて、イエス様のふたごの兄弟として生きたトマスのように、私たちも与え、励ましと希望を与える、喜び多い人生を送ることができますように。愛する主イエス・キリスト様の御名によって祈ります。アーメン。主よ感謝します。」

イースター礼拝『主は、今生きておられる ~あなたは復活の証人となる~』片柳福音自由教会 2020年4月12日

イースター礼拝  『 主は、今生きておられる ~あなたは復活の証人となる~ 』  2020年4月12日    
聖書:マルコの福音書16章1~6節                片柳教会・主日礼拝

●序.ハレルヤ!イースターおめでとうございます。主イエス様は、よみがえられました。イエス様は十字架に架けられ、死なれ三日目の今朝、復活されました。今日から、礼拝はオンライン配信となりました。
礼拝堂は無会衆です。初めての経験で、不思議な感じですが、ご家庭の皆様と、イースターの朝に起こった復活からイースターの希望のメッセージ、主の祝福の御言葉を受けましょう。

●1. 石に閉じ込められた世界です  (16:1~3)

16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。
16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。

世界中の教会の建物には、共通してあるものが必ず1つあります。 何でしょうか? 
それは十字架です。イエス様は、私たちの罪や咎、病を背負われて、十字架で身代わりとなって、死なれました。十字架によって、私たちは、誰でも罪を悔い改めて、イエス様を救い主と信じるだけで、罪が赦されて、永遠の命が与えられ、救われます。十字架は神の愛のシンボルです。ここに神様の愛が示されました。

イエス様は、先週の金曜日、十字架に架けられて、死なれ、墓に治められた。
そこから今朝の物語は始まります。イエス様の遺体は墓の中に納められ、入口は大きな石で閉じ込められました。4節には、その石は非常に大きかったと記されています。動かし難いほどに大きな石、それは、動かし難い死という現実を象徴しているかのようです。女たちは、イエス様が死んでしまったという現実を前にして、ただ涙し、その大きな石で閉ざされた墓を見つめるだけでした。

私たちも同じように、身近な人の死に接する度に、人間の無力さを思わされます。
人は「死」に対して、無力です。何をもすることができません。どんなに愛していても、どんなに生きていて欲しいと願っても、死の前には、どうすることもできないのです。
私たちは、自分自身の死についても全く無力です。 中高生や青年の皆さんも、やがて自分の人生が、死という大きな石で、閉ざされている事を知ることになります。その死という大きな石は、押しても引いてもびくともしないのです。ある意味において、墓は私たちが死んでから入る所ではありません。
私たちの人生そのものが、大きな石によって閉ざされている墓に他ならないのです。

ですから、この大きな石は、私たちを閉じ込めている世界の象徴です。
今、日本と世界は、新型コロナウイルス感染の不安と恐怖という大きな石に閉じ込められています。
コロナだけではありません。病気を抱えられた方が、病という大きな石に閉じ込められています。
私たちは、その中で朽ちゆくことを待っている生ける屍です。
そのことを意識しようが、意識しまいが、それが死に定められた人間の動かし難い現実なのです。

ですから、私たちは人生において、虚無感を感じざるを得ないのです。その虚しさを、お酒や遊びで、趣味に没頭して、ひと時、忘れることが、できるかも知れません。
しかし、虚しさそのものを私たちの力によって人生から取り除くことはできないのです。

 さて、もし、このマルコの福音書が15章のイエス様の十字架の死をもって終わったのならば、単なる偉大な生涯の物語です。 そして、私たちに希望を与える物語とはならなかったでしょう。
なぜなら、私たちが知る、どんなに偉人も、英雄も、哲学者も、宗教家も、お釈迦様も、みんな必ず、死で終わっています。しかし、このマルコの福音書は15章で終わってはいないのです。
死が、この物語の終わりではありません。その続き、16章の復活があるのです。

●2. 石が転がされた世界です  (16:4~5)

16:4 ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。
16:5 墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。

女性たちは、日曜日の朝早く、墓に着きました。イエス様の体に香油を塗るためです。墓に向かって歩きながら、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。

●ところが、墓に着いてみると、なんとあの大きな石は、既にわきへ転がされていました。
これが、聖書が、伝えている事実です。 墓の石は、転がされていたのです。
四つの福音書全部が、口をそろえて、この大きな石が動かされた事実を伝えています。
なぜでしょうか?  それは、さらに大きな事実を、私たちに示しているからです。
実は、この大きな石は、私たちの動かし難い、死の現実が転がされたのです。
石を転がしたのは誰でしょうか?   主なる神様です。 人間ではありません。
私たちの人生を閉ざしている死の問題に、本当の意味で関わることができるのは人ではありません。
あなたの死と生を支配しておられる、主なる真の神様だけなのです。
あなたの死の問題に真の解決ができるのは人間ではありません。 主だけです。

イースターの朝、キリストは、死を打ち破り、よみがえられました。 ハレルヤ!イエス様は死に勝利されました。 主は、私たちに救いと永遠の命をもたらされました。
主イエス様だけが、私たちの人生に希望をもたらすのです。 大きな石は、死の問題だけではありません。あなたを閉じ込めている自分の限界、家族の問題という石、病気という石、試練の石、仕事や経済という石、様々な石に閉じ込められています。その大きな石を転がして、あなたに希望をもたらすお方は、主です。
主イエス様の復活は、石が転がされ、あなたの新しい世界の始まりを告げています。

●3. 主イエス様が、復活された世界です (16:6)

16:6 青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。

女たちは、キリストの復活を知らされたのです。彼女たちは、死を打ち破る生ける真の神に出会ったのです。 この出来事は、女性たちに単純に喜びをもたらしたのではありません。
驚いたということに、何と! 彼女たちは恐怖を感じたのです。女性たちが感じた恐れは、もっと深い根源的な恐れです。それは、「生ける真の神との出会い」そのものから来る恐れです。畏敬の念です。
人間の生と死を支配しておられる生ける真の神と出会って、抱いた畏れです。
あなたは、このような生ける真の神との出会いを経験されましたか?

ですから、神を知ることは、直ぐに希望には結びつかないのです。
まず、はじめに、あなたは、自分の魂の汚れ、心の闇、どす黒い邪悪な自分の罪と汚れを知り、
当然、聖い神様に裁かれて、滅ぼされ、自分を待っているのは地獄だという自覚無くして、イースターの本当の喜びを知ることが出来ません。

イースターの朝、最初に与えられたメッセージにもう一度耳を傾けましょう!
 ここで大切な事は、ただ「死んでしまったイエス様が復活された」と告げられているのではないのです。
「十字架につけられたイエス様は、復活された!」と、告げられているのです。

この「復活」という神の決定的な救いの御業は、十字架と固く結び付けられています。
イエス様は、あなたの罪を贖うために十字架を背負わされました。私の罪を、あなたの罪を贖い、赦すために、十字架で身代わりの死を遂げられたのです。
“神は十字架につけられたイエス様を復活させた”。だらか、あなたは、「あ~私はもうだめだ。わたしは滅ぼされる!」と叫ぶ必要はないのです。罪を犯したアダムが、主の御顔を避けて、エデンの園の木の間に身を隠したように、隠れる必要はないのです。十字架にかけられたイエス様を復活させられた主を仰ぐ時、
主はあなたの希望となるのです。どんなに失望し、絶望した人の人生でさえ、復活するのです。
主が復活した世界は、あなたへの新しい希望の世界です。 アーメンですか?

●結 論:  「あなたは、復活の証人となる」のです  (16:6)

イースターのメッセージは、今朝、あなたに届けられました。復活の朝、大きな墓の石は、転がされました。イースターのメッセージは希望のメッセージです。イエス様は、今、生きておられます。あなたは主に愛されています。イエス様を信じる者に、永遠の命を与え、主と共に生きる者とされました。

私たちは毎日、様々な重荷、悩みを背負っています。 新型コロナウイルスの不安や恐怖ばかりでなく、人間関係で傷ついた心、子どもや家族の将来、仕事や経済の不安、病気のことなど、大きな石によって、閉ざされ、閉じ込められています。
主は、あなたを閉じ込めている大きな石を転がしてくださいます。あなたの石は、取り除かれて、新しい世界に、復活のイエス様と共に生きるのです。そして復活の証人となるのです。
そのことをマルコは印象的に語っています。

●このマルコの福音書と他の福音書とでは、大きな違いがあいます。 最後に、それを紹介してメッセージを閉じたいと思います。 
マルコ以外の福音書は、墓にいたのは天使であると語っています。しかし、マルコだけは5節「墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が右側に座っていた」と書いています。
青年と書かれた若者は、14章51~52節にも登場します
14:51 ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。
14:52 すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。

「ある青年」は、ゲッセマネの園でイエス様が逮捕された時、暴徒たちが、この青年の捕えようとしました。
彼は亜麻布の下着一枚を脱ぎ捨て、素裸で、恥にまみれ、夜の闇の中に逃げて行った「あの青年」です。
このように、はっきりと対照的に描いています。この逃げた青年こそ、この福音書の著者マルコです。
マルコは、墓にいた天使に対して、あえて「青年」という言葉を使いました。
墓の中で、落ち着いて、きちんとした服の「青年」と、裸で恐れて、逃げ出したあの若者を鋭く対比するためでした。  
この二人の青年こそ、どちらもマルコです。マルコは、自分を「真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っていた」と、自分を復活の証人として物語の中に登場させたのです。
もちろん、実際には、そこにいたわけではありません。実際にいたのは天使です。
けれども、マルコは、自分もイエス様の復活の証人であり、このキリストの復活のもたらす力によって、以前のマルコはこの世の力を恐れ、ためらって、挫折しました。しかし、復活の主は、かつての落第生マルコを、もう一度復活させて、希望と確信の人に変えたのです。
あなたも、イエス様を信じることは、マルコのように、復活の証人となることです。躓き、挫折したマルコを造り変えられたように、あなたも復活の証人、証し人になるのです。
あなたは、マルコのように確信を持って、勝利の喜びをもって、空の墓のかたわらに座ることができるのです。さあ、あなたも、イエス様を信じ、復活の証人となりましょう。あなたの主は、今生きておられます。
アーメンですか?  

お祈りいたしましょう。
「復活の主イエス・キリストの様の御名を賛美します。よみがえりの朝、墓を閉ざしていた大きな石は取り除かれました。私たちのこの世界は、新型コロナウイルスや病気、試練や問題、人間関係、仕事や経済、人生の最後の死という大きな石で閉ざされています。しかし、主イエス様は死を滅ぼし、私たちの様々な問題で閉じ込めている世界から解放して、勝利の復活をされました。主は私たちの不安や恐れ、困難の大きな石を取り除き、主の平安と喜びに満たしてくださることを感謝いたします。私たちは、家庭や学校、職場に、マルコのように、主の証人として遣わされています。変えられた私たちの存在が人々の励ましと助けとなりますように、よみがえりの勝利の力に満たし、困難な中にあっても、私たちひとりひとりを守り、支え、豊かに用いてください。主イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン」

受難週 『どうして怖がるのか? ~心を感染から守る~』 マタイ8章23~27節 片柳福音自由教会2020年4月5日

●序.今、世界中が、新型コロナで大混乱の中にあります。世界の指導者たちは、第2次世界大戦以降、最大の危機であり、これは戦争であると語っています。
日本の政府も対策に必死です。教会も執事会を中心に様々な対応をしてきました。
また今日からは、オンライン礼拝の配信をスタートしました。
何よりも教会から1人もコロナの感染者が出ないように、また愛し合う神の家族が守られ、一日も早い収束が求められています。しかし、ノーベル賞の山中伸弥先生が話されているように、これは息の長い対応が求められます。スポーツにたとえるならば、100mの単距離競争ではなく、マラソンのような持久力が求められます。
マスクと手洗いとうがいの予防をしましょう。

最も危険なのは、私たちがパニックに陥ってしまうことです。「パニックとは、個人や集団が突発的な不安や恐怖・ストレスによって混乱し、錯乱した行動を起こすことです」今日は受難週ですが、12弟子たちがガリラヤ湖での嵐に遭遇してパニックに陥った出来事の御言葉から、私たちが不安と恐怖からパニックに陥らないように、何より私たちの体だけでなく、心が感染しないように、御言葉を受けて参りましょう。

●1. 突然の嵐 「恐れは内にあるものを表す」(マタイ8:23~26)

8:23 それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。
8:24 すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。
8:25 弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。
ガリラヤ湖畔での宣教を終えられたイエス様は、弟子たちと小舟に乗り向こう岸を目指して、出発しました。ガリラヤ湖は六甲おろしの風のように、すり鉢状のガリラヤ湖の突然の嵐は有名です。
この日も、最初は穏やかな風で順風満帆な舟旅でしたが、突然、天候が変わり、雨が降り出し、突風が吹き、嵐となりました。たちまち小舟は木の葉のように、嵐に揉まれ、船が水で一杯になり、今にも沈没しそうになりました。
弟子たちは、腕枕をして嵐の中でも、スヤスヤと眠っておられたイエス様を、ゆり動かして、「先生! 私たちが死んでも、かまわないのですか?」と叫びました。 

ここに、パニックに陥った人々がいます。
「突然の嵐が」「突発的な不安や恐怖」に当たります。
実は、弟子たちには、このガリラヤ湖の漁師たちが多くいました。いわば彼らのホームグランドです。その漁師の弟子たちでも、この時ばかりは、小舟が波をかぶり、水が一杯になり、船が転覆しそうになり、弟子たちは平常心を失って、パニックになりました。弟子たちは、イエス様に「船が転覆しそうですから、起きて転覆に備えてください」と言ったのではなく、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言ったのです。弟子たちは、まるでイエス様のせいでこんな目に遭っていると文句を言ってます。
自分たちは、転覆しないように必死になっているのに、平安に、スヤスヤと眠っているイエス様のお姿が、弟子たちの錯乱を助長したのでしょう。

●さて、ここで、弟子たちが嵐に遭遇して明らかになったことがあります。
8:26 イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」

問題は、大嵐の風や大波ではなく、弟子たちの小さい信仰であったということです。
嵐がやってきて、それが明らかになりました。問題はコロナではなく、私たちの内にある信仰の小ささにあるのです。それがパニックをもたらしていました。
私たちの内側を見つめましょう。そこにある嵐はどこから来ているでしょうか?
信仰の小さい、信仰の薄いものであることを素直に認め、主に御許に近づきましょう。
皆さんアーメンですか?

●2. 嵐を鎮める主 「主に恐れはない」(マタイ8:26)

8:26 イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。

弟子たちの心が恐れに満ち溢れて、パニックとなっている時、主イエス様は、おもむろに起き上がり、風と湖を叱りつけられると、すっかり凪となりました。
ここで分かることは、「恐れ」は主からくるものではありません。
「恐れ」は主からのものではないと認識しましょう。
「恐れてはならない。」と聖書の主なる神様は、何度も、何度も私たちに語っています。
●(Ⅱテモテ1:7)「 神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」
私たちは弱い存在です。力を失えば弱くなり、落ち込みます。愛が弱くなれば自分勝手になって、慎みがなくなってしまいます。
そして、周りの雰囲気に飲み込まれ、トイレットペーパーやパスタやラーメンの買い出しに走ったり、誤った考えに支配されてしまうのです。

予期せぬ出来事、想定外の出来事は、私たちに不安や恐怖を与えて、冷静な判断を奪うのです。
しかし、私たちの主イエス様は、私たちの心の中の嵐を鎮める力を持ったお方です。
なぜなら、主に「恐れ」はないからです。私たちは恐れを抱くとき、私たちの主イエスさまの御許に行きましょう!主は、あなたの心の嵐を鎮めてくださるのです。
主はあなたの恐れを取り去り、あなたに力と愛と慎みを与えてくださいます。
恐れを鎮めてくださる主に感謝しましょう! 皆さんアーメンですか?

