イサクの結婚(3)創世記24章50~67節 2020年2月2日 片柳福音自由教会

 『イサクの結婚(3) ~結婚は、キリストと教会の関係~』          2020年2月2日
     旧約聖書:創世記 24章50~67節             片柳教会・主日礼拝

●序.先週は、アブラハムしもが、息子イサクのお嫁さんを探すため、アブラハムの親族のいるアラム・ナハライムに向かい、リベカに出会った所まで確認しました。今日は、続きでイサクとリベカの結婚です。

●1.  結婚は、「主のみこころ」に従う  (創世記24:50~61)

24:50 ラバンとベトエルは答えた。「【主】からこのことが出たのですから、私たちはあなたに良し悪しを言うことはできません。
24:51 ご覧ください。リベカはあなたの前におります。どうぞお連れください。【主】が言われたとおりに、あなたのご主人の息子さんの妻となりますように。」
24:52 アブラハムのしもべは、彼らのことばを聞くやいなや、地にひれ伏して【主】を礼拝した。
24:53 そして、このしもべは銀や金の品物や衣装を取り出して、リベカに与えた。また、彼女の兄や母にも貴重な品々を贈った。

●(1) 兄ラバンと父ベトエルは、主のみこころに従う

 アブラハムのしもべエリエゼル一行は、ラバンの家でもてなしを受けました。そこで、しもべは、主人アブラハムから命じられたイサクの妻となるべき女性は、アブラハムの親族であるという条件の事を話した。
そして到着して、井戸の傍らで、しもべの祈りに対して、主が鮮やかに答えられた事を証しました。その女性は、しもべの求めに気さくに応じる親切な女性でした。しかも、10頭のラクダにも、井戸から水を汲みという忍耐強い女性でした。その女性はリベカで、何とアブラハムの兄弟の孫、つまり親族であったのです。
しもべの証しを聞いて、リベカの兄ラバンも父ベトエルも「これは主から出たこと、主のみこころと認め、リベカをイサクの結婚に同意しました。しもべは、ひれ伏して、主に感謝し、礼拝を捧げました。
私たちも主のみこころと確信したときは、喜んで主に従いましょう。アーメンですか?

●(2) リベカも、主のみこころに従う

24:58 彼らはリベカを呼び寄せて、「この人と一緒に行くか」と尋ねた。すると彼女は「はい、行きます」と答えた。
24:59 そこで彼らは、妹リベカとその乳母を、アブラハムのしもべとその従者たちと一緒に送り出した。
24:60 彼らはリベカを祝福して言った。「われらの妹よ、あなたは幾千万にも増えるように。あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」
24:61 リベカとその侍女たちは立ち上がり、らくだに乗って、その人の後について行った。こうして、しもべはリベカを連れ帰った。
翌朝、しもべは、アブラハムの所に帰ることを申し出ます。せめて10日程、親子水入らずで、別れの時を過ごしたいという母親の願いに、しもべは、一日も早く、リベカさんをお連れしたいと譲りません。
●兄ラバンと母は、改めて、リベカに尋ねます。「あなたは、この人と一緒に行くか?」リベカは「はい、行きます」と即答します。昨日、井戸で初めて出会い、今日には、イサクとの結婚を主のみこころと信じ、主に従う従順なリベカです。
「恋愛結婚」であれ、「お見合い結婚」であれ、結婚の本質は「主のみこころを確信し、主に従う」ことです。家族は、リベカを祝福して送り出しました。井戸の水を汲んだリベカにはお礼として先にプレゼントされた金雄飾り輪と金の腕輪は、現代の金に換算して150万円程の価値です。さらに結婚が決まってからは、花嫁となるリベカだけではなく、家族にも沢山の贈り物が与えられました。これが主の祝福です。
(使徒の働き16章31節)「 主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
主の救いがあなた一人だけではなく、家族全体に注がれるように、主の祝福は家族にも注がれます。
主は、私たち、主に従う者にも、やがて家族に全体にも主の祝福が注がれることを信じ、忍耐し、主に従順しましょう。皆さんアーメンですか?

●2.  結婚は、「キリストと教会」 の関係 (創世記24:62~67)

24:62 一方イサクはベエル・ラハイ・ロイ地方から帰って来ていた。彼はネゲブの地に住んでいたのであった。24:63 イサクは夕暮れ近く野に散歩に出かけた。彼が目を上げて見ると、ちょうど、らくだが近づいて来ていた。 24:64 リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、
24:65 しもべに尋ねた。「野を歩いて私たちを迎えに来る、あの方はどなたですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。」そこで、リベカはベールを手に取って、身をおおった。
24:66 しもべは、自分がしてきたことを残らずイサクに話した。
24:67 イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカを迎えて妻とし、彼女を愛した。イサクは、母の亡き後、慰めを得た。
●アブラハムのしもべとリベカとリベカの乳母たちは、約1ヶ月の旅を経て、カナンへと向かいました。
62節から舞台はカナンのヘブロンに移ります。ちょうど仕事を終えて戻って来たイサクのもとにリベカたちが近づいて来ました。
●らくだに乗っていたリベカもイサクの姿を見つけ、「野を歩いて私たちを迎えに来るあの方はどなたですか?」と尋ねます。しもべは「あの方が私の主人です。」との答えを聞くと、リベカはラクダを降りて、ベールで体を覆いました。当時、婚約が成立した女性は、結婚まで相手の男性には顔を見せないという習慣がありました。ベールで覆ったことで、リベカは、イサクに対して私はあなたの婚約者ですとハッキリとメッセージを伝えました。イサクは、3年前に、母を亡くしていました。その母の天幕にリベカを連れて行き、慰めを得ました。 これは非常に美しい絵画のようなロマンチックな結婚の物語です。
但し、リベカを母の天幕に連れて行きました。イサクは、マザコンですね。イサクは素晴らしい信仰の人でしたが、マザコンで、自立できていません。リベカを配偶者としてではなく、リベカを母サラの代理として迎えたのです。精神的に自立していないイサクとリベカ夫婦の家庭に影をもたらし、双子の息子エサウとヤコブの兄弟ケンカの伏線となりました。
ところでイサクとリベカの結婚は、キリストと教会の関係にたとえられます。
❶旧約聖書のイサクは、アブラハムの一人息子で、しばしば神のひとり子イエス様にたとえられます。
❷イエス様が十字架の犠牲に献げられたように、イサクも全焼の犠牲として献げられました。
❸イエス様が死から三日目に復活されたように、イサクも、三日目に主の備えられた雄羊によって死ぬべきところを免れました。

 このようにイサクは、キリスト、花嫁リベカは、教会にたとえられます。そして結婚は、使徒パウロがキリストと教会の関係になぞらえられています。新約・エペソ人への手紙5章18~25節を開きましょう。
●5:18 むしろ、御霊に満たされなさい。
5:19 詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。
5:20 いつでも、すべてのことについて私たちの主イエス・キリストの名によって父である神に感謝しなさい。
5:21 キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。
5:22 妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。
5:23 キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように夫は妻のかしらなのです。
5:24 教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。
5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し教会の為にご自分を献げられたように,あなたがたも妻を愛しなさい。

結婚についてですが、独身の皆さんに、結婚の祝福を語りすぎるのも問題かもしれませんし、反対に、人間の罪のゆえに、結婚の困難さを強調しすぎるのも、結婚への夢も希望も失わせてしまいます。
大きな励ましと希望は、このエペソ人への手紙です。
エペソ人への手紙5章は、イエス様の十字架の救いによるキリスト者の再創造という大きな視点から、すべての人間関係を見直す一つの題材として家庭が描かれています。家庭は神のみわざの舞台です。
「新しい創造としての結婚の関係が教えられています。」神のかたちに創造された男と女が、キリストにあって再統合される新しい結婚のことを教えています。
その中心聖句が「御霊に満たされなさい。・・・キリストを恐れて互いに従い合いなさい。」です。
●18節の「御霊に満たされなさい」という主動詞を修飾する四つの分詞の節があります。
第1は、(5:19)「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い」こと、
第2は、(5:19)「主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」です。
第3は、(5:20)「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。」
第4が、(5:21)「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。」という勧めです。
つまり、クリスチャンは、聖霊様に満たされて、お互いを尊敬し、従い合うという人間関係が、夫と妻の結婚の関係に表されるというのです。

●5:22 「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」と訳されている言葉は、新約聖書のギリシャ語では厳密には、「妻たちよ。主に対するように自分の夫に」と書かれています。実はこの22節の原文には「従いなさい」という動詞はありません。分かりやすい翻訳のために「従う」という動詞を入れたのです。でも原文にはない命令形を2回も入れては、妻への一方的な服従命令が強調されていると誤解を与えます。これはあくまでも、すべてのクリスチャンに命じられている「互いに従いなさい」という枠の中で、妻が率先して主のご命令を夫との関係の中で実践するようにと勧めるものです。
これは今までの人類の歴史の中で、女性差別と封建制によって「服従」を強いられている女性に向かって、被害者意識から自由になって、「従う」ということをキリストの視点から見直すという発想の転換を迫るものです。つまり、妻も夫も、聖霊様に満たされて、主を心から礼拝し、賛美し、感謝をささげるという信仰生活の中で、心から夫に仕える、妻に仕えるという創造的な生活が勧められています。
クリスチャンの生き方は、徹底的に人の気持ちに寄り添い、仕えるという生き方です。
当時の宗教指導者が、言葉だけで教えて、人を動かそうとしていた時に、イエス様は、無言でしもべとなって弟子の足を洗い、仕えるという行動で、弟子の心を変えようとされました。
●5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。
ギリシャ語の原文でも、妻の場合とは対照的に、「愛しなさい。」という動詞が2度も登場します。
夫に対しては、「妻を愛しなさい」という絶対的な命令形で書かれています。

