日本と世界は、コロナウイルスの大きな試練の中にあります。全てをご存知の主が、私たち一人一人を顧みてください。医療の最前線で、懸命に労しているお医者さまや看護師の方々、行政や警察の皆様、患者さんたちを癒し、励ましてください。世界がこの危機を協力して乗り越えることができますように。また学校に行けずにいる子どもたち、ご家族のおひとりおひとりを励まし、お支え下さい。今日も命の御言葉と聖霊さまの力によって、私たちが励ましと祝福を受けることができますように、イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。」
- 序。先週は、イースターで、イエス様の復活を記念する礼拝でした。この素晴らしい記念すべきイースターに主イエス様にお目にかかれなかったら、皆さんはどうでしょうか? さぞかし、ショックでないかと思います。 実は、弟子たちの中で、イースターの日、イエス様に会うことができなかった弟子が一人だけいました。
その人は「トマス」です。今日はこのトマスとイエス様との出会いの御言葉をご一緒に受けましょう。
- 1. ふたごのトマス (ヨハネ20:24)
20:24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
このデドモと呼ばれるトマスとは、どういう人だったのでしょうか? このヨハネ20章に出て来るトマスを見ますと、ただのへそ曲がりの懐疑主義者、悲観主義者に見えます。
ですから、トマスは一般には「疑い深いトマス」と呼ばれています。『讃美歌21』の197番でも、「信仰の弱い人間、見ないと信じない疑い深い人、トマス」と歌われ、人間のマイナスの面を代表する人物のように扱われてきました。英語の世界では、『疑い深い人』のことを「Doubting Thomas」と言われるくらいです。
実に、ありがたくないあだ名です。私も今まではそのように単純に理解していました。この機会に、じっくりと聖書を学びました。そして、新たな発見がありました。その惠みを分かち合いたいと思います。
このトマスは、「デドモ」とも呼ばれます。この「デドモ」とは「ふたご」という意味です。
ですから、仲間の弟子たちからはいつも「デドモ」とニックネームで呼ばれていたのです。
なぜ、トマスが「デドモ」「双子のかたわれ」と呼ばれていたのか、その理由は聖書には書かれていませんが、おそらく実際に双子のうちの一人だったのでしょう。
古代においては、双子が生まれる事は、何か不吉な前兆として恐れられて、双子の片方を殺したり、二人とも殺したりする事がありました。その背景には、子どもを同時に何人も産むなど、獣みたいで汚らわしいという偏見があり、実際問題、赤ちゃんを2人育てることが経済的に貧しい社会においては、どちらか弱い方を、捨てて「間引き」する事もあったようです。初代教会は、そのように間引きされ、捨てられた孤児たちを積極的に受け入れ、神の子どもとして育てました。この愛の業が社会を変革していったのです。
さて、イエス様の12弟子たちを見みると、実はそのうち3組が、実の兄弟で弟子入りしています。
まず、漁師のペテロとアンデレ兄弟。次に同じ漁師で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ兄弟。そしてヤコブとタダイの兄弟。12人のうち半分の6人までが、兄弟そろってイエス様の弟子なのです。
ところが、どうして「双子」と呼ばれたトマスだけが独りぼっちなのか? これは推測ですが、トマスの双子の兄弟は、生まれて間もなく引き離され、もう既にこの世にいないのではないか、とも考えられます。
もしそうだとすれば、トマスが生きているその命は、双子のもう一人が間引きされ、その犠牲の上に成り立っていることになります。弟子たちからもトマスは、いつも「おい、双子のかたわれ」と呼ばれていました。
まぁ慣れていたでしょうが、時折、トマスは、自分の代わりに命を絶たれたもう一人の兄弟のことを思い浮かべることもあったでしょう。
また、双子に生まれたトマス自身も、幼い頃から人々から気味悪がられ、差別される人生を送り、そのことがトマスの心に暗い影を落としていたと考えられます。
トマスが背負ってきた人生の暗さ、心の屈折を想像すると、トマスを単純に「不信仰な人間」だと裁く気にはなれません。私たちもそれぞれに、様々な過去、生い立ち、影を背負っていることを、双子のトマスは、私たちに教えてくれます。 第1のポイントは「ふたごのトマス」です。
- 2、 苦悩するトマス (ヨハネ11:14~16)
トマスを理解するためには、ヨハネ11章14~16節のみことばを学ぶ必要があります。
11:14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。
11:15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」
この出来事の背景は、エルサレムから3キロの所にあるべタニヤの村のラザロが病で死んだのです。
主イエス様は、ラザロの眠りを覚ますために、ラザロの家に行く、と語られました。イエス様のエルサレムへの最後の旅です。ユダヤ教の指導者たちはイエス様を捕らえて、亡き者にしようと陰謀を企てていました。
弟子たちもそれを感じて、反対していたのです。でも、ただひとりトマスだけは、イエス様の死の危険を嗅ぎ取って、主が死なれるならば、俺たちも一緒に死のうと発言しました。トマスは、殉教の死を覚悟していたのです。 トマスはそれほどまでに、主イエス様を熱く、愛して、主イエス様に献身していたのです。
- トマスはイエス様の死を予期していたものの、それが現実となったショックが大きく「傷心のあまり、イエス様に会わせる顔がない。忍びなかった」のかも知れません。もしそうだとすれば、復活の日に、弟子たちと一緒にいないで、トマスだけが不在だったのは、トマスの心の優しさの表れといってもよいでしょう。
主の十字架の死という悲惨な現実に触れて、トマスは、弟子たちから離れ、ひとり男泣きに泣き崩れ、立ち上がることができないほどに、落ち込んで、心が打ちひしがれていたのではないでしょうか?