●3.主は「コロナを超越している」(マタイ8:27)

8:27 人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか」

主イエス様が、荒れ狂う大嵐を鎮められて、海全体が凪となり、静かになったとき、実は、弟子たちの「恐れ」は、絶頂、ピークに達しました。
「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」
マルコの4章41節では「彼らは非常に恐れた」とあります。

イエス様は、私たちの心の中の嵐を鎮めるだけではなく、自然界の大嵐をも鎮める力あるお方、全知全能の神です。
「恐れ」は信仰の問題であり、信仰が小さいということは、主がどんなお方かであるのかという認識が間違っていたということです。

私たちが今、直面しています新型コロナウイルス危機は、リアルです。子たちは学校へ行けず、倒産する会社もあります。アメリカではすでに1000万人が失業しました。明日何が起こるか、誰もわからない。そんな中での希望は、この聖書の真の神様・イエス様です。主は、コロナや、私たちのどの問題をも超越しておられます。
そして、主は、あなたにとって、良い方であり、「恐れるな」とあなたに語っておられます。 私たちの偉大な主に感謝しましょう! 皆さんアーメンですか?

●結論:「 私たちは勝利する」(ヨハネ16:33)

(ヨハネ16:33)「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」

今週は、受難週です。レジメにプリントされている受難週のカレンダーに従い聖書箇所を読んで、主の十字架の御足の後をたどりましょう。主イエス様は、私たちの罪の赦しと救いのために、十字架を背負われ、ビアドロローサ(悲しみの道)を歩まれました。そして金曜日には十字架に架けられ、死なれ、来週の日曜日の朝、死から復活され、よみがえられました。イエス様は「あなたがたは、世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」と宣言されました。

私たちは必ず、勝利を得ることになるのです。やがて新型コロナのワクチンも完成し、消息することでしょう! 主イエス様は、勝利のお方です。アーメン!

例話:ニューヨークのタイムス・スクエアー教会のディレムナ牧師の証し紹介します。
「ある時、ボストンへ向かう飛行機が、かなりの悪天候にまきこまれ、墜落するかと思われるほどに何度も大きく揺れました。乗客は皆、パニックになったが、一人だけ、あわてず編み物をしている女性がいたました。どんなに飛行機が揺れても、落ち着いて編み物をやめなかった。そこで、このご婦人に尋ねたてみました。
「あなたは怖くないんですか?」と聞くと、するとご婦人は答えられました。
「私は今から、ボストンにいる息子に会いに行くところです。でも、私にはもう一人息子がありまして、ひと月前に死にました。ですから、いずれにしても、私は、息子に会いに行くことになるので、私は、あわててないのです。」 
これが最終的な私たちクリスチャンの希望です。皆さんアーメンですか?

”愛する主イエス様。私たちは今、日本と全世界が、今までに見たことのない試練に遭っています。しかし、あなたに予想外はいっさいない事を感謝いたします。あなたにとって、憐れみ、助け、そして救いを与える御腕が短すぎるということはありません。
アメイジング・グレイス(驚くばかりのめぐみ)が、私たちの教会、私たちの国に、そして全世界に与えられることでしょう。どうか、主よ、勝利の主イエス様が、私たちを導いてください。恐れと不安で感染した、私たちの心から、主の御力によって、「恐れと不安」を取り除き、主の平安と喜びで満たしてください。また第一線で懸命に奮闘しておられる医療関係者、行政の方々、何よりも、感染した人々や、恐れに囲まれている人々を覚えてください。彼らの目を主イエス様に向けさせてください。主イエス様こそ、癒し主であり、助け主であり、慰め主、私たちの希望です。今週も、主の御言葉によって確信することができますように、私たちを導き、祝福してください。私たちの救い主イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン“

自分のアキレス腱を知る 創世記27章1~30節 2020年3月22日 片柳福音自由教会

『 自分のアキレス腱を知る ~イサクとリベカの家庭崩壊~』  
旧約聖書:創世記27章1〜30節        

●序. アキレスは古代ギリシャのトロイ戦争の英雄です。映画「トロイ」ではブラッド・ピットがアキレスを熱演していました。敵の弓が偶然アキレスの足に当たり彼は死んでしまいました。あなたのアキレス腱は何でしようか? 「アキレス腱は、人間の弱点です。」今日のテーマは「自分のアキレス腱を知る」です。イサクとリベカの家庭に起こった跡目相続を巡る争いの顛末記から言御葉を受けましょう。

●1.イサクのアキレス腱は「肉料理」(創世記27:1~4)

27:1 イサクが年をとり、目がかすんでよく見えなくなったときのことである。彼は上の息子エサウを呼び寄せて、「わが子よ」と言った。すると彼は「はい、ここにおります」と答えた。
27:2 イサクは言った。「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬか分からない。

こんな和歌があります。「行く末の見える頃には、目がかすみ 人の言う事なにも聞こえず」
人は、自分の視力が衰えた時に、老いだけではなく、死を感じるようです。
イサクも年を取り、視力も衰えた時、自分の死の近いことを悟ります。
長男エサウを呼び「わが息子エサウよ。我が一族の家督の権利をお前にゆずることにする。長子の祝福をお前に授ける」と語ります。人生には限りがあります。親から子へ、子から孫へとバトンタッチとなります。人はみなかかる時を迎えるのです。世代交代です。長男エサウは、後継ぎとしては、相応しくありませんでした。エサウは雑婚です。

●26:34 エサウは四十歳になって、ヒッタイト人ベエリの娘ユディトと、ヒッタイト人エロンの娘バセマテを妻に迎えた。
26:35 彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった。

衝動的な長男エサウは、気の向くままに、ひとり、またひとりと妻としていました。エサウは、地元の異邦人の娘2人を妻としていたのです。親のイサクとリベカは終生は一夫一妻でしたが、エサウは一夫多妻で、イサクとリベカの悩みの種となっていました。エサウは、信仰的にも、世間的にも、両親とは合わず、特にリベカとは仲も悪く争いが絶えませんでした。
 すでに、皆さんもご存じのように、エサウは、以前、空腹の時に、一杯の豆のスープと引き換えに、ヤコブに長子の権利を売ってしまった。軽率な愚か者でした。
それでも、イサクは、一族の後継ぎの家督を長男サウに譲ろうとしました。しかし、これは主のみこころに反することでした。双子の兄弟が生まれる前に(創世記25:23)「兄が弟に仕える」と主が語っておられたからです。なぜ、主の御心に反しても、長男エサウにこだわったのでしょうか?

●27:3 さあ今、おまえの道具の矢筒と弓を取って野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。
27:4 そして私のために私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、私自ら、おまえを祝福できるように。」

エサウは、アウトドアタイプで、野の人でした。エサウは、猟が得意で獲物を捕ってきて父イサクにご馳走してくれました。イサクの「アキレス腱」は「肉料理」でした。イサクは、「肉が大好物」でした。私もお肉は好きです。イサクは、特に野生の鹿の肉が大好物でした。口語訳聖書は、3節で「しかの肉」と訳しています。日本でも、北海道のエゾ鹿の肉はブランドの美味しいお肉としてよく知られています。イサクは、エサウを祝福する時に、美味しい鹿肉の鍋料理を作らせて、それを祝福の交換条件に、肉鍋を食べさせてくれたら、お前を祝福しようと約束したのです。
これは、鹿の肉を食べるという文字通り自分の肉欲を満足させることが優先でした。   
 イサクは、無益な争いを避け、平和を愛する、信仰の人、祈り人でした。しかし、彼の霊的なアキレス腱、弱点は、「肉の料理」でした。

● 皆さん、皆さんはイサクを笑いますか? 
イサクという名前は「笑う」という意味です。この「しか肉の鍋料理を食べたい」これがイサクのアキレス腱、弱点でした。

私たちは誰しもみんなアキレス腱を持っています。弱点の無い人はいません。でも、自分のアキレス腱を知ってないと、大変な災い、大失態、時には禍根を残す呪いとなってしまうのです。アキレス腱を侮っては行けません。

アキレス腱は、人によって違います。イサクのように食べることが何よりも大好きな人、食欲、性欲、睡眠、人の評価、名誉欲、仕事中毒、ネット中毒、ゲーム依存、テレビ中毒、趣味中毒(ゴルフやスポーツ、音楽、骨董品の収集絵画、焼物、書、)過度なマイホーム主義、本の収集、車、お金、ブランド品、貴金属、株や投資、体のエクササイズ、お酒や女性、ギャンブル、その他、色々なものが私たちのアキレス腱となるのです。あなたのアキレス腱は、何でしょうか?自分の自身を見つめ、自分の弱さを知りましょう。皆さんアーメンですか?

●2. リベカのアキレス腱は「子ども」(創世記27:5~35)

27:5 リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それで、エサウが獲物をしとめて父のところに持って来ようと野に出かけたとき、
27:6 リベカは息子のヤコブに言った。「今私は、父上があなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。
27:7 『獲物を捕って来て、私においしい料理を作ってくれ。食べて、死ぬ前に、【主】の前でおまえを祝福しよう。』

妻のリベカは、年老いたイサクと兄息子の話を立ち聞きしていました。 夫が兄エサウを祝福しようとしていることを知ったリベカは、その長子の祝福を横取りして弟ヤコブに与えようとします。
しっかり者のリベカは、二人息子エサウとヤコブという双子のうち弟息子ヤコブを愛していました。このイサク一族の家風を守り継承するのは、粗野で粗暴な兄エサウよりも、家を守る、インドアタイプ、思慮深く知恵がある弟息子ヤコブと思い、ヤコブが好きでした。

●リベカのアキレス腱は、「子ども」でした。
母親は自分のお腹を痛めて子どもを出産します。
ですから我が子は特別に可愛いのです。子どもが成長しても、精神的な臍の尾が、まだ繋がっている場合が多いのです。
リベカは生まれ故郷ハランを出て、はるばるカナンのアブラハム一族に嫁いだのです。彼女の夢を実現してくれるのは弟息子ヤコブでした。
リベカは「子どものヤコブによって、自分の夢の自己実現」を目指していました。

私たちも、リベカのように、自分の子どもたちに自分の果たせなかった夢を賭けたりします。
実家の経済的事情で出来なかった習い事、ピアノ、バレエ、英会話、果たせなかった受験、有名大学への進学、ですから受験に熱心なお母さんたちが沢山します。子どもの就職も親の自己実現を目指したりします。経済的に苦労すると、経済的成功を子どもに架けたりします。高給取りの仕事、医者や弁護士、公務員、教師を目指します。また、クリスチャンの親は、我が子に主に献身して欲しいと願います。子どもたちが主に献身することは素晴らしいことです。しかし、息子に主から牧師の召命が与えられていないのに、自分の息子が牧師になることで、牧師の母になるという自分の夢の自己実現を目指す母親もいます。このように子どもによって自分の夢を叶えようとするお母さんたちがおられます。

●リベカは子どもを支配し、コントロールしていました。夫のイサクはそれに気づいて、「お前、やめとけ」と夫として妻の暴走を止めるべきでした。ところがこのような母親は大抵、子どもだけではなく、夫も支配し、家族をコントロールしています。ですから夫のイサクは家庭の事では無力で、霊的イニシアティブを発揮することが出来ずに、いつも見て見ぬふりをしていたのです。それがやがて大きな家族の危機を招くことになりました。「お父さん、あなたの出番です。」
夫のリーダーシップを発揮しましょう!
リベカは、肉の動機で行動を開始します。
リベカは、策略を巡らし、子どものために計画し、母のプランに従うように弟息子ヤコブに指示を与えるのです。

●27:8 さあ今、子よ、私があなたに命じることを、よく聞きなさい。
27:9 さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎを二匹取って私のところに来なさい。私はそれで、あなたの父上の好きな、おいしい料理を作りましょう。
27:10 あなたが父上のところに持って行けば、食べて死ぬ前にあなたを祝福してくださるでしょう。」
27:11 ヤコブは母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私の肌は滑らかです。
27:12 もしかすると父上は私にさわって、私にからかわれたと思うでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになります。」

このリベカの入れ知恵に、ヤコブは、首を横に振ります。「お母さま、それは出来ません。無理な事はやめてください。第一、お兄さんは、毛深いのに、私はツルツルですよ。お父様が祝福のために私の手を取ったら、気づかれるでしょう。そしてこの嘘つきめ、親をも騙そうというのかと、呪われてしまいます。ダメです。無茶です」 しかし、リベカは動じません。きっぱりと言い渡します。

●27:13 母は彼に言った。「子よ、あなたへののろいは私の身にあるように。ただ私の言うことをよく聞いて、行って子やぎを取って来なさい。」
27:14 それでヤコブは行って取って母のところに持って来た。母は父の好む、おいしい料理を作った。
27:15 それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった、上の息子エサウの衣を取って来て、それを下の息子ヤコブに着せ、
27:16 また、子やぎの毛皮を、彼の両腕と、首の滑らかなところに巻き付けた。
27:17 そうして、自分が作ったおいしい料理とパンを、息子ヤコブの手に渡した。

なんとリベカは、兄エサウの晴れ着をヤコブに着せます。
その上、子ヤギのふさふさした毛皮を、ツルツルのヤコブの両腕と首にかぶらせるではありませんか。まさに、偽装工作です。目の悪い年老いた父イサクを騙す策略でした。「わが子ヤコブや。これならたとえお父さんが祝福のために手を取り、首を抱いても、この毛深さは、エサウだよ。この着物の匂いもエサウだよ。さあ、お母さんが作ったこの美味しい肉の鍋の料理をお父さんに持って行きなさい。早くしないとエサウが帰って来てしまう。」そしてヤコブは、父イサクの所に参ります。

●27:19 ヤコブは父に、「長男のエサウです。私はお父さんが言われたとおりにしました。どうぞ、起きて座り、私の獲物を召し上がってください。そうして、自ら私を祝福してください」と答えた。
27:20 イサクは、その子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね、わが子よ。」彼は答えた。「あなたの神、【主】が私のために、そうしてくださったのです。」
27:21 そこでイサクはヤコブに言った。「近くに寄ってくれ。わが子よ。おまえが本当にわが子エサウなのかどうか、私はおまえにさわってみたい。」

「薄氷を履む」とは、まさにこれです。ヤコブは、いつばれるかと震えながら、「私は長男エサウです。どうぞ、起きて、私の獲物を召し上がってください。」ハラハラドキドキの場面です!
すると年老いた父イサクは、「ほお~。もう獲物を捕って来たのか? 早いこと。親孝行な息子よ。しかも料理もできたのか?」と半信半疑です。あわてたヤコブは「いや、これは主なる神様が、早くしてくださったのです」イサクは、いぶかります。「なんだと。主なる神様がだと、、、」
そんな信仰的なことをあのエサウが言うはずはないと怪しんだからです。そこで、「本当にエサウかどうか、お前に、さわってみたい」と言うではありませんか?