イエス様は、教会を愛して、教会のために、十字架で命を捨てられ、自己犠牲の愛で仕えられました。同じように、夫は、妻を、キリストが教会を愛したように、命を賭けて、妻を愛し、仕えなさいと命じられています。こうして、キリストが教会を生かすように、夫も妻を生かすことができるのです。このように、イエス様を信じ、救われた者は、聖霊様に満たされて、主に向かい、礼拝し、互いに仕え合い、愛し合い、幸せは家庭を築くのです。
愛する兄弟姉妹、私たちも、夫婦も、親子も、イエス様を信じ、聖霊様に満たされて、互いに愛し合い、仕え合うのです。これが新しい主にある家族、夫婦、親子の生き方です。すでに結婚されておられる皆様は、パウロの勧める夫婦を目指しましょう。将来結婚を目指し兄弟姉妹は、主にあって結婚に希望と夢をもって幸せなクリスチャンホームの建設を目指しましょう。皆さんアーメンですか?

お祈りしましょう。「父なる神様、御子イエス様、聖霊様、三位一体の主の御名を賛美します。あなたは人を、神のかたちに似せて、男と女とに創造されました。そして結婚を制定されました。家庭は、神のみわざの舞台です。しかし、あなたに罪を犯し、この世界は堕落し、家庭にも罪の闇が入りました。あなたは御子イエス様を遣わして、十字架の贖いにより、私たちを救い、再創造された者として、私たちが聖霊様に満たされて、共に主に向かい、礼拝し、家庭が再建され、夫婦、親子が主にあって愛と信頼に結ばれて、互いに仕え合い、愛し合うことによって、あなたの祝福を受け、主の栄光を現わすことができましょうにお導きください。御言葉に感謝し、主イエス・キリスト様の御名によってお祈りいたします。アーメン。」 

イサクの結婚(2)創世記24章10~29節 2020年1月26日 片柳福音自由教会

  『 イサクの結婚(2) ~祈りは、すでにかなえられたと知れ~ 』  2020年1月26日
         
旧約聖書:創世記24章10~28節            片柳教会・主日礼拝

●1.  しもべの 「不条理」 (創世記24:2~4)

24:2 アブラハムは、自分の全財産を管理している、家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。
24:3 私はあなたに、天の神、地の神である【主】にかけて誓わせる。私はカナン人の間に住んではいるが、あなたは、その娘たちの中から、私の息子の妻を迎えてはならない。
24:4 あなたは、私の国、私の親族のところに行って、私の息子イサクに妻を迎えなさい。」
旅の出発前に、アブラハムは、自分のももの下にしもべの手を入れて、誓いを立てさせました。
アブラハムのしもべエリエゼルは、忠実なしもべでした。ですから、信頼の厚い、エリエゼルに大切な跡取り息子イサクのお嫁さん探しの大役を任せたのです。
先週は、特に触れなかったのですが、ももの下に手を入れて誓いを立てるということは、実は非常に重要な誓いです。「ももの下」とは、男性の生殖器のことです。そこに手を置いて誓いを立てるとは、誓約した誓いを果たすことができない時は、お前の命を奪うのです。アブラハムが討てない時には、アブラハムの子孫が、しもべの命を奪うという恐ろしい誓いです。

エリエゼルは、命がけの花嫁探しの役目を与えられました。これは、しもべにとっては、迷惑な話ですね。 しもべの立場ですから、選択の自由はありません。ただ「ハイ」と言って従うのです。逃れられない使命を無理やり押し付けられた。もし、お嫁さんを連れて帰ることが出来なければ、自分の命が奪われます。
皆さん、こんな非道な不条理があるでしょうか? まさしく、堕落したこの世界は不条理に満ちていますよ。「私の人生にどうしてこんな事が起こるんだろうか?私の家族や仕事に、なぜ、起こったのか?
主に従ったら上手く行くと思っていたのに、どうして、あなたはこのような試練を与えるのですか?
●これは実は、聖書の預言者エレミヤの嘆きです。 預言者エレミヤは、主の僕として、そう感じました。
彼は自分の民から迫害と拒絶の痛みを受けました。
エレミヤ書15章18~20
15:18 なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」
「欺く小川」とは、そこに行けば喉を潤す小川があると思って来た旅人が、夏枯れで干上がって喉を潤すことができない失望を語っています。主よ、あなたは、私が苦しんでいるのを知らないのですか? 助けてくれないのですか?他の人々のように、私を裏切るのですか?エレミヤは悩み、人生の不条理に泣いて、被害者モードに入っています。
皆さん、私たちも、同じではありませんか? 願うようにいかなかったり、困難や試練が続くと、人生の不条理に悩み、苦しんで、自己憐憫に陥るのです。自己憐憫は、嫉妬や妬みと同じように厄介な罪です。
でも、主は、エレミヤの自己憐憫をお許しにはなりませんでした。
●15:19 それで、主はこう言われた。「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。もし、あなたが、卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。
15:20 この民に対して、わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。──主のことば──

エレミヤが、自己憐憫で嘆き、つぶやくのではなく、主に立ち帰るならば、主は共にいて、救い、堅固な青銅の城壁となり、エレミヤを必ず助け出すという約束です。
あなたは、どうですか?主に従って、あなたや、あなたの家族、学校や職場が困難で辛くなる時、自己憐憫に陥りませんか? サタンは、それを見て喜びます。なぜなら、主にとって、あなたは役に立たなくなるからです。あなたが自分自身に焦点を当てると、自分を見失います。だから、自分の問題に焦点を当てないでください。自己憐憫は罪です。サタンは喜び、主は悲しまれます。
しもべエリエゼルは、人生の不条理の中にあっても、自己憐憫に陥らず、主に向かい、主に祈りました。
愛する兄弟姉妹、私たちも自己憐憫に陥らず、主に向かい、主にフォーカスを合わせて、主に祈りましょう。アーメンですか?

●2.  しもべの「 祈り 」  (創世記24:10~14)

24:10 しもべは主人のらくだの中から十頭を連れて出かけた。主人のあらゆる良い品々をその手に携えていた。彼は立って、アラム・ナハライムのナホルの町へ行った。
24:11 彼は夕暮れ時、水を汲む女たちが出て来るころ、町の外の井戸のそばにらくだを伏させた。

しもべは、出発する際に、らくだ10頭に「主人のあらゆる良い品々」を載せて出かけました。これは、イサクの妻となる女性とその家族への贈り物でした。
●ヘブロンからアラム・ナハライムまでは、約700キロです。新幹線で東京から岡山くらいまでの距離があります。ラクダの旅では約1ヵ月の旅です。「あ~こりゃラクダ!ラクダ!」なんでのんびりしたものではありません。大変な旅です。旅のはじめから、旅の間も、ずーと祈りの旅路です。クリスチャンにとって、祈りは、霊的な呼吸です。しもべエリエゼルは、旅の初めから、旅の終わりまで、ずっと祈り続けました。
私たちもそのように祈りましょう。アーメンですか?

アラム・ナハライムに到着したのは、夕暮れ時でした。しもべエリエゼルは、アブラハムの親戚の家を直ぐに訪ねませんでした。長旅で飢え乾いたラクダに水を飲ませるために井戸の傍らに行きました。でもラクダに水を飲ませるだけではありません。夕暮れ時は、女性たちが、井戸から水を汲むために出かけて来る時間です。しもべは、水汲み来る女性たちの中からイサクの妻を探そうとしたのです。彼は、自分の目を皿のようにして娘たちを品定めすることもできたでしょう。しかし、彼は、自分の力で探そうとはしないで、主に祈ったのです。主の導きに委ねたのです。  祈りは、すべてに優先しなければなりません。

●24:12 そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、私のために取り計らい、私の主人アブラハムに恵みを施してください。
24:13 ご覧ください。私は泉のそばに立っています。この町の人々の娘たちが水を汲みに出て来るでしょう。
24:14 私が娘に、『どうか、あなたの水がめを傾けて、私に飲ませてください』と言い、その娘が、『お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたが、あなたのしもべイサクのために定めておられた人です。このことで、あなたが私の主人に恵みを施されたことを、私が知ることができますように。」

しもべの祈りは、ただ漠然と祈ったのではありません。具体的に祈りました。
●まず、第1に、よく仕事をする女性です。
イサクの妻となる女性は、よく仕事をする働き者です。井戸の水を汲みに出てくる娘は、母親の仕事を手伝う働き者です。