立ち上がれないような人は、弱い人というのでなく、本当は心の優しい人です。言い換えれば、トマスは、正直な人です。トマスは、愛の深い人だったのでしょう。
愛の深い人は、悲しみも人一倍深く感じるからです。このような人なら、私たちは、自分の悩みや苦しみを共感してもらうことができ、トマスのそばにいるだけで、私たちの気持ちが落ち着くような気がします。
ここに良心の呵責に悩み、苦悩するトマスの姿を見ることができます。
- 3. 赦されたトマス (ヨハネ20:25~28)
20:25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
トマスは、主イエス様の十字架の死という出来事に直面しました。この十字架の出来事は、以前からトマスの心の中に潜んでいたもうひとつの影と重なり合って、大きな重荷となっていた可能性が高いのです。
トマスは、本来ならば、イエス様といっしょに死ぬつもりでした。しかし、現実には、自分はここに生きていて、イエス様だけが捕えられて殺されてしまった。こんな自分が生きるために、イエス様を見殺しにした……。この感覚は、トマスのこれまでの人生そのものと響き合うものがありました。双子のかたわれとして、自分の兄弟が殺されたおかげで、自分は、この世に生きている現実があったからです。
「ああ~、イエス様が自分の代わりに死に、自分はここに生きている」という事実は、彼の心のいちばん深い部分で、トマスを苦しめ続けている真実と重なり合うのです。だからこそ、トマスは、意固地になって、仲間の弟子たちに「俺は決して信じない。」と言ったのではないでしょうか。
- 20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
8日後の日曜日、イエス様は心を頑なにしているトマス、ひとり意固地になってへそを曲げているトマスのために、わざわざイエス様は、現れて、トマスに十字架の釘の跡を示して、語られました。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手をみなさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。」と優しく語られたのだと思います。
双子の兄弟の死によってトマスの心にかかっていた暗い影、トマスを縛っていたトラウマは、イエス様の身代わりの十字架の死と復活によって新しい意味を与えられました。
「わたしがここに生きている、その背後には誰かの死がある」ということ。そのことで、心を病み、停滞したままでいるのではなく、「イエス様が死んでくれたからこそ、私は今を生かされているのだ!」
と現実を前向きに、しかし厳粛に受けとめ直して、人生を再出発する道を、イエス様は、トマスにお示しくださったのです。トマスにとって、それが復活のイエス様との出会いによる「赦し」の恵みでした。
「赦し」とは、私たちの罪深い現実を直視した上で、それでも「罰せられたり責められたりすることはもうないのだから、勇気をもって、希望をもって、そこから一歩踏み出しなさい」という呼びかけです。
すなわち、再出発への招きです。
罪をしっかりと自覚した上で赦された者は、自分のエゴイスティックな現実から目をそらすことは無い。でも、少しづつ、自分の人生のありかたを、変えてゆく。すなわち「悔い改め」に向かって行くのです。
20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
こうして、トマスはイエス様に「私の主、私の神よ。」と最高の信仰告白をしました。復活の主イエス様に出会った者は、誰でも、イエス様はその人にとって、「私の主、私の神」となるのです。
私たちの主イエス様に、あなたも「私の主、私の神よ」と、今朝、信仰を新たに告白しましょう。
・結論: 「あなたは、聖霊様を受け遣わされる」(ヨハネ20:21~22)
20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
トマスは、復活のイエス様に出会い、イエス様を信じ、「私の主、私の神よ」と信仰告白して、聖霊様を受け、トマスの人生は、新しく生まれ変わりました。
- 新しく生まれ変わったトマスは、今度は、何とイエス様の双子の兄弟として歩んで行ったのです。
トマスはイエス様に似た者となり、イエス様のような生涯を送りました。それが双子のトマスなのです。
呪いの双子が、祝福の双子となったのです。イエス様は「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」とおしゃいました。その後のトマスの生涯は、「トマスの福音書」を書き上げ、遠くペルシャ、そしてインドまで宣教し、やがて殉教の死を遂げたと云われています。 私は、イエス様の双子となったトマスが大好きになりました。
皆さん、私たちもトマスのあとに続いて行きましょう。私たちも聖霊様に変えられてゆきましょう。
トマスのように主に遣わされたあなたの場所、家庭や学校、職場、教会で、最後まで主のために生きに、働き奉仕して、主に変えられた証の生涯を全うさせて頂きましょう!皆さん、アーメンですか?
お祈りいたしましょう。「愛する主よ。私たちは、今朝、それぞれの家庭や場所で、あなたによって招かれ、オンライン礼拝に集い、主の恵みを頂き、心から感謝いたします。私たちは、あなたから頂いた、この命が、復活の主の愛によって、赦され、生かされていることを常に思い起こさせてください。願わくは、私たちがそれぞれ自分に与えられた命を、他者から奪うためでも、他者を利用するためでもなく、お互いのために用いて、イエス様のふたごの兄弟として生きたトマスのように、私たちも与え、励ましと希望を与える、喜び多い人生を送ることができますように。愛する主イエス・キリスト様の御名によって祈ります。アーメン。主よ感謝します。」