●27:22 ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」
27:23 ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。それでイサクは彼を祝福しようとして、
27:24 「本当におまえは、わが子エサウだね」と言った。するとヤコブは答えた。「そうです。」

父イサクは、半信半疑ながら、ご馳走を食べることを優先します。

●27:25 そこでイサクは言った。「私のところに持って来なさい。わが子の獲物を食べたい。そうして私自ら、おまえを祝福しよう。」そこでヤコブが持って来ると、イサクはそれを食べた。またぶどう酒を持って来ると、それも飲んだ。

父イサクは、ご馳走をほおばり、上機嫌となります。そして、祝福することになります。

●27:26 父イサクはヤコブに、「近寄って私に口づけしてくれ、わが子よ」と言ったので、
27:27 ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクはヤコブの衣の香りを嗅ぎ、彼を祝福して言った。「ああ、わが子の香り。【主】が祝福された野の香りのようだ。
27:28 神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。
27:29 諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。おまえを呪う者がのろわれ、おまえを祝福する者が祝福されるように。」

祝福の内容は、3つです。
第1に、作物についての祝福です。
第2は、兄弟たちの主となるようにとの祝福です。
第3は、他の国民に主の祝福をもたらすパイプとなるようにという祝福です。

これらは基本的には、アブラハム、イサクへの祝福と同じものです。
弟ヤコブは、ついに父イサクから、後継ぎとしての祝福を受けたのです。いいえ「受けた」のではなく、「だまし取った」のです。「横取りした」のです。「せしめた!」ほどなくしてエサウが狩りから帰って来て、一大騒動となるのです。

●27:30 イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くとすぐに、兄のエサウが猟から戻って来た。
27:33 イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べてしまい、彼を祝福してしまった。彼は必ず祝福されるだろう。」
27:34 エサウは父のことばを聞くと、声の限りに激しく泣き叫び、父に言った。「お父さん、私を祝福してください。私も。」
27:35 父は言った「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえへの祝福を奪い取ってしまった。」

エサウは弟ヤコブに神の祝福をだまし取られたことを知って、愕然とし、大声を出して、声の限りに泣き叫び、父に自分のためにも祝福を求めますが、時すでに遅しです。リベカとヤコブの偽りにもかかわらず、この祝福は一回限りの霊的な祝福であり、それは有効でした。

●3. イサクとリベカの「家庭崩壊」(創世記27:46)

27:46 リベカはイサクに言った。「私はヒッタイト人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘たちのうちで、このようなヒッタイト人の娘たちのうちから妻を迎えるとしたら、私は何のために生きることになるのでしょう。」

イサクとリベカの家庭は崩壊することになります。
兄エサウは、弟ヤコブを恨み、殺そうとします。その殺人計画を知ったリベカは、ヤコブを助けるためにまたも策略を巡らせます。夫イサクに、兄エサウの嫁のことでほとほと私は嫌になりました。
ヤコブまで異邦人の妻を持つことには耐えられない、だから今直ぐに、自分の故郷ハランに送り出して、妻をめとるように送り出して欲しいと懇願します。こうして家族はばらばらになります。
● 4人は、各々が、自分が蒔いた種の刈り取りをすることになります。
父イサクは、霊的アキレス腱の「大好きな肉料理」のために、兄エサウを偏愛しましたが、むしろ、弟ヤコブに祝福を与えてしまうことによって、懲らしめられます。
母リベカは、霊的アキレス腱の「子ども」のために、弟ヤコブへの異常な偏愛のゆえに、心を焦がし、離れ離れとなります。ヤコブを守るために短期間実家の兄ラバンの元に送りますが、20年間、ヤコブは母の元に帰ることは出来なくなるのです。ついにヤコブと一生涯、生き別れになってしまうのです。リベカは、再び息子ヤコブの顔を見ることはありませんでした。
長男エサウは、日頃より、霊的な事柄には無頓着で、長子の権利をスープ一杯で売り飛ばし、ついに長男の家督まで失って懲らしめを受けました。
弟ヤコブは、長子の権利と祝福を騙して奪い取り、結果、兄から命を狙われて、母の故郷へと落ち延びねばなりませんでした。しかも20年もの長き日に渡り、親の死に目にも会うことなく、叔父ラバンの元で、今度はヤコブが叔父に騙されて、こき使われて苦労して、懲らしめを受けます。

●結論:「自分のアキレス腱を知り、主により頼もう!」

❶ 自分のアキレス腱を知る

イサクとリベカの家庭の跡目争いを見ました。何か破れかぶれの人間模様、積み木崩しの家庭崩壊でした。聖書は、例外な人は、誰でもアキレス腱・弱さ持つものであることを告げています。主の御前に私たちすべての人は罪人であり、完全無欠な人はひとりもいません。みんな脛(すね)に傷を持ち、過去の影を背負っています。ですから私たちは弱さがあり、罪があります。そんな人間が救われるのは、ただ神の恵み、主の憐れみ、主イエス・キリスト様の十字架だけであることを指し示しています。愚かさと失敗を繰り返し、罪を犯し続ける私たち人間に対して、なお愛想を尽かすことなく、忍耐し、アブラハムの家系よりご降誕される救い主を伝えている主のお心です。
すべてを受け入れ、すべてを赦して、あなたを愛してくださる神の愛です。
こうして聖書は、いよいよ贖い主イエス様の救いの光を私たちに照らしています。
 あなたのアキレス腱は、何でしょうか? 自分の弱さを知り、主の御前にへりくだりましょう。
そして、救い主イエス様の十字架と救いと希望に心から感謝をささげ、主により頼み、主への献身を新たにしましょう。皆さんアーメンですか?

❷ 弱さの中に現れる主の恵みを知る (第2コリント12章5・9)

12:5 このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません。
12:9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

使徒パウロは「私は弱さを誇る」と語りました。当時のギリシャ文明では、勝者は強い者、敗北者は弱い者という価値観でした。オリンピックがギリシャから始まったことからも分かります。
力ある者が、勝者として賞賛される世界です。現代においても同じですね。しかし、使徒パウロはこのような文化の中で、自分の「弱さを誇る」と繰り返し語りました。それは第1に「キリストの力は、私の弱さのうちに完全に現われる」です。第2に。「キリストの力が私を覆うからです」
キリストの力が弱さのうちに完全に現されるとどうなるのでしょうか?
キリストの力があなたを覆って、あなたは強くされるのです。これが「弱い時にこそ、私は強いのです」というパウロの宣言です。「弱さを誇る」とは、私たちは、主の御前において被造物にすぎないこと、主の助けと支えなしには、「弱い存在」であることを自覚することです。

●クリスチャン作家の三浦綾子さんは病気のデパートのような人でした。次々といろいろな病気にかかったお方です。「私は、こんなに多くの病気にかかって、神様は私をえこひいきしているのではないかと思います。」と語っています。不思議な言葉です。それは、「私は病気を一つするたびに、一つずつ新しいことを学んだ。すばらしい恵みを受けた」と受け止めているからです。
病気になっても頑張りますという人はいますが、それとは格段に違うような気がします。三浦綾子さんの言葉は神への信仰から来ています。つまり、神は真実で良い方であるという信仰です。
確かに、彼女の病気は彼女の肉体を弱めましたが、彼女の精神をむしばむことはできませんでした。病は神から来る霊的ないのちを彼女から取り去ることはできませんでした。「外なる人は衰えても、内なる人は日々強められ」て行ったのです。病は確かに外なる人を衰えさせますが、彼女のうちに与えられた神への信仰は、彼女をより強くしていったのです。
皆さん、「キリストの力は、あなたの弱さの中に完全惟現れるのです。そしてキリストの力があなたをおおわれます。」だから「大いに喜んで、あなたの弱さを誇りましょう」皆さんアーメンですか?

お祈りいたしましょう。
愛する主よ、イサクとリベカの家庭、それは現代の私たちの家庭でもあります。夫婦に愛と信頼の一致がなく、親の偏愛によって、子どたちはバラバラとなりました。私たちはみなアキレス腱があります。そこから苦い刈り取りをしてきました。今、アキレス腱の弱さを認め、選び直します。主との関係を、夫婦の関係を選び直します。親子の関係を選び直します。弱さを認めます。弱さを誇ります。主の力で私たちをおおってください。主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン」

主から祝福を受ける優先順位 創世記26章13~33節 2020年3月15日 片柳福音自由教会

『 主から祝福を受ける優先順位 ~イサクの祭壇・天幕・井戸~ 』 2020年3月15日
  創世記26章13〜33節           片柳教会・主日礼拝

●序. 二代目の信仰者イサクの生涯の2回目です。イサクは、繁栄しますが、試練を受けます。

●1.イサクの「試練」(創世記26:13〜16)

26:13 こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。
26:14 彼が羊の群れや牛の群れ、それに多くのしもべを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。
26:15 それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に父のしもべたちが掘った井戸を、すべてふさいで土で満たした。
26:16 アビメレクはイサクに言った。「さあ、われわれのところから出て行ってほしい。われわれより、はるかに強くなったから。」

❶「妬み」
2代目の信仰者イサクは、主の約束とご命令に従い、父アブラハムと同じように生涯の大半ネゲブの荒野で過ごします。そこのゲラルに住んでいた頃、主の祝福を受け繁栄します。畑は100倍の収穫を見ました。畑ではなく、羊の群れ、牛の群れ、そして多くの僕たちを持つようになりました。
その結果、周囲のペリシテ人たちは、イサク一族の繁栄を見て妬みました。彼らはイサクからその理由を聞いて、その真の信仰に倣うのではなく、嫉妬したのです。一般的には、男は、人の成功に嫉妬し、女は人の幸福に嫉妬すると言われます。イサクの繁栄と成功は妬みを買いました。
❷「妨害」
ペリシテ人たちは、よそ者のイサク一家が繁栄したとなると面白くありません。ジェラシーの青い炎を燃やしてて、意地悪をしました。かつてアブラハムのしもべたちが掘った、すべての井戸に土を盛って埋めてしまったのです。井戸は何のために必要ですか? 畑のためにも、家畜のために必要な水の供給源です。ペリシテ人たちは、卑劣な手段で、イサクに与えられた主の祝福を止めようとしたのです。私たちクリスチャンも、時々、妬まれて、妨害される時があります。そのような時は、主のしもべとしての勲章を与えられたと感謝しましょう。皆さんアーメンですか?
❸「追放」
昔、ペリシテの王アビメレクは、アブラハムと契約を結び、互いに平和に暮らすことを約束しました。でも、そんな事は、忘れたかのように、イサクに対して、ペリシテの王アビメレクは、「我々の、この土地から出ていてくれ!お前たちは目障りだ!」とイサクを追放しました。
イサクは、祝福されて、「妬み」と「妨害」と「追放」の3拍子の試練を受けました。

●2. イサクの「信仰」(創世記26:17~22・32~33)

26:17 イサクはそこを去り、ゲラルの谷間に天幕を張って、そこに住んだ。
26:18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘られて、アブラハムの死後にペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返した。イサクは、それらに父がつけていた名と同じ名をつけた。

❶「不屈の忍耐」 (26:17~18)

荒野においては、井戸は貴重な財産です。追い出されたイサクは、アブラハムの死後、ペリシテ人が埋めた父の井戸を再び、掘り返しました。これは2代目の信仰者イサクの不屈の忍耐を示しています。もし、井戸がふさがっていなければ、イサクは何の苦労も無しに、祝福の井戸を受けました。でも、イサクは、自分で苦労して、父が掘った祝福の井戸を掘り直す必要がありました。イサクの信仰の特徴の第1は「忍耐」です。二代目の信仰者は、生まれた時から、主の祝福の下に生まれました。2代目は、主に留まらなければなりません。そして祝福を受けるためには忍耐が必要です。

❷「争わない平和の人」(26:19~22・32~33)

26:19 イサクのしもべたちがその谷間を掘っているとき、そこに湧き水の井戸を見つけた。
26:20 ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。彼らがイサクと争ったからである。

イサクは、争いを避ける平和の人です。戦わず、争わず、粛々と身を引いたのです。こうしてイサクのしもべたちは、ある谷間に天幕を移し、新しい湧き水の出る井戸を見つけます。ところが、ゲラルの人々は「この水はわれわれものだ」といちゃもんを付けます。そこでイサクは最初に堀った井戸に「エセク」(争い)という名前を付けます。イサクは、争わず、また次の井戸を探すことになります。

●26:21 しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。
イサクは、また新しい井戸を見つけます。ところが、人の世は一筋縄では行かないものですね。
イサクの井戸に水が湧いたと聞くと、ゲラルの人々が、また来て「その水は我々のものだそ!」と
度重なる無礼を働くのです。私だったら小さい目をむき出し、腕をまくりだったでしょう。
しかし、平和の人イサクは、この時も身を引くのです。この二番目の井戸を「シテナ」(敵意〉と名付けました。これで実は3回目の無礼です。この頃にはイサクは井戸掘り名人となっていました。

●26:22 イサクはそこから移って、もう一つの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」
争わない平和の人イサクは、そこからさらに天幕を移動して、また新しい井戸を掘り見つけます。その井戸は争いがなかったので、第三番目は、レホボテ(広々とした所)と名付けました。
イサクは、自分たちが苦労して堀って見つけた井戸を次々に奪われます。これは一族全体にとって大損害です。しかしイサクは、平和を愛する人でした。さすが、クリスチャンホームの2世ですね。再三の妨害と迫害を受けても、イサクは忍耐し、耐え忍びます。彼は、忍耐、柔和、謙遜、寛容、をわがものとしたのです。その結果、最初の物よりももっとすばらしい井戸を見出したのです。

●26:32 ちょうどその日、イサクのしもべたちが帰って来て、自分たちが掘り当てた井戸のことについて告げた。「私どもは水を見つけました。」
26:33 そこでイサクは、その井戸をシブアと呼んだ。それゆえ、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバという。
 「平和と信仰の人イサク」は、この地で最終的はシブア(誓い)という井戸を最終的に堀り当てるのです。この地こそ、神に祝福されベエル・シェバとして今日に至っています。イサクは、4度目に最高の井戸を与えられました。私たちの教会も、新会堂の土地を探し求め、5度閉ざされて、6度目に現在のこの土地、最高の土地を主が与えてくださいました。主は私たちのためにいつも最善のものを最善の時に、最善の方法でお与えくださる最善のお方です。皆さんアーメンですか?