●第2は、親切な女性です。
しもべが水を求めたら、「どうぞ、お飲みください」と親切に応じてくれる娘です。見知らずの人にも心優しい女性がイサクに妻に相応しいのです。

●第3は、よく気くばりのできる女性です。
「水を飲ませてください」と求められた時、相手の必要を敏感に察知して、「ラクダにも水を飲ませましょう」と、気配りのできる女性は、家族を幸せにできる人です。

●第4は、忍耐強い女性です。
ラクダ10頭に水を飲ませるには相当な量の水が必要です。ラクダ1頭で水80リットルの水を飲みます。
10頭で800リットルの水です。井戸から水を汲むのは大変が重労働です。ペットボトル400本分です。
ラクダと井戸の間を行ったり来たり、何回も往復しなければなりません。忍耐が必要です。結婚生活には、忍耐が必要です。そういえば、東京基督神学校の校長の丸山先生は、いつもおっしゃていました。
「結婚は忍耐を学ぶ学校です。」 とにかく忍耐強い女性は、祝福された結婚生活を送ることができます。
このしもべは、主の導きを求め、具体的で、適切な祈りを主に捧げました。

●3. しもべへの 「 祈りの答え 」 (創世記24:15~28・50~52)

24:15 しもべがまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはミルカの子ベトエルの娘で、ミルカはアブラハムの兄弟ナホルの妻であった。
24:16 この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。彼女は泉に下りて行き、水がめを満たして上がって来た。

しもべの祈りに対する答えは、速やかでした。祈り終えないうちに、主は答え、リベカを送られました。
主は、あらかじめ、しもべが祈る前から、イサクの結婚相手を備えておられたのです。恐らく、アブラハムとサラ夫婦の長い間の祈りの答えであったではないでしょうか?主は、私たちの祈りに即座に答えて下さるお方ですが、多くの場合は、背後で長い間の執り成しの祈りが積み重ねられているのです。
家族の救いもそうです。また、結婚するカップルは、本人たちの祈りはもちろんですが、背後には教会の祈り、家族の祈りが積み重ねられているのです。
 しもべは、祈った以上に答えられました。しもべは、イサクの妻となる女性の容姿のことなどは、祈っていません。なぜでしょうか? それは幸せな結婚にとって本質的な事ではないからです。
しかし、主は祈ったこと以上に、答えてくださったのです。
16節「この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。」
一番大切なことを祈り求める時に、主は他のことも必要ならば、備えてくださるのです。
しもべエリエゼルの旅は、祈りが大部分を占めていました。自分の経験や知識は、頼りになりません。
ただ、聖霊様に導かれないと、主が備えてくださる人に出会うことが出来ない。祈りによって、聖霊様が導かれます。祈り終わらないうちに、なんと! リベカがやって来ました。
●24:17 しもべは彼女の方に走って行って言った。「どうか、あなたの水がめから水を少し飲ませてください」
24:18 すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。ご主人様」と言って、すばやくその手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。
●24:19 水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだにも、飲み終わるまで、水を汲みましょう」と言った。
24:20 彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲みに、再び井戸まで走って行き、すべてのらくだのために水を汲んだ。
エリエゼルはリベカに水を求めます。すると素早く水かめを下ろして、彼に飲ませ、その上「あなたのラクダのためにも、水を汲んで差し上げましょう!」と、気さくに、10頭のラクダのために水を汲み続けたのです。

この間、しもべは、主の導きを、待ち望みつつ、黙ってリベカの事を見つめていました。
しもべは、焦ることもなく、じっと待ち続けたのです。
私たちは、祈りが少し堪えられると、すぐ有頂天になってしまい。主の御手の御業を最後まで、じっと待てない人がいます。  そのような人は、主の祝福を完全に自分のものとすることはできないのです。
 そういえば、昔、私が子ども頃、子どもたちがよく言ってました。 『慌てる乞食、貰いが少ない。』 
最近は聞かないのですが、理栄子に尋ねましたら、やっぱり子供の頃、子どもたちで言っていたそうです。
やがて、この女性リベカが、アブラハムの親戚であることを知ります。
●24:24 彼女は答えた。「私は、ミルカがナホルに産んだ子ベトエルの娘です。」
24:25 また言った。「藁も飼料も、私たちのところには、たくさんあります。それに、お泊まりになる場所も。」
24:26 その人は、ひざまずき、主を礼拝して、
24:27 こう言った。「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまことをお捨てになりませんでした。主は道中この私を導いてくださいました。主人の兄弟の家にまで」
24:28 その娘は走って行って、母の家の者に、これらのことを告げた。
●アブラハムのしもべは、リベカの家を訪問し、旅の目的と祈りの証しをして、お兄さんラバンも父ベトエルも、これはすべて主のみこころであると悟ります。そしてリベカをイサクの花嫁として送り出すのです。
24:50 ラバンとベトエルは答えた。「主からこのことが出たのですから、私たちはあなたに良し悪しを言うことはできません。
24:51 ご覧ください。リベカはあなたの前におります。どうぞお連れください。主が言われたとおりに、あなたのご主人の息子さんの妻となりますように。」
24:52 アブラハムのしもべは、彼らのことばを聞くやいなや、地にひれ伏して主を礼拝した。
聖書の中で、最も美しい結婚の物語です。こうしてしもべは、祈りで始め、祈りに導かれ、祈りによってイサクの妻となるリベカと出会いました。 しもべは、主にひれ伏して、感謝し、礼拝を捧げました。
皆さん、私たちも始めに祈り、祈りに導かれ、祈りによって主の御業を拝させて頂きましょう。アーメンですか?

●結論: 「祈りは、すでにかなえられたと知りなさい」 (マルコ11:24)

❶ 結婚は、主が備えてくださる出会い
イサクとリベカの結婚は、「恋愛結婚」ではなく、「お見合い結婚」になります。しかし、「恋愛結婚」でも「お見合い結婚」でも、結婚の本質は、主が備えてくださった伴侶との出会いです。主が私たちに先立って、一番素晴らしい、助け手を備えて、出会いを与えてくださるのです。将来幸せな結婚を目指す兄弟姉妹、主が備えてくださる出会いのために、あなたも、祈り備えましょう。アーメンですか?

❷ 祈りは、すでにかなえられたと知れ (マルコ11:24)
(マルコ11:24)「 ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」
私たちが、みこころにかなう祈りをささげるならば、必ず、主は与えられます。
主がすでに備えておられるからです。主はいつも、あなたとあなたのご家族のために最善のものを、最善の時に、最善の方法で、備えてくださる最善のお方です。だからと言って、祈り求めなければ、決して与えられません。祈りなしには何事も始まらないのです。主は、あなたが、祈り求めることを求めておられます。
祈って、祈って、祈って、御心にかなうなら必ず与えられます。

●例話:「新会堂建築の祈り」は、まさにその様な祈りでした。祈りの結果、主は、土地を交渉してくださった不動産会社の会長さん、新会堂を設計をしてくださったヴォーリズ設計事務所の設計士、建築したクレハ錦建築会社、協力してくださった行政の下水道局や水道局や道路局の局長さんなど、主がすべて備えてくださいました。圧巻は、銀行の決済、5千万が4回でした。3回目の5千万もぴったり満たされ、一か月後の最終決済も5千万円ぴったり1円単位で満たされました。主の奇跡です。でも、主が先立って、私たちを愛してくださり、すべてを備えて下さるのです。皆さん、アーメンですか?

お祈りいたしましょう。「父なる神様、御子イエス様、聖霊様、御名を賛美します。私たちは、人生の不条理に嘆き、呟きます。しかし、主は、自己憐憫をお許しになりません。それは罪だからです。私たちは、主のために役に立たないしもべにはなりたくありません。主に目を上げます。主の視点に見直すことができますように導いてください。イサクとリベカの結婚のように、兄弟姉妹や子どもたち、孫たちの幸せな結婚のためにも祈り求める事ができますように。また、主よ、あなたは最善のお方です。私たちのために最善のものを、最善の時に、最善の方法で備えてくださる恵みを信じ、待ち望むことができますように、主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン」

イサクの結婚(1)創世記24章1~10節 2020年1月19日 片柳福音自由教会

 『 イサクの結婚(1) ~あらゆる恵みをあふれさせるお方~ 』  2020年1月19日
       旧約聖書:創世記24章1~10節         片柳教会・主日礼拝

●1.  アブラハムの晩年の 「祝福」  (創世記24:1)

24:1 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。

アブラハムは、人並みに年齢を重ねて老人となりました。 アブラハムの晩年を聖書は語っています。
「主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。」とあります。まことに恵まれた晩年ですね。みんなが憧れるような晩年のアブラハムです。
「主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた」英語では「The Lord had blessed Abraham in all things.」(すべての事において、主は祝福された)のです。「すべての事においてです。」アブラハムの家畜は、いよいよ増えていきました。羊やヤギ、ラクダも、どんどん子どもを産みました。家畜が増え広がっていきました。アブラハムは、自分のために土地を少しでも持とうとはしませんでした。土地は、妻サラを葬るためのヘブロンのマクペラの洞穴を先週の23章で手に入れただけでした。けれども、アブラハムの持ち物は増えていきました。アブラハムは、どこへ行っても、その身の置く所で主の豊かなお取り扱いを頂くことができました。でも、それは、アブラハムの人格や能力の故にではありませんでした。アブラハムは、私たちと同じように、弱さを持った欠点だらけの人でした。自分の命の保身のために、妻を妹と嘘をつき、エジプトの王パロに妻を差し出し、危機一髪、主のご介入で救い出されました。
では、なぜ、主はあらゆる面で彼を祝福されたのでしょうか? 
アブラハムは、天地万物の創造主、生ける真の神を信じ、主に従っていたからです。 主を信じ、従う者に対して、主は、物質的にも、経済的にも、霊的にも祝福してくださったという事です。
●聖書は、反対、祝福を受けることができない人々についてヤコブの手紙4章で語っています。
4:1あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。
4:2 あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。
4:3 求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。

ここには、どこまでも、自分の肉の欲、やたら欲しがる姿がここにあります。こうして争いが起こります。
個人の世界では、たとえば遺産相続をめぐる骨肉の争いがあります。ビジネスの世界でも、自分の利益のみを第一にして強欲がトラブルとなります。こうしてせっかく獲得した財産さえも失い、あるいは自分自身さえも失い、家族を失い、人を恐れ警戒して、平安を失い、喜びを失い、満足もありません。

一方、アブラハムの生涯は、主なる神をすべてとして、主のご支配にすべてをゆだねていく生涯でした。主はすべてにおいて、アブラハムを祝福されました。こうしてアブラハムは、いよいよ豊かにされたのです。
●使徒パウロも、主の祝福について語っています。
(Ⅱコリント9:8) 「神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。
あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。」
8節には「すべて」という新約聖書のギリシャ語の「パース」(pa/j)という言葉が5回も使われています。
「あらゆる」とか「あふれる」とか、みんな「すべて」という言葉が使われています。主は、あらゆる恵みをもって、あなたとあなたのご家族を取り扱ってくださるというのです。

●【リビングバイブル】 「神様は、必要なものは何でもあり余るほど与えて、不足がないようにしてくださいます。 それで、必要が満たされたあと、なお十分な余裕があるので、他の人々に喜んで分けることができるのです。」
あなたがイエス様を信じ、あなたがイエス様をすべてとしていくということは何という素晴らしいことでしょうか? 主があなたと共にいてくださるということは何と素晴らしい恵みでしょうか?この事が、少しでも分かった者は、この世の物ではなく、ただ主だけを求める者に変えられていきます。アブラハムの時代よりも、さらに具体的に、目に見える姿で、イエス様は私たちの所に来てくださいました。聖霊様により、私たちの内に宿ってくださるイエス様こそ慕わしく、知れば知るほど、求めは切になって来ます。

こうして、アブラハムは、「主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。」という事になりました。
今年、あなたが、全てにまさる主イエス様を求め、神の国とその義を第1にしましょう。
マタイ6:33 「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」
こうしてあなたも、「主は、あらゆる面で祝福しておられた」となります。
あなたの名前をここに入れてみてください。「主は、あらゆる面で、滝田を祝福しておられた」と、このような1年を主と共い歩んでまいりましょう!皆さんアーメンですか?

●2. イサクの結婚の 「条件」   (創世記24:2~8)

24:2 アブラハムは、自分の全財産を管理している、家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。
24:3 私はあなたに、天の神、地の神である【主】にかけて誓わせる。私はカナン人の間に住んではいるが、あなたは、その娘たちの中から、私の息子の妻を迎えてはならない。
24:4 あなたは、私の国、私の親族のところに行って、私の息子イサクに妻を迎えなさい。」

アブラハムは、40歳位となったイサクのために、結婚相手を探す仲人の役目を、最年長のしもべに委ねます。 それは第1に、忠実なしもべであったからです。ダマスコのエリエゼルを選びます。
エリエゼルは、アブラハムが全財産の管理をゆだねていた一番信頼できる忠実なしもべだからです。
第2に、エリエゼルは、最年長者で、人生のベテランで、女性についても、結婚についても、よく知っていたからです。ここで人生の一大事である結婚について、3つ事が教えられます。

●(1)  主がかかわってくださる結婚  (24:3)

24:3 「私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。」

結婚は、人と人との関係だけで行われるものではなく、主がかかわってくださるということです。
ですから、アブラハムは、エリエゼルに「私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせ」ています。アブラハムは、イサクの結婚相手の選択を具体的には、しもべの手にゆだねていますが、究極的には、主がかかわってくださるように、主の主権に委ねています。私たちも、私たちの人生も、私たちの結婚生活も、いつも主がかかわってくださるように、主の祈り、主に委ねましょう。皆さんアーメンですか?

●(2)  主を信じる者との結婚  (24:3~4)

24:3 私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私はカナン人の間に住んではいるが、あなたは、その娘たちの中から、私の息子の妻を迎えてはならない。
24:4 あなたは、私の国、私の親族のところに行って、私の息子イサクに妻を迎えなさい。」

アブラハムは、イサクの妻となる女性は、カナン人の娘であってはならない、と命じています。
これは、どんなに美しく才能に恵まれていても、カナン人の娘は、主を信じていないので、アブラハムの約束を受け継ぐ子孫を生むに相応しくないからです。アブラハムは「私の国、私の親族のところに行って、私の息子イサクに妻を迎えなさい。」と指示します。それは、真の神を信じる者が結婚の条件でした。

将来結婚を祈り求めている皆さん、結婚の条件は、容姿端麗(イケメンであるとか、美人でかわいいとか)、お金持ちとか、背が高いとかではありません。高学歴、高収入が条件ではありませんよ。それは、この世の価値観です。聖書は、自分の罪を悔い改めて、主イエス様を救い主と信じ、人生の主として従う者です。お付き合いしている方が未信者の場合は、救われるように、祈り、伝道し、救い導かれるように励みましょう。救われていない配偶者が救いに導かれるように、今年も祈り、愛して、仕えましょう。
主は、結婚を通して、あなたの人生を祝福し、神のご計画を実現させようとしておられます。まだ結婚のために祈っていなければ、イエス様を信じる人と導かれるように、今年から結婚と相手のために祈り求めましょう。親である皆さんは子どもたちの救いと将来の結婚のために、また既に結婚した子どもの救いのために、主が最善に導かれるように祈りましょう。皆さんアーメンですか?

●(3)  約束の地を離れない(信仰の立場を捨てない)結婚 (24:5~8)
24:5 しもべは彼に言った。「もしかしたら、その娘さんが、私についてこの地に来ようとしないかもしれません。その場合、ご子息をあなたの出身地へ連れて戻らなければなりませんか。」
24:6 アブラハムは彼に言った。「気をつけて、息子をそこへ連れて戻ることのないようにしなさい。
24:7 天の神、主は、私の父の家、私の親族の地から私を連れ出し、私に約束して、『あなたの子孫にこの地を与える』と誓われた。その方が、あなたの前に御使いを遣わされるのだ。あなたは、そこから私の息子に妻を迎えなさい。
24:8 もし、その娘があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの、私との誓いから解かれる。ただ、私の息子をそこに連れて戻ることだけはしてはならない。」

アブラハムの親族がいるアラム・ナハライムは、大都会でした。 ですから、親戚の娘さんが、「カナンのヘブロンの田舎なんかには行きたくないわ。」と言った時は、イサクさんをアラム・ナハライムにお連れしなければなりませんか?とエリエゼルはアブラハムに尋ねます。
するとアブラハムは、答えました。「私の息子を、あそこに連れ戻ることがないようにしなさい。」
これは、イサクと離れて寂しくなるからではなりません。
主は、アブラハムを生まれ故郷のウルから連れ出されて、彼の子孫にこのカナンの地を与えると約束されたからです。主の約束、契約の地を離れてはいけないのです。だから、もしその女性かがカナンの地に付いて来ようとしなければ、しもべは誓いから解放されるのです。

結婚の第2の条件は、約束の地を離れない、つまり信仰の立場を捨てないということです。結婚しても信仰によって歩むのです。この2つの条件は、いつの時代でも、大切な条件です。いつの時代でもあっても真理です。結婚の問題も、結局は、信仰の問題です。そのような実際の生活や仕事の問題も、信仰に無関係なものは1つもありません。私たちクリスチャンにとって、すべてが信仰の問題なのです。ですから、全ての課題や問題の前に、アブラハムが語っているように、主は「あなたの前に御使いを遣わしてくださり、解決を与えてくださいます。