●3. イサクの「優先順位」 (創世記26:23〜25)

26:23 彼はそこからベエル・シェバに上った。
26:24 主はその夜、彼に現れて言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」
26:25 イサクはそこに祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべたちは、そこに井戸を掘った。

 2代目のイサクは、井戸を巡る争いの後で、ベエル・シェバへと上ります。
その夜、主がイサクに現れ「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。」と約束されました。そこでイサクは父アブラハムが行なったように主のために祭壇を築きます。ここにイサクの人生における「優先順位」があります。これが大切な順位です。
 
❶イサクは、第1に「祭壇」を築きました。

「祭壇」とは、主を「礼拝する場所」を備えることです。イサクは、いつも一番最初にしたことは、主を第1として、礼拝することでした。主との交わり、祈りの祭壇を築くことでした。それがイサクの祝福の秘訣でした。私たちも、毎週の主日に、神の民として「礼拝」をささげましょう。毎日のデボーションでの個人礼拝をささげましょう。主との祈りの交わり人格的な関係を築き上げましょう。
皆さんアーメンですか?

❷イサクは、第2に「天幕を張りました」

「天幕は住居」を構えることです。家族との家庭生活です。勉強や仕事ではないのです。主の祝福を受けるクリスチャンライフの優先順位は、第2に、「家族」です。夫婦の関係、親子の交わりを大切にしましょう。皆さんアーメンですか?

❸イサクは、第3に「井戸を掘りました」

「井戸は生活の糧」です。「仕事」と言ってよいでしょう。学生なら「学校での勉強・学ぶことです」私たちの生活の優先順位は、いかがでしょうか? 逆になってはいませんか? 私たちは、時々、逆の生き方をしていないでしょうか? よい仕事(井戸)にやっきになり、住まいの家(天幕)で苦労し、困ってから、最後に主を礼拝し、信仰を求めるのです。 
私たちは、今朝、選び直しが求められています。主の祝福を受けるためには、あなたの生き方の順序を変えることです。生活の優先順位を変えることです。形式や時間の長さではありません。
あなたの重点がどこにありますか?主に祝福される生活は、第1に「礼拝」。第2に「家庭」、第3に「仕事・学校」の秩序です。皆さんアーメンですか?

●結論:「 主を第一とする時、あなたは主の祝福を受ける」 (26〜29)

26:26 さて、アビメレクがゲラルからイサクのところにやって来た。友人のアフザテと、その軍の長ピコルも一緒であった。
26:27 イサクは彼らに言った。「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。私を憎んで、自分たちのところから私を追い出したのに。」
26:28 彼らは言った。「私たちは、主があなたとともにおられることを確かに見ました。ですから、こう言います。どうか私たちの間で、私たちとあなたとの間で、誓いを立ててください。あなたと盟約を結びたいのです。
26:29 私たちがあなたに手出しをせず、ただ良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないという盟約です。あなたは今、主に祝福されています。」

❶ 主の祝福は、周りの人々との和解と平和に導く。

イサクを妬み、ゲラルから追い出したアビメレク王たちは、主がイサクと共におられ、イサクを祝福されていることを、ハッキリと見たのです。彼らは、真の神に敵対することは出来ないことを悟りました。そして和睦を申し出てきたのです。改めて和解の契約を結ぶために来たのです。
イサクは、戦わずして、主にあって勝利したのです。

❷ 主の祝福は、伝道の実を結ぶ。

26:28 彼らは言った。「私たちは、主があなたとともにおられることを確かに見ました。」
26:29「あなたは今、主に祝福されています。」

なんと素晴らしい言葉でしょう?あなたの周りの人たちは、あなたを見た時、このようい語るでしょうか? 伝道の秘訣は、ここにあるのではないかと思います。私が変えられること、あなたが聖霊様によって変えられ、主に祝福される。あなたがいつも主と共に生きている。そしてあなたが主に祝福されている、それをあなたの家族や親族、学校や職場の人が見て目を見張り、主を崇め、主を信じる者とされるのです。あなたが主の似姿に聖霊様によって変えられず、あなたが主に祝福されず、あなたが主と共に生きていることなくして、どんな伝道の方策も、どんな宣教の戦略も、すべては、机上の空論となります。人の魂を救うのは、生ける主なる神様です。
今日の伝道の困難さは、キリスト者である私たちが、しっかりと主の祝福にあずかっていないからではないでしょうか?未信者の人々が、あなたを見て、はっきりと主が共におられることを知ることができますように。
(第1ペテロ3:9 )「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」

●祝福の秘訣は、生活の優先順位です。礼拝第一、家庭第二、仕事(学校)第三です。
あなたの人生の優先順位をはっきりとしましょう。
第1に、礼拝を通して、主との関係・人格的な交わりが深く満たされます。
第2は、人との関係・夫婦・親子・神の家族である兄弟姉妹との関係・交わりが祝福されます。
やがて、互いに癒され、赦し合いと和解が与えられ、主の祝福が満ち溢れるのです。
第3に、仕事が繁栄し、学校や受験において豊かな実を結びます。
主の祝福にあずかりましょう。皆さんアーメンですか?

お祈りいたしましょう。「父なる神様、御子イエス様、聖霊様、三位一体の主の御名を心から賛美します。今、世界は、新型コロナウイルス肺炎が蔓延し、世界は大きな不安と恐れの中にあります。主が、静まりと平安を与えて下さり、患者さんたちの癒しと医療の最前線で奮闘されている方々の主の守りと一日も早い収束を祈ります。主よ、私たちの地上の歩みは、様々な困難や試練があります。
妬みや嫉妬で意地悪や妨害、迫害を受けたりします。イサクは「平和を愛する人」で、無用な争いを避け、隣人との平和を求めました。そしていつも変わらず、いつも第1に祭壇を築き、礼拝をささげ、第2に天幕を張り、家族との関係を大切にし、第3に井戸をほり、仕事に励みました。それが主から祝福を受ける優先順位でした。今朝、私たちも人生の優先順位を選び直します。おひとりおひとりを祝福し、周りの人たちと和解と平和へとお導きください。私たちの主イエス様との歩みを見て、主の御名があがめられ、家族や友が主の救いに導かれますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン」

約束の地に留まる 創世記26章1~13節 2020年3月8日 片柳福音自由教会

『 約束の地に留まる ~イサクの試練と祝福~ 』       2020年3月8日

  旧約聖書; 創世記 第26章1~13節        片柳教会・主日礼拝

●序。『新型コロナウイルス肺炎』で、イタリアの学校も休校となっています。
ミラノにあるアレッサンドロ・ヴォルタ高校のドメニコ・スキラーチェ校長の手紙が話題となっています。

「親愛なる生徒の皆さん。私は皆さんにはこう伝えたい。冷静さを保ち、集団のパニックに巻き込まれないこと。予防策を講じつつ、いつもの生活を続けて下さい。せっかくの休みですから、散歩したり、良質な本を読んでください。体調に問題がないなら、家に閉じこもる理由はありません。スーパーや薬局に駆けつける必要もないのです。マスクは体調が悪い人たちに必要なものです。世界のあちこちにあっという間に広がっているこの感染の速度は、われわれの時代の必然的な結果です。この手の危機に打ち勝つ際の最大のリスクについて、それは社会生活や人間関係の荒廃、市民生活における蛮行です。見えない敵に脅かされた時、
人はその敵があちこちに潜んでいるかのように感じてしまい、自分と同じような人々も脅威だと、潜在的な敵だと思い込んでしまう、それこそが危険なのです。 16世紀や17世紀の時と比べて、私たちには進歩した現代医学があり、それはさらなる進歩を続けており、信頼性もある。合理的な思考で私たちが持つ貴重な財産である人間性と社会とを守っていきましょう。それができなければ、本当に ‘ペスト’が勝利してしまうかもしれません。では近いうちに、学校でみなさんを待っています。

●26章はアブラハムの息子イサクの生涯です。イサクの信仰について御言葉を受けましょう。

●1. イサクは 「二代目の信仰者」

 さて、イサクの生涯を考える上で大切なポイントがあります。それは、イサクは、信仰の父アブラハムの息子であることです。つまりイサクは二代目の信仰者なのです。アブラハムの跡を継ぐというのは、単に財産を受け継ぐことではありません。イサクは、アブラハムの信仰の継承者となったのです。
アブラハムの信仰。それは、主の祝福の約束を信じる信仰です。主はアブラハムに、あなたの子孫は大いなる国民となり、主の祝福の担い手となり、すべての民族の祝福の基となると約束されました。
アブラハムはこの約束を信じて75歳で旅立ったのです。100歳で与えられたイサクは、アブラハムにとって、主の祝福の約束の実現の第一歩でした。イサクは、生まれた時から主の祝福の中に置かれていました。二代目とはそういう者です。イサクは、自分では何の苦労も努力もなしに、最初から、主の祝福の下に生まれて来ました。日本では、ご両親が、あるいはどちらか片親だけでも、クリスチャンである親のもとに生まれた人は、まさにそういう特別な祝福の下に置かれていると言えます。もしも、あなたがそうならば、あなたは「宝くじに当たったようなものだ」と言えます。この国において、クリスチャンの家庭に生まれる確率は、まさに宝くじに当たるくらい大変なことで、素晴らしい主の恵みです。このように二代目は、主の特別な祝福を受けているのです。皆さん、主に感謝しましょう。イサクの生涯の出発点には、自分の願いや意志とは関係なく、気がついたら既に主の祝福の下に置かれていたんです。
 しかし、クリスチャンの家族の下に生まれたからといって、自動的にその祝福を受けることができるわけではありません。本人がその祝福を担う者として生きるようになるかどうかは別問題です。そのためには、主の約束を信じる信仰を受け継ぐことです。この信仰の継承は、財産の継承のようなわけにはいきません。「信仰者の二代目」として生まれた者が、「二代目の信仰者」になるためには、通らなければならない道があります。イサクは、どのようにして本物の信仰者となったのでしょうか?

●2.  イサクは「約束の地に留まれ」 (創世記26:1~5)

26:1 さて、アブラハムの時代にあった先の飢饉とは別に、この国にまた飢饉が起こった。それでイサクは、ゲラルのペリシテ人の王アビメレクのもとへ行った。

イサクは、父アブラハムと同じように遊牧の民でした。そこに飢饉が起り、牧草がなくなると、草を求めて遠くまで移動しなければならないのです。そこでイサクはゲラル地方に行きました。そこは、ペリシテ人の王アビメレクが支配している所です。イサクはもともとは、そこを通って南のエジプトにまで行く予定でした。父アブラハムも飢饉の時は、エジプトに避難しました。創世記12章にあります。それが当時の常識でした。ところが、今回は、主が先手を取って、エジプトに行くことを禁じられたのです。
●26:2 主はイサクに現れて言われた。「エジプトへは下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。
26:3 あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす。
26:4 そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与える。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

主がエジプトに行くことを禁じられたのは、なぜでしょう? 
イサクを「約束のこの土地」に留まらせるためです。「この土地」とは、主がアブラハムに、「わたしはあなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与える。あなたの子孫によって、全世界が祝福を受けるようになる。」と主は約束して下さったのです。エジプトに行くことは、その約束の地の外に出ることです。だからあなたは、約束の地に踏み留まって、苦しくてもそこで生きなさい、と主は言われたのです。この命令が意味しているのは何でしょうか?私たちも同じです。主の祝福の約束を信じて、そこから逃げ出すことなく、その下にしっかりと留まりなさい、ということです。

●26:5 これは、アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの命令と掟とおしえを守って、わたしへの務めを果たしたからである。」
アブラハムも、様々な試練を通して信仰が成長しました。しかしアブラハムとイサクでは、試練の目的が違います。

初代の信仰者であるアブラハムの場合は、主の祝福の約束を信じて、行き先を知らずに旅立ち、試練の中で主のお示しになる道を歩むことが求められたのです。

一代目は「主に従い続けることが」求められています。しかし、二代目のイサクの場合には、「主に留まり続けること」が求められています。
試練の中でも、2代目は、生まれた時に既に与えられていた、主の恵みの下にしっかり留まり続けることが求められたのです。

イサクの信仰の成長の鍵は、この「主に留まる」ということにあったのです。
2代目のクリスチャンの使命は「主に留まること」「信仰に留まること」です。これは2代目だけではなく、全てのクリスチャンにも求められています。
「約束の地、主に留まりましょう」皆さんアーメンですか?

●3. イサクの 「不信仰と失敗」 (創世記26:6~11)

26:6 こうしてイサクはゲラルに住んでいたが、
26:7 その土地の人々が彼の妻のことを尋ねた。すると彼は「あれは私の妹です」と答えた。この土地の人々がリベカのことで自分を殺しはしないかと思って、「私の妻です」と言うのを恐れたのであった。彼女が美しかったからである。

 イサクは主の命令に従い、「ゲラルの地に留まりました」そこまでは良かった。その後、イサクはとんでもない失敗をします。妻リベカを妹だと嘘をついたのです。リベカが美しかったので、土地の人々がリベカを手に入れようとして自分を殺すかもしれないと恐れたのです。しかし嘘は、じきにアビメレクにバレました。
●箴言29:25 『人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。』とある通りです。イサクは人を恐れたからです。イサクは自分の身を守るために見え透いた嘘をつき、妻リベカに対する罪だけでなく、主なる神様を裏切る、不信仰です。イサクは、主から与えられた最初の試練において早くもつまずき、父アブラハムから受け継いだ祝福の約束の下に踏み留まることができませんでした。しかし主はそのようなイサクを支えて下さり、妻リベカを守って下さったのです。ゲラルの王アビメレクは全ての民に、イサクとリベカ夫婦に危害を加える者は死刑に処する、という命令を下しました。
イサクの不信仰にもかかわらず、主ご自身が、災いを転じて福として下さったのです。創世記は、彼の父アブラハムが、これと全く同じ失敗を、しかも二度も語っています。12章と20章です。そのアブラハムの時もそうでしたが、人間の不信仰の尻拭いを主がして下さって、正しい道に立ち戻らせて下さったのです。主の憐れみです。

●結論:「 主に留まる時、主の祝福は、あなたを追いかけて来る 」(創世記26:12~13)

(ヨハネの福音書15:5)
「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」
(詩23:6) 「まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。」
イエス様は、私に留まりなさい。私を離れては実を結ばないとおっしゃいました。主に留まる人のひとりは、旧約のダビデです。ダビデは詩篇23編で歌っています。自分の生涯は主の祝福を追い求める者ではなくて、反対に、主の恵みと祝福が私を追いかけて来ると歌いました。これが聖書の恵みです。
イサクの生涯も、まさにそのようなものだったのです。
 私たちは、辛いこと、苦しいこと、困難なことに対しては大変敏感です。しかし、主からの恵みや祝福に対しては鈍感な所があります。成功すれば自分の手柄、自分の力で手に入れたと思い、苦しい事、辛い事があればそれは主のせいにする。そういう所があるではないでしょうか?しかし、それでは、いつまで経っても、主の恵みと祝福が判らない。そうではなくて、すでに与えられている主の恵みに対して、目を開かれていくことが大切です。あなたを追いかけて来て、あなたを離さない主の恵みと祝福に目を開かれて行きましょう。そうすれば、あなたもイサクのように、笑うことが出来るからです。そのために3つあります。

❶主イエス様の愛に留まる (みことばと祈りによってイエス様につながる ヨハネ15:5~8)

❷主の教会とビジョン(使命)に留まる。

❸種を蒔き、主の祝福の時を待つ。 (創世記26:12~13)

26:12 イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された。
26:13 こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。

とあります。イサクは、約束の地に留まり、穀物の種を蒔いたのです。飢饉の時に、種を蒔くとはどういうことでしょうか?
普通は、飢饉の時には種を蒔かないと思います。飢饉なのですから、種を蒔くより、それを食糧にするのが先であり、種を蒔いてもダメだろうという思いが先に立ちますね。しかし、遊牧民のイサクは、農耕の民のように、畑を耕して、種を蒔いたのです。新しいチャレンジをしました。その結果、百倍もの収穫を得たのです。イサクが種を蒔いたのは、主がこの土地においてイサクを祝福するという、神の御言葉を信じたからです。イサクは、この神の約束を信じ、種を蒔き、主の祝福を与えられました。

これが主の祝福です。
イサクが人格的に優れた人であったからではありません。イサクは、妻リベカを妹と偽り、父アブラハムと同じ失敗をしましたしかし、主はそのようなイサクを祝福したのです。主はイサクが善人だから、道徳的に正しい人だから、信仰が深いから祝福されたのではないです。イサクがアブラハムの祝福を受け継ぐ者だから祝福されたのです。私たちもイサクと同じです。あなたが、道徳的に正しい人だから、信仰が深いから祝福されるのではないです。私たちは、イサクのように人を恐れ、失敗し、罪を犯して、主を悲しませるような者です。にもかかわらず、いいえ、そのような者だからこそ、あなたもイエス様を信じ、救われ、信仰により、霊的なアブラハムの子孫とされました。あなたも、信仰により、アブラハムの祝福を受け継ぐ者とされたのです。キリスト者とは、そういう者です。クリスチャンとは、正しい人ではありません。クリスチャンとは、赦されざるような者が赦される、恵みに生きる人です。誰からも受け入れてもらえない。愛されないような者が、イエス様の十字架によって赦され、受け入れられ、愛されている者です。ですから主は、私たちを必ず祝福して下さるのです。これが聖書の契約、約束です。私たちは単純に信じて良いのです。イエス様を信じる信仰により、あなたもアブラハムの祝福を受け継ぐ者とされている、だからあなたは主に祝福されるのです。皆さんアーメンですか?