●例話『26聖人の殉教』(1597年2月5日・慶長元年12月19日)
今日から、NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』が始まりますね。主人公は本能寺の変で織田信長を打ち取った明智光秀の生涯です。明智光秀の娘は、玉子、後の細川ガラシャです。クリスチャン作家三浦綾子さんは小説「細川ガラシャ夫人」を書いています。その中に、豊臣秀吉の命により、信仰の迫害で殉教した長崎の26聖人の最後の場面が描かれています。その中にクリスチャンの武士三木パウロがいます。昨年日本を訪問したローマカトリック教会のフランシスコ教皇は、長崎のミサで、何度も三木パウロの名前を挙げて、「厳しい迫害を受けながら、最期まで説教を続け信仰を守った尊い信仰を忘れてはならないというメッセージしました。」昨日の早天祈祷会で、信仰の迫害が話題になりました。参加した姉妹たちは、「私は迫害に耐えられません。きっと踏み絵を踏んじゃうわ!」とはなされていました。皆さん、私たちはみんな弱虫です。ですから心配ご無用です。イエス様は「その時には、何をはなすべきか、話すことは、主が備えてくださる」「と約束されています。さて、細川ガラシャ夫人からその殉教の場面を紹介します
●「12月19日長崎の立山で十字架の刑に処せられた。その十字架上から、三木パウロは、仲間と人々に向かって、長い説教をした。『各々方、人は何のために生き、何のために死ぬべきか。富のためか、宝のためか、位のためか。それらはすべて朽ち果てるのじゃ。各々方、われらは、われらを創り給える天主(デウス)のために生き、また死ぬべきではござらぬか。己が欲に従わず、天主(デウス)の聖なる御心に従って生き、また死ぬべきではござらぬか。この天主(デウス)こそ、まことの救い、まことの道がござる。●天主(デウス)は、天主(デウス)に来る者を一人として斥け給わざる方なれば、己が罪を悔いて、いざその尊き救いに入られよ。」十字架の上にありながら、顔を輝かせて語る三木パウロの姿と、同じく十字架上に、静かに耳を傾ける他の二十五人の姿は、人々の肺腑(はいふ)をえぐった。のちに、この様子を伝え聞いた玉子(細川ガラシャ)が、更に信仰に燃え立たせたのは、無論のことである。それは、いかなる説教にも勝って、玉子の信仰を強めたのであった。その処刑を命じた権力者秀吉は、翌年八月あわれな死に方をした。」以上です。

今朝は、イサクの結婚の御言葉を受けました。結婚は、主からの使命があります。結婚は、もちろん「愛」が土台です。将来、結婚を目指す皆さん、結婚は、主からの使命が与えられています。クリスチャンの結婚は、この世の人々のように、お互いだけを見つめ合って、自分たちの幸せのためだけに結婚するのではありません。イエス様を土台として、共に主を見上げ、三角形の頂点を目指すように、二人は、同じ方向を見つめ高め合い歩むのです。主からのビジョンと使命を求めましょう。信仰と愛に結ばれた結婚を目指して、主の栄光を現わす結婚を目指しましょう!
そして、何よりも、今年も、主により頼み、主を第1に、礼拝をささげ、信仰の立場を離れないで、主の祝福を頂きましょう。皆さん、アーメンですか?

お祈りいたしましょう「父なる神様、御子イエス様、聖霊様、三位一体の主の御名を心から賛美します。
主は、アブラハムの晩年、あらゆる面で祝福されました。それは彼の人格や徳、能力によってではなく、信仰によって、主に従う者を豊かに祝福してくださいました。主が私たちと共にいてくださる素晴らしい恵みを味わい、この世の物によってではなく、ただ主だけを求める者に変え続けてください。
聖霊様、いつの私たちに気づきをお与えください。主を第1に求め、信仰の立場守り、主を証しする者とならせてください。青年の兄弟姉妹の幸せな結婚のために祈り、今から祈り、備え、主の使命を果たすクリスチャンホームを建設できますように、お一人お一人を導き祝福してください。今年の家族の救いのために献身できますように、御言葉に感謝し、主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

サラの死と埋葬 創世記23章1~9節 2020年1月12日 片柳福音自由教会

『 サラの死と埋葬 ~聖徒の死は主の目に尊い~ 』    2020年1月12日
聖書: 創世記23章1~9節                   片柳教会・主日礼拝

●1. サラの 「 生涯 」 (創世記23:1)

23:1 サラの生涯、サラが生きた年数は百二十七年であった。
23章は、アブラハムの妻サラの死と埋葬がテーマです。新約のへブル書11章11節でサラの事を語っています。
11:11アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。

サラのことを聖書は「信仰の母」と語っています。しかし、聖書を読むと、私たちはしばしばサラの人間性に触れて、これが信仰の母と呼ばれるに本当に相応しい人かと疑問を感じてしまいます。
サラは、自分に子どもがないことで悩んで、自分の女奴隷エジプト人のハガルを夫に与え、その女が子どもを妊娠すると嫉妬に燃えてイジメました。その後、自分にも子供が与えられると、ハガルの子イシュマエルが、わが子イサクをからかって遊んでいるのを見て、怒り、夫をそそのかして、哀れな母と子を追放しました。このようなサラが、なぜ信仰の母と呼ばれるのだろうかと疑いたくなりますね?
しかし、サラの素晴らしさは、サラの人格の徳や力によるのではありません。サラは、アブラハムの妻として選ばれた地位にもとづいていました。ですからサラの最大の栄誉は、夫の側を離れずに、忠実に夫に従い、仕えたことになります。それが妻の最大の任務であり祝福です。
●使徒パウロは、未信者の配偶者と結婚した妻と夫に勧めています。Ⅰコリント7章16~17節
7:16 妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。
7:17 ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。
パウロは、結婚の関係を継続し、愛し、仕えて未信者の夫や妻の救いのために励むように勧めました。
結婚のみならず、皆さん、私たちも、今年、召された所、学校や家庭、職場で、色々な試練や困難もあるでしょう!しかし、そこに留まり、主に仕え、家族や学校、職場の人々にお仕えし、主の救いや祝福を受けましょう!皆さんアーメンです?

●2. サラの 「 死 」  (創世記23:1~2)

23:1 サラの生涯、サラが生きた年数は百二十七年であった。
23:2 サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは来て、サラのために悼み悲しみ、泣いた。

サラは127年の生涯を、ヘブロンで閉じました。聖書の中で、女性の死亡年齢が明記されたのは、アブラハムの妻サラだけです。しかも、死から埋葬、葬られた墓のことまで、その悲しみのあり様まで詳しく記録されたのもサラだけです。サラの生涯の労苦は報われたと言えるでしょう。長く連れ添った夫婦も、いつかいづれかが先立つことになります。それが世の習いです。
●万葉集の歌人・大友旅人も、長年連れ添った妻に先立たれ、歌を歌いました。
「世の中の空しきものと知る時し、いよいよますます悲しかりけり。」
(妻を失い、この世の中が儚く空しいものであるということを思い知った今、さらにいっそう深い悲しみがこみあげてくるものだ。)
●アブラハムは、妻サラの死に際して、「悼み悲しみ、泣いた」と書かれています。
「悼み悲しんだ」はヘブル語の「サーファド」(סָפַד)で、「サラのために胸をうち叩き、嘆き悲しんだ」という意味です。喜びも悲しみもすべて共にしてきた伴侶です。長い間、子が与えられることを忍び待ち望んだ伴侶です。多くの困難と試練を共にしてきた伴侶です。ですから、アブラハムのサラに対する涙は当然であり、自然であり、美しくもあります。信仰が深くなると、悲しんだり、嘆いたりはしないという考えは間違っています。『グッド・グリーフ』(健全な嘆き)があるのです。感情を押し殺すことなく、それを表に出すことは大切なことです。必要以上に感情を抑圧すると、自分に害を及ぼすことになります。
私たちの人生において、愛する人と死別したり、あるいは別離を余儀なくされます。そして悲しみを経験します。たとえば、会社の都合で転勤を命じられたり、解雇されたりして、それまで繋がっていた近所や学校などの人間関係を喪失してしまうのです。また、信じてきた人に裏切られたり、約束が反故にされたりした場合にも、悲嘆にうちひしがれる経験をします。私たちは日常茶飯事的に何らかの喪失体験をしているのです。そんな時に自分の感情を抑圧することなく、何らかの形で表に出すことが大切です。「グリーフケアー」と言われます。涙を流すことはクリスチャンらしくないと思ってはなりません。何事もなかったかのような顔をして感情を押し殺すのは良くないことなのです。アブラハムも、イエス様も涙を流されました。
聖書は「健全な嘆き」を勧めています。神の家族として「喜ぶ者と共に、喜び、悲しむ者と共に悲しみましょう」そして励まし合いましょう。ローマ12章15節「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」
先週、礼拝で高校生の吉田慧君が始めて朝の礼拝でドラムの賛美をしました。昨年の合同主人会の時は、力任せにドラムを叩いている感じでした。しかし、賛美チームの皆さんは、次世代を育成しようと話し合い、悠太兄の励ましと指導により、ハーモニーの取れた素晴らしい賛美奉仕者に整えられました。励まし合い、次世代を育成する私たちの教会の素晴らしい文化だと思います。皆さん、神の家族として私たちも「喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しみ、そして励まし合いましょう。」皆さんアーメンですか?
●3.  サラの 「 埋葬 」  (創世記23:3~4・16~20)
23:3 アブラハムは、その亡き人のそばから立ち上がり、ヒッタイト人たちに話した。
23:4 「私は、あなたがたのところに在住している寄留者ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば、死んだ者を私のところから移して、葬ることができます。」

サラの死に嘆き悲しんだアブラハムはやがて悲しみの中から立ち上がります。そして妻サラの葬式を行います。アブラハムは、ヘブロンでヒッタイト人の中に寄留生活をしていました。そこで墓地を購入する必要がありました。
●皆さん、エジプトのピラミッド、中国の始皇帝の墓など、王様や皇帝は、ピラミッドや墓を作るのにほとんど一生を掛けています。
しかし、アブラハムは、土地を1坪も持っていませんでした。それは、地上では、旅人、寄留者として歩んでいたからです。サラを埋葬する墓地を求めたのです。
●ヘブル人への手紙11章13・16節
11:13 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。
11:16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。

アブラハムは、この地上ではなく「天の故郷」を目指していたので、「地上の旅人・寄留者」として歩んだのです。ピラミッドも陵墓も必要なかったのです。アブラハムは、地元ヘブロンのヒッタイト人エフロンの所有であったマクペラ畑地を購入します。
●ピリピ人への手紙3:20 「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」
私たちは、イエス様を信じて救われて、今、この世に遣わされています。それは、あなたには使命と目的があるからです。そのためにあなたは今の場所に召されています。「私の国籍は天にある」という自覚をもって、「天に宝を積む」生き方を実践して行きましょう! さて続きを見て行きましょう。

●23:16 アブラハムはエフロンの申し出を聞き入れた。アブラハムはエフロンに、彼がヒッタイト人たちの聞いているところでつけた価の銀を支払った。それは商人の間で通用する銀四百シェケルであった。
23:17 こうして、マムレに面するマクペラにあるエフロンの畑地、すなわち、その畑と、畑地にある洞穴と、畑地の周りの境界線内にあるすべての木は、
23:18 その町の門に入るすべてのヒッタイト人たちの目の前で、アブラハムの所有となった。
23:19 その後アブラハムは、マムレに面するマクペラの畑地の洞穴に、妻サラを葬った。マムレはヘブロンにあり、カナンの地にある。
23:20 こうして、この畑地とその中にある洞穴は、ヒッタイト人たちの手から離れて、私有の墓地としてアブラハムの所有となった。

一説には、銀400百シェケルは、相場の10倍の金額であったという説もあります。
●しかし、アブラハムは値切ることはしませんでした。こうして地上の小さな土地がアブラハムのものとなりました。驚くことに、その墓地は、今でもイスラエルのヘブロンにあります。そこにはアブラハム、サラ、イサク、リベカ、ヤコブ、レアの6人が埋葬されています。
●結論:「聖徒の死は、主の目に尊い」

詩篇116篇15節 「主の聖徒たちの死は、主の目に尊い。」
サラの死と埋葬を通して、教えられることは、主を信じる聖徒たちの死は、主の目には
尊い、ことであるということを再度確認しました。
最後に、主の聖徒たちの墓について纏めておきます。
「墓」の3つの意味についてです。
❶墓は、死を覚えさせます。
やがて誰でも例外なく訪れる死という重大事を私たちに知らせてくれます。そして、主イエス様の十字架の死と復活による永遠の命の救いを受けるように、迫っています。

❷墓は、埋葬された人の追憶させてくれます。
私たちが、墓の前に立つ時、召された人との地上の想い出を回想させ、天での再会の時を教えてくれます。そして慰めと励ましを与えてくれます。

❸墓は、復活の希望を示してくれます。
私たちは、死は終わりではなく、私たちのこの罪に満ちた体が、やがて復活されたイエス様のように、完全な体に変えられて、復活する希望を教えてくれます。

●例話:内村鑑三の長女ルツ子は、女学校を卒業してから父が経営する聖書研究社の社員として働いていたが、難病を発症、1912年1月12日 臨終の三時間前、内村は17歳のルツ子に洗礼をさずけ、また、親子三人して聖餐式をした。これが親子3人の最初にして最後の聖餐式でした。ルツ子は細くなった手をのばして杯をとり、主の血を飲みほして後、死にひんした顔に歓喜の色を浮かべ、「感謝々々」とくりかえした。
突然「もう行きます」と臨終の言葉を残し、17歳の若さで息を引き取りました。
 葬儀で内村鑑三は「今日はルツ子の葬儀ではなく、結婚式であります。私は愛する娘を天国に嫁入りさせたのです」と述べて、雑司ヶ谷の墓地に埋葬する際には、一握りの土をつかみ、その手を高く上げ、甲高い声で「ルツ子さん、万歳!」と大勢の参列者の前で叫んだと、後に東京大学の総長となる矢内原忠雄が伝えています。当時19歳の矢内原は、この叫びを聞いて雷に撃たれたような衝撃を受けたと語っています。
.葬儀の2カ月後、 内村鑑三が大田区大森で講演しています。演題は 『基督教と其信仰 ~イエスを友とするに外ならず~』です。 「イエスを友としてのみ人は歓喜と希望とを以て死ぬことが出来るのである、死は小事ではない、大事である、死は少数の不幸者にのみ臨む事ではない、何人にも来る事である、人は何人も平安を以て死を迎える準備を為す必要がある、人は単独で死の河を渡らなければならない、その時、医師も牧師もその人に何の用も為さない、また哲学も宗教も助けとはならない、死の河を渡る時の唯一の伴侶、唯一の慰藉者(なぐさめ主)はイエスである、彼に携えられて死の旅行はさみしくないのである。イエスのみが現世と来世とにまたがる友人である、此人のみが無限の大海に乗出す時の唯一の水先案内である。」(内村鑑三 「聖書之研究」 第141号) このように主イエス様を友とする者は、肉体の死を恐れることなどありません。イエス様こそが今も、未来も、死んだ後も、 常に私たちに寄り添ってくれる友です。ですから娘の「天国への凱旋」を垣間見て、「万歳」と叫んだのです。
Ⅰコリント15章15:55 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。15:57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。 ハレルヤ! 皆さんアーメンですか?
お祈りいたしましょう。「父なる神様、御子イエス様、聖霊様、御名を心から賛美いたします。信仰の母と呼ばれたサラは、その人格や力によってではなく、ただアブラハムの妻に選ばれ、生涯、主を信じ、夫い従い、主の祝福を夫と共に受けました。私たちも、召された場所で、主に従い、家庭や学校、職場で、家族や人々を愛し仕えることが出来ますように、そして泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜び、神の家族と励まし合う者とならせてください。主は「聖徒たちの死は、主の目に尊い」とおしゃってくだいました。私たちは地上の務めを終えて、主の前に立つ日がすべての人にあります。その日、主イエス様を信じ、「愛する者よ。安かれ、あなたの罪は赦されました」共に御国への喜びの凱旋をする者とならせてください。主イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン」

深みに漕ぎ出しなさい ルカの福音書5章1~11節 2020年1月5日

『深みに漕ぎ出だしなさい ~2020年私の挑戦~』              2020年1月5日
            新約聖書:  ルカの福音書 5章1~11節        片柳教会・主日礼拝

●あけましておめでとうございます。今年最初の合同礼拝を感謝します。
2020年が、お一人ひとりにとって豊かな祝福の年となりますようお祈り致します。

●昨年11/3、ボリビアで、前大統領の支持派と警官隊との衝突があった。武装した支持派の撃った9mmの弾丸が、一人の若い警官の左胸に命中したのです。しかし彼の左胸のポケットの聖書が弾丸が食い止め、彼は助かった。被弾した若い警官は敬虔なクリスチャンでした。神のことばである聖書は、霊的な守りのみならず、物理的な守りも与えられたのです。私たちも日々聖書を読み、みことばを心に蓄えよう。
●今年は、2020東京オリンピックの年です。新たなビジョンを与えられて、私たちも、教会も、共に新しい前進をすることが期待されています。2020年が私たちの飛躍と挑戦の年となりますように、ペテロに対するイエス様の3つの挑戦の御言葉から主の祝福を受けましょう!

●1.  主イエス様の3つの挑戦  (ルカ5:1~5)

5:1 さて群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来た時、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、
5:2 岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。
5:3 イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。
5:4 話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」
5:5 すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。」

主イエス様は、ガリラヤ湖畔に立ち、ペテロの舟に乗り群衆に語られた所から始まります。
イエス様は、ペテロに対して、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と語られました。
ここで、イエス様は、ペテロに3つの挑戦・チャレンジを与えています。

❶1つ目は、「諦め」  に対する挑戦です。

ペテロたちは、徹夜で漁をしましたが雑魚一匹も獲れませんでした。ペテロたちは、ガリラヤ湖のプロの漁師です。プロが、一晩中、汗水流しながら網を打ち続けて不漁なのですから、もう可能性はゼロです。ペテロたちは、一生懸命働きましたが、すべては徒労に終わりました。肉体的にも、精神的にも、もうクタクタに疲れ果てました。ペテロは、もう何をやっても駄目だ、と諦めていました。
その証拠に、彼らはもう漁は終わりとばかりに網を洗っていました。
それを知っておられたイエス様は、その上で、4節、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」と
挑戦・チャレンジされました。

あなたはいかがですか? 学校の部活や受験で、諦めていませんか? いくらやっても成績も、結果もでないと諦めていませんか? 子育てや仕事で諦めていませんか?教会の奉仕や家族伝道で諦めていませんか?イエス様は、あなたに諦めないで、今年、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」とチャレンジされています。今年、あなたの諦めたことにチャレンジしましょう!皆さんアーメンですか?