●例話:「武漢の牧師からの手紙」を紹介します 

『兄弟姉妹の皆さん、平安が皆さんの上にありますように。武漢肺炎のことが私の考えるが生活の中心になっています。教会は、集会の安全、信仰の証し、教会員への感染の可能性、これらすべてが困難な状況の下に置かれています。私たちが信仰の試練に直面して大きなチャレンジを受けていることは明らかです。事態は深刻です。でえす。しかし、主の私たちへの計画は、災いではなく、平安です。(エレミヤ29:11)、主は私たちを滅ぼすためではなく、建て上げるために試練の時を許されています。だから、武漢のクリスチャンは、共に苦しみもだえるのではなく、むしろ恐怖に脅えている市民のため祈り、キリストの平安へと導く責任を担っています。クリスチャンは世が直面する同じ試練に直面します。しかし、その試練はもはや罰ではなく、全能のお方へと近づき、聖い魂となる新なた成長の機会であり、福音を宣教する機会でもあるのです。
●別の言い方をすれば、災難に私たちが撃たれても、それはむしろ神の愛のひとつの形であると言ってよいでしょう。パウロは、「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。私は確信しています。死も命も、御使いも支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35-39)武漢の肺炎は、キリストの愛から私たちを引き離すことはできません。私たちはすでにキリストの体の一部であり、キリストの苦しみも栄光も頂いています。キリストのすべてが私たちを建てあげ、私たちのすべてもキリストを建てあげます。
●この肺炎はキリストを傷つけることはできず、私たちに危害を加えることはできません。肺炎で世を去るとしても、それはキリストを証する機会であり、キリストの栄光へと入っていくことなのです。ですから、兄弟姉妹の皆さん。キリストの愛によって勇敢になってください。この疫病で死をより深く経験し、福音を理解すれば、キリストの愛をより深く経験し、神にもっと近づいていくことができます。私たちの主イエス様は死の苦しみを経験しましたが、父はイエス様を死からよみがえらせ、神の右の座に座らせました。(使徒2:32~36) これは目に見える災害ではなく、霊的な戦いであることを覚えてください。まず、自分の心のために戦い、次にこの都市の魂のために戦ってください。私たちは、一羽の雀でさえ父の許し無しに地に落ちないと知っています(マタイ10:29)。
●私たちが経験しているのは、ヨナが二ネべに直面している事と同じです。神が、義人ヨナのゆえに、二ネべの右も左もわからない12万人を破滅から救われたのなら、私たちが住んでいる武漢市はどうでしょうか? 私たちはこの武漢の義人であり、多くの義人がいます。アブラハムがソドムのために真摯に主に祈ったように、私たちも祈ることができますように。そして、祈りと証をもって主の平安がこの町にもたらされることを。私はこれが武漢に住む私たちクリスチャンに課せられた主の使命だと信じます。私たちは、この町に留まり、主の平安を求めること、この病に侵された人々が平安を得ること、最前線で奮闘している医療スタッフに平安がもたらされること、すべての政府関係者、武漢に住むすべての人がこの主の救いと平安を持つことができることを。私たちはネットを通じて、福音をもって友人を慰め、導くことができます。●私たちの命は私たちの手の中にあるのではなく、真実な神の御手にゆだねられているのですから。
神の憐れみへの希望のみが、この都市を救うことが出来ると確信しているからです。』(2020年1月23日 武漢在住の牧師より)

愛する兄弟姉妹、私たちは愛する日本と同胞の救いと平安、癒しのために、この地に留まり主の祝福を祈りましょう。皆さんアーメンですか?

お祈りいたしましょう。「永遠に存在する父なる神様、救い主御子イエス様、とこしえの慰めを賜る聖霊様、御名を賛美します。イサクは、二代目です。この教会にも2代目の兄弟姉妹もいます。「信仰者の二代目」が「二代目の信仰者」になることができますように、お導きください。通らなければならない試練を通して、主に取り扱われ、本物の信仰者とならせてください。そのために、主イエス様を信じ、霊的なアブラハムの子孫とされて、主イエス様の愛とみことばに留まり、イエス様というぶどうの木にしっかりと留まることができますように。教会の礼拝に留まり、兄弟姉妹との交わりに留まり、遣わされた家庭や学校、職場で、困難の中でも、イサクが種を蒔き、百倍の収穫の祝福を受けたように、兄弟姉妹の蒔いた種が、やがて主の時に実を結び、収穫の喜びにあずかることができますように、おひとりお一人を導き祝福してください。御言葉に感謝して主イエス・キリスト様の御名によってお祈りいたします。アーメン」

肉的な人と霊的な人 創世記25章24~34節 2020年3月1日 片柳福音自由教会

『 肉的な人と霊的な人 ~エサウとヤコブの誕生~ 』     2020年3月1日

聖書:創世記25章24~34節             片柳教会合同礼拝

●序。執事会から「新型コロナウイルス肺炎対応」の報告がありましたが、患者さんや医療関係者の方々のために、そして早い収束をお祈りしましょう。あまり過敏にならず、冷静に対処し、体調の具合がよくない場合は無理をする必要はありませんが、礼拝は大切に主に献げましょう。今日は、エサウとヤコブの誕生です。

●1.  イサクの家族 「問題を抱えた家庭」 (創世記25:24~26・28)

25:24 月日が満ちて出産の時になった。すると見よ、双子が胎内にいた。
25:25 最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それで、彼らはその子をエサウと名づけた。      
25:26 その後で弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで、その子はヤコブと名づけられた。イサクは、彼らを生んだとき、六十歳であった。 

イサクとリベカの家庭は、信仰による結婚でスタートしました。しかしイサクは人格的に親離れが不十分で、特に母親から自立していませんでした。
ですから、リベカを母親のサラの身代わりとして母の天幕に迎え、リベカを愛しました。妻リベカが不妊の女であるあることを知った時、主の御前に出て、真剣に祈り求めましたが、夫婦でいっしょに主の前に出ることはしませんでした。ですから、妊娠したリベカも、双子がお腹の中で争いケンカして、母体の危機を感じて、主のみこころを求めて祈るのに、夫イサクを無視して、リベカはひとりで主に祈り求めました。ふたりとも信仰も祈りも深い夫婦でした。

●25:28 イサクはエサウを愛していた。猟の獲物を好んでいたからである。しかしリベカはヤコブを愛していた。  

父イサクは、先に生まれた長男のエサウを愛し、母リベカは弟のヤコブの方を愛したのでした。
本来、親は子どもをえこひいきしないで、どちらにも公平に愛情を注ぐのが本当の親です。でも母は、静かな性格のヤコブを偏愛し、父は元気で野山を駆け回り、父の大好物の獲物を、狩で捕って、父にご馳走してくれる。その獲物を食べるのが、父親の楽しみでした。ですから父は長男エサウを偏愛したのです。

この親のえこひいき、親の偏愛は、子どもたちの心に将来、暗い影を落としました。当然、親が子どもを偏愛すれば、夫婦関係もおかしくなって行きます。ましてや、兄弟同士の間柄もうまく行くはずがありません。

この出来事は、私たちに何を教えているのでしょうか? 問題のない家庭はないということです。
お母さんに愛されなかった子ども、お父さんの愛を知らないで育った子ども、いつも反目していた兄弟たち、そして今も兄弟との関係が疎遠で、その人の人格形成に暗い蔭を落としていることがあります。

また、イサクやリベカのようなクリスチャンホームでも、問題のない家庭はありません。
なぜなら完全な親子関係、完全な夫婦関係などはないからです。私たちはみんな主の前に罪人です。
弱さがあり、欠点があり、罪があります。みな不完全な人間です。家族には、それぞれに痛みや傷があり、夫婦の問題、親子の問題があります。

ですから、すべての人、すべての家族は、主イエス様の十字架の死と復活による救いが必要です。主の十字架の血潮よって、傷ついた心、犯した過去の罪の赦しを受けて、癒されることが必要なのです。 皆さんアーメンですか?

でも、そういう傷ついた家族関係に中でも、主の救いのご計画は着実に進行していくことを覚えましょう。

●昨日、伺った証です。
『新型コロナウイルス肺炎』の発祥地・中国武漢の家の教会全員が感染したそうです。そこで全員で教会に集まり祈祷会を待ちました。主が癒してくださるように、すると全員が癒されたのです。今度は政府がやってきて、新型コロナウイルス肺炎の抗体ができた全員の血液を提供して欲しいとお願いされたそうです。この国の危機の時に皆さんのお役に立ててうれしいと教会の全員が輸血したそうです。

(詩篇91編5~7節)あなたは恐れない。夜襲の恐怖も昼に飛び来る矢も。暗闇に忍び寄る疫病も 真昼に荒らす滅びをも。千人があなたの傍らに 万人があなたの右に倒れてもそれはあなたには近づかない。
このように、全ては主にあって益に変えられ、祝福となるのです。私たちの弱さや痛みを通しても、神の御業と祝福は推し進められて行くことを、今朝は、ヤコブとエサウの誕生の御言葉から受けましょう。

●2. 兄エサウ 「肉的な人」 (創世記25:25・27~34)

25:25 最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それで、彼らはその子をエサウと名づけた。  

最初に出て来た子は「赤かった」 赤ちゃんですから、赤いのは当たり前でしょうが、ひときわ赤かった。
しかも、全身毛むくじゃらだったというのです。

25:27 この子どもたちは成長した。エサウは巧みな狩人、野の人であったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。

兄エサウは、まさに野の人として育ちます。エサウは、筋骨隆々のスポーツマンタイプ、体力と腕力には自信があります。アウトドアタイプです。それだけ、主に頼らなくても自分は生きてゆけると自信を持っていたのではないでしょうか。そこが主の祝福を軽んじてしまう結果となり、その隙を弟に狙われてしまったのではないかと思います。さて、1つの事件が起こりました。

●25:29 さて、ヤコブが煮物を煮ていると、エサウが野から帰って来た。彼は疲れきっていた。 
25:30 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ。」それで、彼の名はエドムと呼ばれた。
25:31 するとヤコブは、「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」と言った。                         
●25:32 エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と言った。                        25:33 ヤコブが「今すぐ、私に誓ってください」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼は、自分の長子の権利をヤコブに売った。
25:34 ヤコブがエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を侮った。    

ある日のこと、ヤコブが煮物料理を作っていました。そこに、エサウが疲れて野原から帰って来ました。
エサウはヤコブに「おい、お願いだ、そこの赤い物を食べさせてくれ。腹が減ってペコペコなんだ。」 
ヤコブは「まず、お兄さんの長子の権利を譲って下さい。そうしたらお肉の食べさせてあげるよ!」
「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、ヤコブは言いました。
「お兄さん。では、今すぐ誓って下さい!」 エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまったのです。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与え、エサウは食べたり、飲んだりして満腹して帰りました。

よっぽどエサウはお腹がすいていたんですね。「死にそうだ」と言っています。でもたった一杯の豆のお肉のスープで、いくらお腹がすいたとは言え、長男としての権利を譲ってしまうとは、あまりにも軽率と言えば軽率な軽はずみな行為ですね。
目には見えない主の祝福ですから、今すぐどうなると言うことでもありません。日常生活に大きな変化があるわけではありません。
エサウは、スープ一杯で弟に譲ってもよいと考えたのでしょう。ですから、エサウの欠点は、霊的な飢え渇き、主を覚え、神を意識すると言う点において無関心でした。多くの日本人が神の真理や主に対して無関心であるのと同じです。

●34節の「侮る」は、見下すこと、くだらないと軽蔑する意味です。エサウは長子の権利をくだらないものとみなし、それを、一時の満足と取り換えたのです。エサウは、非常に肉的な人です。彼は、粗野で、思慮が浅く、霊的なこと、未来の祝福など全く考えず、ただ現在のこと、この世の事、肉的なことしか考えない愚かな人でした。エサウのような肉的な人ではなく、霊的な人を目指しましょう。皆さんアーメンですか?

●3.  弟ヤコブ  「霊的な人」 (創世記25:26・33)

25:26 その後で弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで、その子はヤコブと名づけられた。

一方、弟のヤコブは、兄のかかとをつかみながら出てきました。ヤコブという名前は「かかと」あるいは「人を押しのける」という意味です。ヤコブは、成長するにつれて、穏やかな性格で家の周りの仕事をして、兄のように野山を駆け回ることはありません。ヤコブは、アウトドアではなく、インドアタイプです。長子の権利、目に見えない霊的な祝福を自分のものにしようと、虎視眈々と狙っていました。ヤコブは人の弱みを付け込んで自分の利益を図るという、ズル賢さがあります。
そういう意味では、ヤコブはお腹のすいた兄をいたわることもなく、狡猾で、きわめて利己的な人間でした。

●25:33 ヤコブが「今すぐ、私に誓ってください」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼は自分の長子の権利をヤコブに売った。   

ヤコブが狙った長子の権利とは何でしょうか?その権利は3つあります。

❶ 権威ある地位
長子とは第一子のことで、イスラエルでは女子は長子になることはできませんでした。長子はその家庭において、父の代理です。父の隣の食卓の席に着きました。
長子の権利とは、祝福の順位とでもいうべきものです。でなければ、ヤコブがそれを得ることはしなかったでしょう。

❷ 2倍の祝福を受ける
遺産の相続分は二人分の分け前が与えられました。

❸ 祭司の務めをする
家族の中で神との間の一切を仕切り、礼拝し、家族や人々を祝福する立場を与えられました。
新約時代に生きる私たちはキリストにあってすべての者が万人祭司となり、祭司としての務めができるようになりました。主を礼拝し、人々のために、執り成しの祈りをささげ、主の祝福を祈ることができます。
しかし、旧約時代、イスラエルにおいてそれができるのは長子のみです。イサクは自分の息子を祝福しました。ヤコブも自分の息子を祝福できたのは、彼らが長子の特権を与えられていたからです。
長子は、主の祝福を人々にもたらす存在です。私たちの主イエス様は、天にあるすべての霊的祝福を私たちにもたらすことができたのはどうしてでしょうか? それは御子イエス様が私たちの長子となられたためです。イエス様が私たちの長子でなければ、私たちは天の父なる神様の祝福にあずかることはできないのです。今やイエス様を信じる者は、イエス様によって、この長子の権利と祝福が与えられています。この恵みを主に感謝しましょう。皆さんアーメンですか?

●結論: 「あなたも、肉的な人から霊的な人へ」

❶ 肉的な人エサウは反面教師で、私たちへの警告です。
エサウは、一杯の煮物のスープで飢えを癒すために、永遠の祝福の長子の権利を、御国を受け継ぐ権利を、天国を相続する権利を簡単にどぶに捨ててしまったのです。
スープ一杯、たばこ一本、酒一杯のために、主の祝福を捨ててしまう人々がいます。
皆さん、あなたがエサウの立場だったらどうされますか? 生活に困り、食べる物もなくなり死にそうになった時に、誰かが、「あなたに一杯のそばを与えるから、その代わり天国行きのパスポートを、わたしに譲って欲しい。」と言ったらどうしますか? 「そんな天国の約束なんか、目に見えない祝福より、目の前の一杯のそばの方が良い」と言って、天国行きのパスポートを譲ってそばを食べますか?

●新約聖書にこうあります。
ヘブル12:16 「だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。」と警告されています。
私たちも教会に与えられた、そして私たちクリスチャンに与えられた、主の恵みと祝福を軽く見るべきではありません。礼拝、主の聖餐式、洗礼式、祝祷、そして祈ることのできる特権、献金できる特権、伝道の祝福など、この目に見えない神の祝福を軽んじることのないようにしましょう。皆さんアーメンですか?

❷ 霊的な人を目指そう!
(ガラテヤ5:16) 「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」  

弟ヤコブは、狡猾で、執念深かったといわれても仕方がありません。しかし、主の祝福に関しては、人一倍熱心でした。聖書は、ヤコブは、霊的な事柄に対して純粋で、熱心に求める人であると評価しています。
私たちもくれぐれも、天国を受け継ぐことについては、淡泊でありませんように。今、この世のものと引き換えに、天国の権利を捨てることなどありませんように、
私たちはキリストにあって長子の権利を与えられています。そして天の無尽蔵な霊的な富と祝福を味わうことができる者とされました。それなのに、エサウのように、実際には霊的な貧困者となってしまう危険があるのです。神の子としての立場が与えられているにもかかわらず、罪の奴隷となり下がってしまう危険があることをエサウの出来事で教えています。 
一方、弟ヤコブは、主の祝福を盗んだ者として、やがて様々な苦しみに出会います。でも、そのことを通して、ヤコブの信仰が少しづつ育てられ、成長して、ついには神と顔と顔を合わせるまでになります。今までは、我が強くて、「神をも支配しよう」としてきた男ヤコブは、長い人生の信仰の旅路の果てに、「イスラエル」という新しい名前が与えられます。その意味は「神に支配される人(=イスラエル)」です。ヤコブは神を策略で支配しようという肉の人から、「神に支配される人(イスラエル)」霊の人へと聖霊様の恵みで、造り変えられて行ったのです。私たちも、聖霊様に満たされ続けて、霊的な人を目指しましょう! 皆さんアーメンですか? 

お祈りいたしましょう。「愛する主よ。御言葉を感謝します。私たちは弱さと欠けだらけです。そこに主の光が差し込み、あなたの光が輝きます。イエス様の愛と光によって、私たちの家族、夫婦、親子の内面を照らし、癒し、祝福してください。そして私たちが主よあなたを求め、イエス様を信じ、聖霊様に満たされ続けて、肉的な人から、霊的な人へと導いてくださいイエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン」

祝福を注ぐ人になる 創世記25章19~26節 2020年2月23日 片柳福音自由教会

『 祝福を注ぐ人になる  ~第48回年次総会を迎えて~ 』   2020年2月23日

  聖書:創世記25章11・19~26節              片柳教会・主日礼拝

●序:今日は、48回目の年次総会が礼拝後に開催されます。総会は聖徒の交わりと主の恵みに感謝し、ビジョンを確認し、主への献身の時です。
●「新型コロナウイルス」について少し聖書から初めに考えたいと思います。
(ルカの福音書21章10~13節)イエス様は世の終わりの前兆について語られました。 
10.イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。
12.しかし、これらのことすべてが起こる前に人々はあなたがたに手をかけて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出します
13.それは、あなたがたにとって証しをする機会となります。」 
今年は暖冬でした。これはブラジルとオーストラリアの火災が半年も続き、その結果、二酸化炭素の増加により地球の温暖化が進んだからだと言われています。
また、イエス様は、世の終わりには、自然災害と共に、疫病が流行ると語らえました。新型コロナウイルス肺炎も疫病です。
但し、13節には「それは、あなたがたにとって証しをする機会になります。」と言われています。初代教会の時代疫病が流行った問、クリスチャンは、積極的に救援活動をしまし、主の証となりました。いつも時代も転換点で疫病が流行ります。ペストや、スペイン風邪などです。今回も主が皆様とご家族を守ってくださり、日本と世界のリバイバルとなるように祈りましょう。

●1.  主の祝福の継承 「アブラハムからイサクへ」(創世記25:11)

25:11 アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住んだ。

 信仰の父アブラハムに育てられ、「信仰の遺産」を相続したイサクは、主から祝福されました。
しかし、親の信仰が自動的に子の信仰とはなりません。信仰は、一人ひとりのものだからです。
それでは、どうして信仰が「相続財産」になるのでしょうか?それは、「家庭礼拝(霊的教育)」と「親の模範」が財産になります。親の生き様(模範)が、子には財産となるのです。私たち親が子に残す最大の財産は、「主に従う模範」です。主イエス様のご生涯は、弟子たちへの模範でした。後に、弟子たちが聖書を書き残せたのは、言葉以上にイエス様の生き様(模範)によって、多くのことを学んでいたからです。
愛する兄弟姉妹。「あなたはどんな模範を家族や兄弟姉妹に示していますか?」と問われましたらいかがでしょうか? 「無い袖は振れない」ように、持っていないものを相続させることはできません。
まずは、自分が持つことです。幸い、私たちも信仰によるアブラハムの子孫です。信仰の父の財産を相続することが許されています(エペソ1章18節)。それは、日々与えられるみことばに真剣に向き合い、祈り、受け、行動することです。すると、その財産は、霊の銀行に豊かに振り込まれ、蓄えられます。

そして何よりも、信仰の継承は、主の恵みです。主が、アブラハムに与えた祝福を、その子イサクも、受けることで、初めて、アブラハムの後継者となるのです。これが「祝福の継承」です。
アブラハムは多くの問題をかかえた、罪に満ちた人間でした。理想的な聖なる人などではいません。
そのアブラハムが、神の民イスラエルの先祖となることができたのは、ひとえに、主の恵みです。主がアブラハムを選び、み顔を向けて下さったのです。彼は、罪と汚れに満ちており、それゆえに苦しみに満ちており、妻や他の女性たちをも傷付け、子どもたちの対立、争いを 引き起こした生涯でした。にもかかわらず、主の祝福を受けました。
私たちの人生を本当に支えるもの、 それは主の恵みです。主が、あなたを選び、恵みを与えて下さったからです。この主の恵みがあれば、 どのような苦しみや悲しみの中にあっても、自分の罪によって人を傷付けてしまったという後悔に苛まれても、あなたは絶望することなく、 なお前向きに、積極的に生きることができるのです。この主の祝福が、今やイサクにも与えられました。
●それが、アブラハムからイサクへの祝福の継承です。私たちも主の祝福を受けるためには、まずは与えることです。種まきと刈り取りの霊的原則です。(ガラテヤ6:7)「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」 人を裁くと、自分が裁かれます。人を祝福すると、自分が祝福がされます。人間の脳は、複雑ですが、単純でもあるそうです。たとえば、あなたが、誰かさんを、心の中で、さばきます「Aさんは、アホだ!」と言いますと、主語がなくなり、ただ単に「アホだ!」「お前は、アホだ!」と、さばきが自分に帰ってきます。
ご主人が家事を手伝ってくれます。食器を洗ってくれます。でも慣れていないから洗剤が着いたり、汚れが落ちていない時があります。「あなたは何やってもダメなんだから、洗剤も付いているし、汚れも付いてるわ!」と小言を言いたいところ、姉妹の皆様、是非、「ありがとう、あなたが手伝ってくれるから、家事や育児が楽になったわ。」と感謝しましょう。そうすれば、溢れる笑顔とあなたへの感謝が帰ってきます。
あなたが感謝すると、感謝があなたに帰ってきます。祝福する人は、祝福されます。あなたの主の祝福を与えましょう!皆さんアーメンですか?

●2.   主の祝福の継承「イサクからヤコブへ」(創世記25:19~26)

25:19 これはアブラハムの子イサクの歴史である。アブラハムはイサクを生んだ。
25:20 イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻に迎えたときは、四十歳であった。
25:21 イサクは、自分の妻のために【主】に祈った。彼女が不妊の女だったからである。【主】は彼の祈りを聞き入れ、妻リベカは身ごもった。

❶ イサクの祈り (創世記25:19~21)

イサクは40歳の時に、リベカと結婚しました。その間、再婚した父アブラハムは、ケトラとの間に6人の子どもが次々に生まれました。一方息子のイサクには一向に子どもが与えられません。イサクは父と同じ試練に遭います。父アブラハムは75歳から100歳までの25年の長い年月、信仰の忍耐を受けました。
その子イサクも、同じ試練、同じ信仰の戦いを経験しなければなりませんでした。
このように、信仰は、親から子へと自動的に継承されるものではありません。形や程度の差こそあれ、実に親が経験した信仰の戦いを、子も経験し、その試練を通して、聖霊様のお取り扱いを受け、親に与えられた祝福を受け継ぐに相応しく整えられていくのです。
私たちは、自分が苦しい所を通されると、わが子には、同じ苦労をさせたくないと思います。
たとえば、学歴で苦労した人は、子どもには学歴を与えます。そして教育ママ、教育パパとなります。
習い事ができなかった人は、子どもには色々な習い事を与えます。お金で苦労した人は、子どもには、お金で苦労させたくないと思って、お金を豊かに与えます。すると、子どもは、お金のありがたみが分からずに、贅沢して、堕落してしまうということが多くあります。

しかし、主のご計画は、違うのです。たとえ、親子であっても、主の御前には一人ひとりが試練を通して、聖霊様のお取り扱いを受けなければならないのです。
 様々な経験や知識は受け継がれ、積み重ねられなければなりませんが、こと信仰は、やはりひとりひとりが体験的に、信仰の戦いを通して身に着けていくものだからです。
 私たちクリスチャンは、お金・金銭的な面でこのような過ちを犯すことは、少ないかもしれません。
しかし、それ以外のことで、特に信仰の継承という点においては、意外にこの過ちに陥っているのではないでしょうか? 子どもは、何の試練にも遇わずに、素晴らしい信仰者になって欲しいと思って、箱入り娘ならぬ、「箱入りクリスチャン」を栽培しようとする危険性があります。
しかし、感謝すべきことに(ヘブル12:6)「 主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」です。

クリスチャンホームに生まれたイサクが主なる神様との個人的関係が初めて記されています。
主がイサクの妻リベカを「不妊の女」と断言するほど、子を産む可能性は皆無でした。そして「不妊の期間は実に20年でした。人をあきらめさせるのにが、十分な年月です。
●「平井聖歩牧師夫妻」平井先生ご夫妻は結婚14年目で、はじめてお子さんが与えられたそうです。現在、安定期に入っているそうです。
イサクは自分たち夫婦に 子どもが与えられるようにと祈り、主がその祈りを聞き入れて下さったのです。●私たちは注意深く読まなければなりません。26節には、リベカが子どもを産んだ時、イサクは60歳であったと書かれています。40歳でリベカと結婚し、子どもの誕生が実現するまでには20年の年月がかかっているのです。平井先生ご夫妻は14年でしたが、イサクは20年間祈り続け、ついに聞き入れられたのです。
しかし、イサクは、妻リベカの胎が開かれるよう、主に祈りに祈りました。実に20年間、イサクは主に祈り続けたのです。イサクが祈り続けたのは、主の約束があったからです。
(創22章18節)「あなたの子孫(イサク自身)によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」との約束がありました。だから、イサクは祈り求めたのです。
『困難は祈りの母、試練は信仰の父』と言われます。
イサクは、20年の長い期間、祈りを深めることができました。
皆さん、私たちは、様々なことを祈り求める時に、あるいは家族の救いや仕事のため、他の人のために とりなし祈る時に、余りにもせっかちに結果を求めてはいないでしょうか?
すぐに結果を求め、それが叶えられないと失望し、祈ることをやめてしまう事がいかに多いことでしょうか?しかし、それは祈りの姿勢が間違っているのです。イサクは20年間祈り続け、そして聞かれました。
これは、20年ぐらい祈り続ければ主も願いを叶えて下さる、ということではありません。そうではなくて、主は、私たちに本当に必要なことを、必要な時に、与え、実現して下さるのだ、ということです。その「必要な時」は20年後かもしれないし、10年後かも知れない、1年後かも、知れない、明日かもしれません。いずれにしても主は、本当に必要な時に、必要なものを与えて下さる、そのことを信じて祈り続けること、それこそが、私たちの祈りの正しい姿勢なのです。皆さんアーメンですか?
❷ リベカの祈り (創世記25:22~23)

25:22 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったので、彼女は「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう、私は」と言った。そして、主のみこころを求めに出て行った。
25:23 すると主は彼女に言われた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」

妊娠したリベカのお腹の中で、子どもたちがぶつかり合いました。双子だったのです。リベカは、肉体的に、精神的にも大きな危機を経験しました。女性にとって出産は命がけの仕事です。
私の妻も出産の時、陣痛が始まり、分娩室に入りましたが、出産までに4日間掛かりました。超難産でした。
リベカは、この時どうしたのでしょうか?「主のみこころを求めた」のです。リベカは、この大きな危機を通して初めて主の所に出て行き、真剣に祈るようになりました。本来ならば、リベカは夫のイサクと共に主の御前に出て、心を合わせて祈り求めるべきでした。しかし、リベカはひとり主の前にでています。イサクも立派な信仰者でした。リベカも立派な信仰者でした。しかし、この夫婦は共に主の御前で心を合わせて祈り合うことをしませんでした。それがやがて双子の兄弟の仲たがいの伏線になります。兄弟姉妹とも心を合わせて祈り合いましょう。さて、リベカの祈りに対する主の答えは何でしょうか? このふたごから、それぞれに国民が分かれ出ること、兄が弟に仕えるという主のみこころが示されたのです。  
普通の順序から考えれば、逆です。しかし、主の選びは人の思いよりも優先します。
●主の御業は、人の思いを越えています。
イザヤ55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。~主のことば~
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
私たちの子どもの将来も、親の願いや思いと主のご計画は異なる事が多いのです。
主の御心がなることが一番です。皆さんアーメンですか?