❷ 2つ目は、「常識」 に対する挑戦です。

漁師の常識は、夜、漁をすることです。それが常識でした。プロであるペテロは、魚を捕るためのベストタイムは夜であると信じていました。静かな夜であれば、休んでいる魚も、光に寄って来るので漁をしやすい、これが漁師仲間の常識でした。イエスは、ナザレの大工ヨセフの子でした。イエス様は漁の素人です。しかし、漁師の経験のない大工上がりのイエス様が、太陽の昇っている朝方に、「深みに漕ぎ出して、網を下ろして魚を捕りなさい。」とプロのペテロたちにチャレンジしたのです。
ペテロは、「漁のことはご存じないイエス様が、何をおっしゃいますか、あっしは、漁のプロですぜ」と、
呟きたい気持ちだったことでしょう。  しかし、ペテロは、その常識外れのアドバイスに従いました。
なぜでしょうか? ペテロは、小舟に座って群衆に教えられた主イエス様の権威に圧倒されたからです。
5節で「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」と素直に従ったのです。
「先生」(エピスタタ)はルカだけが使った言葉で、「司令官」を意味する言葉です。
「大将!わかりやした、おっしゃる通りに従います」。ペテロは、主イエスの権威を認めたのでしょう。

あなたは、いかがですか? 常識に囚われて諦めていませんか? 家庭や学校や職場で、環境が悪い、経済が悪い、常識では無理だと諦めていませんか? あなたは、固定観念に縛られてはいませんか?
私たちは、しばしば常識という枠をはめられて、新しい事に挑戦することを躊躇することがあります。
主の導きがあれば、どんなに常識外れの事であろうとも、計算を度外視してやって見ようというチャレンジ精神が必要ではないでしょうか。常識と固定観念から自由になりましょう!皆さんアーメンですか?

❸  3つ目は「霊的深み」への挑戦です。

「深みに漕ぎ出しなさい」、これは、もちろん、直接的には、ガリラヤ湖の湖水の深さを意味しています。同時に、これは、「霊的な深み」と、読み取ることもできるでしょう。
信仰生活においてもそうです。岸辺で「お茶を濁さない」ようにしましょう。イエス様の私たちへの挑戦・チャレンジは、信仰の深みに漕ぎ出しなさい。あなたの愛の深みに漕ぎ出しなさい。あなたの希望の深みに漕ぎ出しなさい。という挑戦です。今年、あなたの家族を愛すること、学校や職場で友や同僚やクライアントに、イエス様に仕えるように、愛し仕える事、教会の兄弟姉妹を愛する事で、霊的深みへの挑戦です。
今年、聖霊様のおつり扱いを頂いて、イエス様の愛、イエス様の平安、イエス様の品性、イエス様の似姿へと成長すること、あなたから怒りや嫉妬ではなく、励ましと希望、祝福が溢れ注がれるのです。あなたも、今年、あなたも、信仰の深みへと、愛の深みへと、品性の深みへと、あなたも霊的深みへと漕ぎ出しましょう。皆さんアーメンです?

●2. ペテロの信仰の応答  (ルカ5:5)

5:5 すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」

❶ ペテロは、「再挑戦(トライ・アゲイン)」した

ペテロは、主の御言葉に従い、再び、舟を漕ぎ出して沖へ行き、網を下しました。人間的に見れば、ずいぶんしんどかったことだろうと同情します。網はすでに洗ってあり、畳んであったからです。それをもう一度拡げて再挑戦するということは大きな勇気と労力と気力を必要としました。
●例話:「フィラメントの電球を発明したエジソン」は語っています。
『1万回失敗のではない。うまくいかない1万通りの方法を発見したのだ。私たちの最大の弱点は諦めることにある。』 エジソンも、何度も何度も失敗しても諦めない再挑戦の結果、成功しました。
私たちも、今まで何度も失敗したかも知れませんが、もう一度やって見ようと、信仰の挑戦をさせていただこうではありませんか。皆さんアーメンですか?

❷ ペテロは、「主の御言葉」 に従った

5:5 すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」

「ペテロの再挑戦」を支えたものは、主のみ言葉でした。ただ闇雲にトライしたのではありません。
これは単なるモットー、努力目標というのではなく、主からの語りかけに対して、応答したのです。
そのみ言葉に従って行動し、そのみ言葉の実現を信じて進みましょう。皆さんアーメンですか?

●結論:「主に従う者に大きな祝福が与えられる!」(ルカ5:6~11)

5:6 そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。

❶ 奇跡的大漁  ~主の祝福は大きい~
ペテロが網を下したとき、待ってましたとばかりに魚がどっと入ってきました。網が裂けそうになった、とルカは記録しています。裂けた訳ではなく、避ける危険を感じるほどの重さだったのです。
ペテロは、友たちのヨハネとヤコブに助けを求めました。彼らが自分たちの舟でかけつけ、一緒に協力して、網を引き揚げました。それでも二艘とも沈みそうになった、それほどの大漁でした。主の働きは、神の家族と共に協力して、今年も主の大きな祝福を求めて参りましょう!皆さんアーメンです?

❷ ペテロの献身 ~主は無力な者を用いられる~
5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」
5:9 彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。
5:10 シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」
5:11 彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。

この物語で不思議なのは、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」というペテロの告白です。なぜ、ペテロは奇跡的な大漁を自分の罪と結びつけたのでしょうか?
一つには、主イエス様の権威と聖さに恐れと尊敬を感じたからです。
更に、その聖いお方に対して、自分は何と俗っぽく、目先の利益でしか動かないエゴイスト・罪深い人間ですと悔い改めました。
すると、主イエス様は、ペテロから、去ることもなさらず、聖くなれともおっしゃらず、10節「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」と力強く語られました。
これから、あなたは人間を捕るようになるのです。イエス様は、魚の大漁ではなく、人間の大漁を約束されました。そこには、主と同じ聖さを分かち与え、主と同じ力を与えるとのお約束が含まれています。
ペテロと、一緒にアンデレ、ヤコブとヨハネの4人の友達は直ちに主に従って行きました。イエス様は、「深みに漕ぎ出して、網を下しなさい!」と語っておられます。それぞれ具体的には、何の深みであるかは、皆さんそれぞれ異なることでしょう。主があなたに、どんな深みに漕ぎ出すべきかよく考え、主の大きな御業と祝福を信じて、2020年あなたの挑戦・チャレンジを書き出しましょう!        主よ感謝します。
●2020年、私の挑戦(チャレンジ)
❶                           ❸
❷                           ❹                       

主イエス様、あなたは、今朝、御言葉を通して、私たちひとりひとりにチャレンジされました。私たちの「諦めたことに対して」「私たちの常識に対して」「私たちの霊的深さに対して」 主よ、2020年の年頭にあたり、お互いが、再チャレンジし、御言葉に従って、深みに漕ぎ出します。網を下ろします。失敗や挫折で諦めている私たちを再び立ち上がり、チャレンジする者に作り変えてください。私たちを縛っている常識から自由に開放してください。霊的に深みへと導いてください。もっと家族を愛する者に変えてください。友や同僚、クライアントを主の愛で愛し、仕える者に変えてください。キリストに愛の似姿へと引き上げてください。主よ、おひとりおひとりの新たな挑戦を導き、祝福してください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン」

『主のみこころは段階的に示される ~信仰を促してくださる主~』2019年8月18日

『主のみこころは段階的に示される ~信仰を促してくださる主~』 
2019年8月18日片柳教会・主日礼拝
旧約聖書: 創世記17章15~22節       

●序、「アブラハム99歳、サラ90歳の時に主が現れた」

●1.  主はみこころを、「段階的に示される」  (創世記17:15~16)

17:15 また神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライは、その名をサライと呼んではならない。
その名はサラとなるからだ。
17:16 わたしは彼女を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える。わたしは彼女を祝福する。
彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。」

アブラムは、アブラハムと名前が変えられました。妻のサライも、サラと名前が変えられました。
サラは「王女」という意味でした。サラは「国々の母」という実にふさわしい名前です。
そして、ここでハッキリとアブラハムの子孫は、このサラによって与えられるということが示されました。
●実は、今まで、少しずつ何度か、アブラハムに示されてきました。
❶創世記12:2「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする」
❷創世記15:4「あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」
❸創世記17:5「わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。」
❹創世記17:16 「彼女によって必ずあなたに男の子を与える。」
しかし、ここで、ハッキリと17:6「わたしは彼女を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。」
と宣言されました。 しかも、90歳のなろうとしている不妊の女と呼ばれたサラによって男の子が授けられるというのです。そして生まれる子からもろもろの民の王たちが与えられるという主のお言葉です。
このように神の啓示は、いきなりは、言わないで、いつも段階的に、アブラハムに、徐々に明らかに示されてきました。
愛する兄弟姉妹、私たちも同じです。主のみこころは、はじめからハッキリと示されるのではありません。
あなたに対する主のみこころ、あなたの人生に対するご計画は、どうのようにしたら知ることができるのでしょうか?それは、あなたが主に従うことを通して、主は、一歩、一歩と示され、道を開かれます。
ここに信仰のチャレンジがあります。
私たちは、漠然とした事柄についてならば信じやすいのです。しかし、具体的なものを差し出されると、信じるということは、なかなか難しいことです。
はじめ「私はあなたを大いなる国民とする」 確かに信じなければ受け取れない祝福ですか、まだ信じやすいことです。   そして次に、「あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継ぐ」です。
これも、どういう方法かは示されていません。そこでアブラハム夫婦は、考えました。確かにアブラハム自身からと言われているが、子を産む女は、言われていないので、創世記16章で、エジプトの奴隷女ハガルを用いて、イシュマエルを生みました。これはアブラハム夫婦の失敗でした。ですから、まだ、「私があなたを多くの国民の父とする」ということもまだ信じやすいのです。