●結論:「主の祝福を注ぐ人になる」  (創世記26:12)

アブラハムの存命中も、主はイサクを祝福されました。しかし、アブラハムが死ぬと、主はイサクを契約の継承者として、以前にも増して100倍の祝福を注がれたのです。
(創26:12)「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された。」

多くの人は自分の子孫に何かを残したいと願っています。 それがその人の生きた証だからです。
ある人は財産を残す。それも良いでしょう。しかし、それはやがて無くなるのです。また他の人は、子どもに教育し、学歴を付けて遺産とします。これらも良き事です。では、私たちクリスチャンが本当に残すべきもの何でしょうか?  お金や財産でしょうか? 教育や能力でしょうか? それも良いでしょう。
私たちクリスチャンが子孫や教会の兄弟姉妹に残すべきものは、主に対する信仰と、私たちが主に従った信仰の生涯の証しではないでしょうか? それは決して変ることなく、絶えることなく、私たちの子孫と教会に祝福を与え続けるのです。

●例話: 日本を代表するキリスト者に内村鑑三がいます。『後世への最大の遺物』という本の中で、後世に遺すべきものを4つをあげています。
●「第1は、お金である。人々の助けになるから大いにお金を儲けなさい。 お金は人の役に立つから。
●「第2に、お金よりも良い遺産とは何か?事業である。」お金を用いて大きな事業をしなさい。学校や福祉事業、また会社の事業によって大いに社会に貢献しなさい。 
●「第3に、文章・思想である。」文書を通して、思想を残して、人々にビジョンを与え、志を与え人を生かしなさい。しかしこれらが人を必ずしも、人を生かすわけではない。
●第4番目、それは誰でもできること勇ましく高尚なる生涯である。どんなに辛い時でも、へこたれなで主を見上げて生きる。生きる希望を与える。それは後世に残すことのできる最大の遺物。高尚な生涯である。」
●例話:一人の例として『フランス革命史』を書いたカーライルのことについて語っています。広く資料を集め、カーライルが生涯の血を絞って何十年もかかってついに書き上げました。
もうじき出版する時、友人が来て、「今晩一読を許してもらいたい」と言って借りて帰りました。友人は、朝方まで読みました。そのまま書斎の机の上に原稿をおいて休みます。朝、メイド来て、ストーブに火をたきつけ、その書斎の原稿用紙を、たきつけにして燃やしてしまいました。友人から、これを聞いて非常に驚き落胆します。家を焼いたならば家を建ててやることもできる、しかし熱血を注いで何十年かかって書いたものを焼いてしまったのは償いようがない。カーライルは十日ばかりぼんやりとして何もできなかったそうです。主がカーライルに語りかけられました「トーマス・カーライルよ、お前は愚か者だ。お前の書いた『革命史』はそんなに貴いものではない、本当に貴いのはお前がこの艱難に耐えて、再び筆を執って書き直すことである、それが本当に尊いのである。実にこのことで失望するような人間が書いた『革命史』を社会に出しても何の役に立たぬ、それゆえにもう一度書き直せ!」 カーライルは自分を鼓舞して、ふたたび筆を執って書いたそうです。カーライルのエライことは火にて焼かれたものをふたたび書き直したということです。
彼は実に後世への最大の遺物を遺したのであります。たとい私たちが、やりそこなっても、不運にあっても、その時に力を回復して、その事業を捨ててはならない。勇気を起して再びそれに取りかからなければならないという心を起してくれたことについて、カーライルは最大の遺物を遺してくれた人ではないか。」と内村鑑三は語っています。そして私たちも同じように、誰にでもできるもの、それは、何があっても、へこたれずに、主を信じ、主に従い、信仰の生涯を全うする、勇ましく高尚な生涯を送ることは、誰にでも出来ます。

私たちは、主の御前に、みな罪ある罪人です。でも、あなたも、主イエス様の十字架の死と復活を信じ、罪の赦し受け、救われます。そして初めて主の恵みの道を歩むことができ祝福された者となるのです。
ですから、生涯の最後の日まで、主に従い続け、信仰を全うしましょう!
今年も、主の平安と祝福を頂いて、家族と教会の兄弟姉妹、学校や職場で、主の祝福を注ぐ人になりましょう!皆さんアーメンですか?

お祈りいたしましょう「永遠に存在される私たちの慈愛の父なる神様、とこしえの慰め主なる聖霊様、我らの救い主御子イエス様、心から三位一体の主の御名を賛美します。あなたはアブラハムを選び、アブラハムを通して、全世界を祝福するご計画を立てられました。主の祝福の継承者イサクも、父アブラハムと同じような信仰の試練と忍耐を通して、聖霊様に取り扱われ、整えられました。私たちも祝福の継承者として、主の祝福を受け、与える者とならせてください。主の約束を忍耐強く祈り、人々を励まし、祝福し、私たちの信仰の生き様を通して、家族や人々の励ましと模範となれますように、教会の歩みをもお導きください。午後の年次総会も豊かに祝福してください。主イエス・キリスト様の御名によってお祈りいたします。アーメン」

アブラハムの晩年と死 創世記25章1~11節 2020年2月16日 片柳福音自由教会

 『 アブラハムの晩年と死 ~聖徒の死は、主の目に尊い~ 』  2020年2月16日

   聖書: 創世記25章1~11節                 片柳教会・主日礼拝

●序. アブラハムは175年の生涯の最後となりました。今日はアブラハムの晩年と死のまとめです。

●1.  アブラハムの晩年 「再婚と父の務め」 

25:1 アブラハムは、再び妻を迎えた。その名はケトラといった。

  主はアブラハムに祝福を約束されました。しかし、アブラハムの生涯を振り返ると、主の御言葉をいつも信じて主の約束を待ち望んで来たわけではありません。 15章では「わたしには子がなく。家を継ぐのはしもべのダマスコのエリエゼルですか?』と疑う時もありました。そして、16章では、主の約束を待ち望むことができずに、サラの勧めに乗って、エジプト人の女奴隷ハガルからイシュマエルを得ました。それ以外にの妻のサラを妹と嘘をついて、エジプトの王様の側室に危うくなる手痛い失敗も犯しました。そして21章で、アブラハム100歳、妻サラ90歳の時に、ついに約束の子イサクが与えられました。 主はアブラハムに祝福を約束されました。その約束を信じる道は長くて、何度も何度も、心が折れそうになる道でもありました。そこからは、主の御心を信じて生きる事の難しさ、主の約束を信じて生きる事の厳しさを、私たちは教えられました。
アブラハムは、何度も、失敗し挫折しても、主の御前に悔い改めて、立ち返ったのです。                 
アブラハムにイサクが与えられ、アブラハムはイサクから本当の祝福、神と向かい合い生きる中での恵みを頂いたのです。 私たちに主の約束を信じて忍耐して待ち望み、主と向き合って歩むことの幸いを受けましょう。皆さんアーメンですか?

❶ ケトラとの再婚    
                                                 
25:1 アブラハムは、再び妻を迎えた。その名はケトラといった。
晩年のアブラハムはケトラという妻を得ました。ケトラとの結婚は、その繁栄を指し示すもので、アブラハムが主に祝福された人生を送ったということを聖書は語っています。このことに関して宗教改革者のマルチン・ルターは、跡継ぎを得ようとする敬虔な思いであったと好意的に語っています。反対に、ジャン・カルヴァンは、これはアブラハムの人間としての弱さの表れだと語っています。いずれにしても、アブラハムはケトラの子どもたちにはも贈り物を与え、イサクからは離れて住むように配慮しました
❷ 父の祝福を与える

25:5 アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。                                
25:6 しかし、側女たちの子には贈り物を与え、自分が生きている間に、彼らを東の方、東方の国に行かせて、自分の子イサクから遠ざけた。 

アブラハムの晩年の最後の仕事は、父の祝福を与えることでした。信仰の継承のために整理をすることでした。具体的には、全財産を主の約束の子イサクに与え、ケトラから生まれた息子たちとイサクとの距離をもたせたのです。これはアブラハムが最後の仕事でした。
5節には、「全財産を」と訳されていますが、原文では「アブラハムに属するすべてを」となっています。   つまり、物質的な財産のみならず、目に見えない信仰の財産、霊的財産のすべてを与えた」と理解すべきです。アブラハムは、信仰の継承と父の祝福を与えることを自分の最後の役割としました。私たちも、信仰の継承と主の祝福の継承は、主に召された者としての大きな務めです。

●2.  アブラハムの死 「平安で満ち足り、天の故郷に移された」  (創世記25:7~8)

25:7 以上がアブラハムの生きた年月で、百七十五年であった。
25:8 アブラハムは幸せな晩年を過ごし年老いて満ち足り、息絶えて死んだ。そして自分の民に加えられた。

第3版8.アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。
 旧約聖書を代表する信仰の父と呼ばれるアブラハムの一生は175年でした。波乱万丈に満ちたその生涯は多くの試練と信仰の戦いがありました。それでもアブラハムは「平安な」老年を迎えたのです。では、なぜ、平安な老年を迎えられたのでしょうか?  それは、主の約束の成就です。
創世記15:15 「あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。」
どんな人でも自分の力によって平安な老年を迎えられるのではなく、主を信じる者に、与えられた主の恵みの約束があるからです。 では、私たちの側では、そのような備えが必要でしょうか?平安な老年を迎えるための秘訣が、3つあります。

●第1は、過去の罪に対する解決です。

創世記15:6 「 アブラムは【主】を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」

アブラハムは、私たちと同じように、沢山の失敗をして、罪を犯しました。けれども、「信仰によって義と認められた」のです。信仰によって、過去の罪に対する罪の清算ができていました。人は長く生きれば生きるほど罪を犯します。まさに罪を積み重ねるわけですね。しかし、私たちは、それらの罪を主の前に悔い改め、告白し、主イエス様があなたの罪の身代わりとなって十字架で死なれました。そして三日目に死より復活されました。このイエス様を救い主として信じ、心にお迎えする時、あなたのすベての罪は赦され、きよめられます。何という恵みでしょうか? アブラハムも、罪の赦しを受け、過去の罪が清算され解決しました。それゆえに平安な老後を迎えることができました。あなたもイエス様を心から信じ、罪の赦しと平安を頂きましょう。
皆さんアーメンですか?

●第2に、天の故郷に移される。(25:8)

25:8 アブラハムは幸せな晩年を過ごし年老いて満ち足り、息絶えて死んだ。そして自分の民に加えられた。

アブラハムは、この地上の故郷を求めていたのではなく、天の故郷にあこがれていたのです。

(ヘブル11章16節)「 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」
アブラハムは、主の救いにあずかり、永遠の命を頂いて、175年の長寿を全うして死にました。しかし、ただ単に長く生きたということだけでは「長寿を全うした」とは言えません。長寿を全うするとは「満ち足りて、人生を堪能して死ぬ」ということです。
主の恵みに満ちた教会につながり続けている者の晩年は、決して寂しいものではない。最後まで実を豊かに結ぶ人生を送ることができるのです。
●25章8節の「自分の民に加えられた」という言葉に心を向けましょう。
宗教改革者のジャン・カルバンは、「民に加えられた」とは、魂の永続性を意味しています。
つまり、死んで、自分がいなくなるのではなく、地上の生活の後も、生きるための喜びに満ちた共同体としてクリスチャンの信仰者としての交わりの世界があり、天国という交わりの世界に加えられたということです。」

  アブラハムの肉体は朽ちても、アブラハム自身、つまり、アブラハムの魂は、永遠にあるというのです。
そして、アブラハムは、葬られたマクペラの洞穴の中ではなく、永遠に存在することが出来るのです。
アブラハムの地上の生涯は、旅人、寄留者としての生活でした。しかし、今や、本当の魂の交わりの生活が、つまり天国での共同生活が始まったのです。憧れの天の故郷に帰ってのです。ですから教会によって、告別式のことを「帰天式」天国に帰る式と呼んでいます。
アブラハムは天の故郷に移されてからも、天国に先に行っている神の民と共に住み、天国の我家で、本当の意味で、くつろいだ生活を始めているのです。この「自分の民に加えられた」という素晴らしい御言葉です。私たちは誰でも、イエス樣を信じるならば、この恵みを受けます。信仰者としての天国の仲間に加えられるのです。憧れの天の故郷に帰るのです。

先に天に帰られた兄弟姉妹は、今、天の御国で「自分の民に加えられて、真の魂の安息と慰めを受けておられます。」やがて、私たちもその民として加えられ、永遠に主を賛美する者とされます。皆さんアーメンですか?

●第3に、最後まで主に従順し、使命に生きる。 (創世記12:1~2・4)

12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
12:4 アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。

 アブラハムは、75歳の時に、主の召しを受けました。昔の方は長寿ですので、現代では2で割れば良いと思います。現代なら、35歳位の頃でしょうか。主の恵みの約束が成就したのは、アブラハムが100歳で約束の子イサクが誕生しました。140歳の時に、イサクに妻リベカが与えられ、アブラハムが160歳の時に、孫のエサウとヤコブが与えられました。また、アブラハムは主の約束の地を所有する印としてヘブロンにあるマクペラの墓地を取得することができた。そして老年を迎え、全財産をイサクに譲った後も、主の御前に自分の人生を振り返り、主の恵みを感謝し、そして自分の子孫のためにとりなしの祈りをささげたことでしょう。
 老年を迎えたアブラハムは「何をするか」ということ「Doing」ではなく、「主の御前にいかに存在するか」という「Being」に心を留め、若い時ほど活躍できなくとも、卑下することなく、ありのままの自分を受け入れて平安な日々を送りました。本当に幸いなアブラハムの生涯でした。

●例話:『李 文亮(リー・ウェンリャン)医師』
中国全土で今、李 文亮(リー・ウェンリャン)医師のことが英雄として語られています。新型コロナウイルスを最初に発見し、社会に注意を喚起しましたが、共産党より「デマを流した」かどで逮捕され、処分されました。しかし、最後まで患者さんに仕え、自分も感染し、2月7日に召されました。クリスチャンドクターでした。残された李 文亮(リー・ウェンリャン)医師の家族のために、とくに二人目の子どもをお腹の中に宿している妊娠8カ月でウイルスに感染している彼の妻のためにお祈りください。

彼は家族のことを思いつつ、感動的な詩を中国語で書き残しました。

●『私は英雄になりたいのではない
私にはまだ両親がいる そして子どもたちも
妊娠している妻はまもなく出産を迎えようとしている
さらに病棟には私の患者が大勢いる
私の良心は他の人たちの善良な心と交換することはできない
喪失と困惑にもかかわらず 私はとにかく前進するしかない
この国と家族を選ばせたのはだれか
どれほどの悲しみを負わなければならないのか
この戦いが終わった時 私は空を見上げる 雨のように涙をためて

●私は英雄になりたいのではない
しかし、医師として この未知のウイルスをただ見過ごすことはできない
私の同僚を傷つけながら
そして数えきれないほどの何の罪もない人々を
彼らは死にゆくが 私の目を常に見つめている
生きることを願いながら 私が死ぬなどといったいだれが思ったことだろう
私の魂はもう天国に行っている
白いベッドを見つめながら
そのベッドの上には私の身体が横たわっている
よく見なれた顔だ 両親はどこにいるのか
私の愛する妻は かつては追いかけることさえ難しかった妻は

●空には光がある
人々がよく語る天国がその光の向こうにある
でも私はできればそこへ行きたくない むしろ武漢の故郷に戻りたい
そこには私の新しい家がある 毎月のローンの返済がある家が
いったいどうしてそれを諦められるだろう
諦めることなんかできようか 息子のいない両親を残して
なんと悲しいことだろう 最愛の妻が夫なしで
自分の将来の変化に向き合うことができるだろうか

私はすでに世を去った 私の身体を人が運ぶのが見える
袋の中に入れて 大勢の同胞が並んでいる
私のように去って行った
火葬場の火の中に押し込まれていく 夜明けに

●さようなら、愛する者たちよ
さようなら、私の故郷、武漢よ
願わくば この恐ろしい大惨事の後に
みなさんが思い出してくれることを
できる限り早くこの真実を伝えようとした人がいたことを
願わくば この大惨事の後に
義とは何かを 皆さんが知ることを
善良な人々が 終わりのない恐怖の中でこれ以上苦しむことがないように
望みのない悲しみを

「 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(第Ⅱテモテへの手紙4章7節) 以上です。

●結 論:   「あなたも、祝福された信仰の生涯を全うし、信仰の遺産を残そう!」

愛する皆さん、私たちも、アブラハムや李 文亮(リー・ウェンリャン)医師のように、最後まで主に従順し、家族や教会の兄弟姉妹のために祝福を祈り、主の祝福を与え、信仰の遺産を残し、与えられた使命を全うさせて頂きましょう。皆さんアーメンですか?

お祈りいたします。「永遠に存在する父なる神様、私たちの救い主御子イエス様、とこしえの慰め主聖霊様、心から御名を賛美します。私たちは、主の御前に、みな罪ある罪人です。あなたは、御子イエス様の十字架の死と復活を信じる者に、罪の赦しと永遠の命の救いを与えられました。そして初めて主の恵みの道を歩む幸いな者とされました。ですから、人は老年に至っても、いいえ生涯の最後の日まで、主に従い続け、使命を全うし、天の故郷に移されて神の民に加えられるその日まで、家族や教会と兄弟姉妹の祝福を祈る者とならせてください。そして、祝福された老年を生き、信仰の遺産を、次の世代にバトンタッチする者とならせてください。主イエス・キリスト様の御名によってお祈りいたします。アーメン」

キリストの花嫁リベカの信仰 創世記24章61~67節 2020年2月9日 片柳福音自由教会

 『 キリストの花嫁リベカの信仰 』                  2020年2月9日

  旧約聖書:創世記 24章61~67節               片柳教会・主日礼拝

●序.先週は、アブラハム息子イサクとリベカの結婚の美しい物語を学びました。
そしてイサクは、キリストを現わし、リベカは教会を現わしていることをエペソ人への手紙から学びました。
今日は、キリストの花嫁である私たち教会の模範となったリベカの信仰から私たちの信仰についてご一緒に学びましょう!

●1.  キリストの花嫁としてのリベカは 「従順な」 信仰  (創世記24:50~61)

24:61 リベカとその侍女たちは立ち上がり、らくだに乗って、その人の後について行った。こうして、しもべはリベカを連れ帰った。

アブラハムのイサクの妻として選ばれたのはリベカという女性です。リベカはイサクの妻となるために、アブラハムのしもべエリエゼルに従って、自分の生まれ故郷を出ることになりました。
井戸の傍らで初めてアブラハムのしもべに出会った時から、リベカの態度は、ただ受け入れること、そしてただ従うこと、一貫しています。
 しべが「水を飲ませてください」と言われれば、「ハイ」と言ってその申し出を受け入れて、人にだけでなく、ラクダ10頭にも「水を汲んで飲ませてあげました」。次に、しもべから「あなたのお家には、私たちの泊まれる場所はありますか? ラクダの藁とエサもありますか?」と尋ねられると、リベカは、家に泊まる部屋があること、ラクダのための藁もエサも十分にあることを告げて、走ってお家に帰り、しもべたちを歓迎しました。  
さらに、お嫁さんとして選ばれたことを告げられて、父と兄から「お前はこの人と一緒に行くか?」と尋ねられると、すぐに受け入れて、「はい、行きます」と応答しました。
 こうしてリベカは、その侍女たちと立ち上がり、共にラクダに乗り、その人の後について行ったのです。
 ここでも、「従順に従う」リベカの姿を見ることができます。
 でも、皆さん、少し想像してください。これから生まれた土地を離れ、家族とも別れて、全く未知の地へと踏み出すのです。 結婚する相手がどういう人であるのか、まだ会ったこともない、写真を見たこともない、全く知りません。カナンという土地がどういう気候で、どのような人々が生活しているのかもわからない。そこまで、どの道を通って行くのかも分からない、生まれ故郷から生まれて初めて外の未知の世界に旅立つのです。 
しかし、リベカは立ち上がり、ラクダに乗り、その人の後をついて行きました。
リベカは、キリストの花嫁です。私たち教会、クリスチャンを表しています。
あなたは主に選ばれ、主からの呼びかけを受けて、イエス様を信じ、心にお迎えし、主に従う信仰に踏み出しました。これと似ています。
 私たちも、今まで経験したことのない道へと踏み出すことにおいて、リベカと同じです。
私などは、クリスチャンホームに生まれたわけでもありません。むしろ神社の神主の孫です。
クリスチャンホームならぬ、神道ホームですよ。田舎では、まわりにクリスチャンは一人もいませんでした。
私が、田舎では、初めてのクリスチャンです。そして初めての牧師です。

 リベカは、「その人の後について行った」とあります。信頼がなければ、とても従っては行けません。
はたしてこの人が言われることは、本当だろうか? 本当に私はお嫁さんとして迎えられるのだろうか?
迎えてくれる人は、果たして、この人が話してくれたように立派な素晴らしい信仰の人たちなんだろうか?
もし、うそだったらとんでもないことになる。疑えば、きりがありません。
聖書の信仰の世界もそうです。疑えばきりがありません。だって、まだ見ていないんですから、天国だって行ったことがないんですから。でも、主に従うことから、全てが始まります。
私たちもリベカのように、「主への従順な信仰」をもって主に従いましょう。皆さんアーメンですか?

●2. キリストの花嫁としてのリベカは 「 信じ、行動する 」 信仰 (へブル11:1~3)

リベカは、未知なる世界に踏み出しました。だから信じること、ただその一点にあります。

ヘブル11章1~3節
11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
11:2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

リベカは、まだ見ていません。しかし、アブラハムのしもべエリエゼルの話を聞き、素直に受け入れた時に、リベカの心に望みが生まれ、まだ見てはいませんが、もうすでに見ているかのように確信して、その人に従って出で行きました。
まだ見たこともない人との結婚を決断するには、主の導きに対する信仰が必要です。
本当の信仰の姿がここにあります。「信仰とは、まだ見てはいないが、御言葉により、もう見ているかのように信じて、行動することです。」 私たちの聖書の信仰もそのようなものです。
リベカは、ただ信じました。そして従いました。信じる事と従う事とは1つの事だということを証明したのです。ですから信仰は、行動です。信じる事と行動とは1つのことです。
「リベカは、見ずして信じる信仰の人です」
リベカは、信じて、立ち上がり、らくだに乗って、その人の後について行ったのです。
信仰即行動、信行一致とでもいいましょうか? リベカは、ただ信じる人であり、即行動の人です。
●アブラハムが生まれ故郷のウルを出た時もそうでした。(創世記12:1~2・4)
12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
12:4 アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。
アブラハムが主の御言葉を信じたということは、その御言葉に従って、故郷を出て行くことでした。
●ノアの場合もそうでした。洪水による世界のさばきと箱船を造りなさいという主の御言葉を聞いて信じたノアは、直ちに箱舟を造り始めました。
(へブル11:7)「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」

●きっと、皆さんも「私は信じています」とおっしゃる思います。では、どんな信じ方でしょうか?
「リベカは立ち上がり」とあります。あなたも「立ち上がって」という行動になっているでしょうか?
信じて立ち上がっていますか? 「ハイ」と返事しているだけで、まだ座り込んだままではいませんか? 
それとも、もう従って一歩踏み出しているでしょうか? 信仰による歩みが始まりましたか?
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させのです。」私たちも、アブラハム、ノア、リベカのように、御言葉を信じ、立ち上がり、行動する者となりましょう。皆さんアーメンですか?

●結論: 「あなたも、信仰の交わりを保ち、前進しよう!」

❶ 信仰の交わり(小グループの交わり)を保つ

リベカはカナンの地を目指し、イサクとの結婚に向かって、未知の長い旅が始まりました。
野を越え、山を越え、川を渡り、焼けつくような荒野を越え、困難な道を通る、長い長い旅が続きます。
リベカは、ただ連れて行ってくれるアブラハムのしもべエリエゼルを信頼して付いて行きました。
しかし、困難な旅が進むにつれて、険しいた旅路に不安な心細い思いが心に満ちたことでしょう。 
そんなリベカを支えたものは何でしょうか?
それはアブラハムのしもべたちとの交わりでした。アブラハムのしもべたち、仲間との交わりでした。
旅を続けて、一緒に食事を共にして、人柄に触れ、信頼できる人たちだと確信し、心に生じる不安が消えて、平安と希望に変えられたに違いありません。

 愛する皆さん、私たちの信仰の旅路も同じです。信仰の歩みが始まると、そこにはすでに信仰の仲間がいます。あなたを指導して導いてくれる先輩がいます。一緒に祈ってくれる兄弟姉妹がいます。歩む道は平たんではありません。困難や試練があります。疑いが起こり、躓きがあり、不安な気持ちにもなります。
 リベカの不安に満ちた旅が、楽しい旅に変えられのは、アブラハムのしもべたちとの交わりでした。
しもべが道々、話してくれたアブラハムの事、イサクの事、夫になるイサクの人柄や信仰、ヘブロンでのアブラハム一族の生活の様子など、イサクに対する理解が日々重ねられ、深められて行きました。
 私たちも、たったひとりで信仰生活を送れる人はいません。神の家族と共に礼拝をささげ、小グループで兄弟姉妹との安全な交わりの中で、兄弟姉妹と何でも分かち合い、祈り合い、励まし合って、信仰の旅を歩んで行くのです。今日も礼拝後に小グループの祈り会が持たれます。信仰の交わりを大切にしましょう。
皆さんアーメンですか?

❷ うしろのものを忘れ、前に向かって進む  (ピリピ人への手紙3章13~14節)

3:13兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っている
のです。
リベカは、うしろを忘れ、これから行き先に対する望みをいよいよ固くし、強くして前進して行きました。
もし、自分の行く先に対する望みが強くなっていかなければどうでしょうか?
 だんだん、イサクは、なんだかつまらない男性で、退屈な人の所に行くようで、行くことが嫌になります。
ああ今頃は、お母さんやお兄さんは、お父さんたちと楽しい夕食のご馳走を食べている頃だわ! ホームシックにかかり、旅がいやになってしまうでしょう。しかし、これから嫁いでいく先にある夫となるイサクとその父アブラハムの家の素晴らしさを知らされて、それがわかればわかるほど、リベカの旅は、うしろを忘れ、ひたすら前のものに向かって進む楽しい旅となりました。

 私たちの信仰の旅路もそうです。主イエス様の素晴らしさが日に日に理解が深まり、目指す神の国、天国への望みは、いよいよ堅くされ、うしろもものを忘れて、ただただ前に備えられたものを慕い求めて、前進する歩みがそこに現れていくものです。
 私たちクリスチャン、教会は、キリストの花嫁として選ばれ、花婿となるイエス・キリスト様と結ばれ、神の国の実現の時を望みつつ。この地上の旅を続けていく者たちです。

 リベカがイサクの花嫁として選ばれ、旅するのと同じです。ですから私たちも、イエス様のことを御言葉により、聖霊様の導きと、教会の交わりを通して、本当に深く味わい、わかってくると、それにつれて、うしろを忘れ、ただ前に向かっていよいよ強くされて行きます。これが生きた信仰です。

● ちょうど、父アブラハムと子どもイサクとしもべエリエゼルは、父なる神様、御子イエス様、聖霊様の三位一体の神を表しています。しもべは、アブラハムから遣わされて、リベカの所に行きました。同じように、聖霊様は、父なる神から遣わされて、私たちの所に来てくださいました。この聖霊様のお働きと呼びかけがなければ、聖霊様の導きがなければ、イエス様を救い主、人生の主と告白し、信仰を持つことをできません。聖霊様が、何も知らない者、あなたに呼びかけ、引き出してくださったように、しもべはリベカを引き出したのです。 
そして、私たちと絶えず共にあって神の真理を教えてくださり、父なる神様について、御子イエス様について深く教え、神の真理と事実を悟らせ、絶えず励ましてくださるのです。それゆえに、私たちは、父なる神の素晴らしさ、御子イエス様の素晴らしさを知らされて、いよいよ主への愛と信頼を益々増し加えて、主を慕い、求めるのです。  聖霊様を信頼し、信仰の旅路を天の御国向かって続けて行くのです。
●(第Ⅰコリント人への手紙13章12節)
「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」
 リベカがついに、顔と顔とを合わせて、イサクと出会い、結ばれて結婚したように、やがて、あなたも、キリストの花嫁として、天において主イエス様と顔と顔とを合わせて、一つと結ばれる日が来るのです。

それは信仰の旅路の完成であり、この地上の歩み終え、罪の肉体からも解放されて、主イエス様とひとつとなる救いの完成を見るのです。
その日を待ち望み、うしろのものを忘れ、前に向かって進んで参りましょう!皆さんアーメンですか?

お祈りいたしましょう。「父なる神様、御子イエス様、聖霊様、御名を賛美します。私たちは信仰の旅路において、疑い、悩み、迷います。私たちを憐れんでください。私たちの不信仰をお許しください。イサクと結婚したリベカはキリストの花嫁です。私たちもキリストの花嫁なる教会です。私たちもリベカのように従順な主への信頼と信仰をもって、主に従い、御言葉を、信じて行動する者とならせてください。また信仰の交わりを保ち、弱い私たちが兄弟姉妹と祈り合い、励まし合い、うしろのものを忘れ、前に向かって進み、やがてこの地上の歩みを全うし、イエス様と顔と顔とを合わせ、救いの完成の日を迎えることができますようにお一人おひとりを聖霊様が導き祝福してください。主イエス・キリスト様のお名前によってお祈りいたします。アーメン」