けれども、「サラによって必ずあなたに男の子を与える。」
私たちの教会で最高齢の姉妹は横田久江姉です。92歳です。アブラハムの妻サラは、もう90歳でした。しかも、不妊の女性です。このサラから生まれる男の子によって、沢山の子孫が与えられるというのです。これは、なかなか信じにくいことです。私たちは、信仰、信仰と言っていますが、具体的なことになるとなかなか信じにくいのではないでしょうか?「あなたは祝福の基となる」 「アーメン、」私たちは信じます。 
しかし、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」こうなると、途端に、でも私の家族は特別なんです。私の夫や妻、父や母は、息子や娘、孫たちは、イエス様を信じるのは難しいんです。具体的になると、なかなか信じにくいのではないでしょう?
私たちが、天地万物のまことの神様を信じていますが、具体的な問題にぶつかった時、仕事の事、学校や受験、子どものこと、病、そのように具体的な問題にぶつかったときに、信仰が試されます。漠然としたことであれば、信じられます。しかし、具体的なことになると難しいのです。そのような経験を私たちはいくたび繰り返しているのではありませんか?
アブラハムも、私たちと同じです。アブラハムの信仰も、最初からいきなり全き信仰であったのではありません。主の啓示は、少しずつ段階的に示されて、与えられたのです。そして段々と信仰に導かれたのです。はじめは、漠然と、そして一歩ずつ、次第に具体的に示されました。そして、御言葉をそのまま信じることによって、アブラハムの信仰は、さらに具体的な信仰へと導かれたのです。私たちも同じです。
一歩、一歩です。皆さんアーメンですか?

●2. アブラハムの笑いは 「不信仰の笑い」  (創世記17:17~18)

17:17 アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。「百歳の者に子が生まれるだろうか。
サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」
17:18 そして、アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが御前で生きますように。」

「サラによって、男の子が与えられる」 子どもを産む可能性の全くない90歳のサラです。
そのことを聞いた、アブラハムはどうしたのでしょうか? アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」
アブラハムは、ひれ伏して、笑ったのです。主のお言葉ですから、アブラハムはひれ伏して、礼拝しました。
しかし、ひれ伏しながら、全面的には受け入れがたいので、心の中で、笑いました。自分の不信仰を隠して、自分を守るために笑ってごまかしました。不信仰の「苦笑い」です。
私たちも、相手を尊敬している人から、とんでもないことを言われた時には、なんとなく笑いをもって頭をさげています。アブラハムは、いきなり御言葉をそのまま信じるられませんでした。かと言って、頭から否定もできません。それがこの時の、アブラハムの心の実態でした。
そして。「どうか、イシュマエルが御前で生きますように。」と主に答えました。
13歳となった可愛い、頼もしく見えてきたイシュマエルです。全く不可能な事を信じるよりも、目に見える自分の息子。自分の身から出て、立派に育っている子の息子イシュマエルにアブラハムの目は向かっていました。そのイシュマエルを取りたかったのです、

ここに信仰の試み、試練があります。取ろうと思えばすぐに取れるイシュマエルと、片や、全然可能性のないサラ。あるのは、御言葉だけです。信じられないならば、御言葉を受け取ることができないならば、目に見えるイシュマエルを選ぶ他にありません。

ですから、信仰によって、神の御言葉を受け取り、どこまでも主を待ち望んでいくのか?
それとも、自分の思いで、目に見えるものを簡単に手に入れていくのか? ここに信仰の試み(試練)があります。 人間の可能性でいくのか? 自分の思い、目に見えるものを簡単に手に入れていくか 、
ここに信仰の試練があります。アブラハムの目の前に、この2つのものがありました。

枯れ木のようなサラに、主は男の子を与えると言われる。これは簡単には受け取れません。しかし、ここにイシュマエルがいる。可愛いい自分の子です。奴隷女に産ませた自分の子です。アブラハムは、思わず、「このイシュマエルが御前に生きますように」と主に向かって叫ぶのです。
しかし、これは信仰ではありません。彼の本能、肉の思いです。ですから、ただ、純粋に信仰だけで選び取ることが求められています。
私たちも、しばしばこのような選択に直面するときがあります。結婚のこととか、生活のこと、経済のこと、仕事のこと、学校のことで、子育てのことで、信仰の試みを受けることがきっとあります。皆さん、信仰に立ち、選び取りましょう。皆さんアーメンですか?

●3. 主はあなたの「信仰を促してくださる」(創世記17:19~21)

17:19 神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼と、わたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。
17:20 イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。必ず、わたしは彼を祝福し、子孫に富ませ、大いに増やす。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民とする。
17:21 しかし、わたしがわたしの契約を立てるのは、サラが来年の今ごろあなたに産むイサクとの間にである。」

主は、アブラハムの提案に対して、「いや」と言いて拒否されました。神には神の方法がある。主は妥協的な方法をおとりになることは出来ない。そしてもう一度「あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。」と約束されて、しかも、その男の子の名前を「イサクとつけなさい」とお命じになりました。
●「イサク」とは、「笑い」という意味です。
主は、アブラハムの不信仰と疑いの「苦笑い」を、主の約束の成就によって、やがて「喜びの笑い」に変えてくださるのです。皆さんアーメンですか?
 22節以降を見ると、アブラハムは、主がおっしゃった通りに、自分と家族のしもべたちに割礼を行っています。神の御言葉に応答したのです。こうしてみると、主は、いつも一方的に働きかけられて、アブラハムを導びかれました。主は、段階的にみこころを示されて、私たちの信仰を養い、信仰から信仰へと促してくださるのです。皆さんアーメンですか?

●結論: 「あなたの信仰を主にゆだねよ」 (ローマ8:27~30)

8:27 人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。
8:28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
8:29 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。
8:30 神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。

アブラハムの信仰は、どんなことがあっても変わることのない真実なる主の御言葉によって、信仰から信仰へと導かれてきました。ちょうど、階段を上に登るようにです。一段、一段、登らされていくのです。
そうです。自分で上がっていくのではなく、主によって上らせていくのです。
パウロは、ローマ8章で、私たちは、恐れ、疑う迷い、動揺し、たじろぐ私たちに、聖霊様は外から、あるいは内側から常に迫り、引き出し、押し出して、私たちを全き信仰へと導かれます。
自分の信仰だ、私の信仰だと、歯を食いしばる必要はありません。そんな力んだ信仰はダメです。
やがて息が切れて、燃え尽きて、疲れ果ててしまいます。 主にゆだねるのです。主にまかせるのです。

●聖書の信仰は、主にゆだねる信仰です。いっさいは、むこうの主の働きにお任せしていくことです。
主は適切な働きをもって、私をも導き、今まで運んでくださいました。
でなければ、この片柳教会でイエス様を信じて、44年間の信仰生活、片柳教会の牧師として働きを来月9月で20周年となります。これらは、とうてい続けてくることなどできなかったと思います。これからもそうです。 

主は、「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。」とこう力強く言われます!私たちがつまらないことを言っても、つまらないことをやっても、またぐずぐずしていても、主の方で、これを頭から否定して、圧倒的に迫り、呼びかけ、そして私を、あなたを掴んでくださるのです。
17章15節の「神はアブラハムに仰せられた。」というこみ御言葉に、私は強く強く感じるのです。
このようにして、アブラハムの信仰は、どんなことがあっても、主は変わることのない真実なる御言葉によって、あなたを信仰から信仰へと導かれます。ちょうど階段を上っていくように、一段、また一段と、自分で上っていくのではありません。主によって、イエス様によって、上らされていくのです。その行き先を知りません。ただ主だけが知っておられます。だから、あなたは安心して。主にゆだね、主にまかせて、主の御言葉にただ従ってまいりましょう!皆さんアーメンですか?

お祈りいたしましょう。 
「父なる神様、イエス様、聖霊様、御名を賛美します。主よ、あなたは、ご自身のみこころを、段階的に示されて、私たちの信仰を一歩、一歩と段階的に導かれます。私たちは、時々、不安と恐れで、不信仰な笑いで誤魔化します。しかし、あなたは御言葉の真実をもって、喜びの笑いに変えられます。私たちは、信仰を勘違いして、自分の信仰にこだわり、しがみついて、疲れ、失敗します。それでも、聖霊様は、御言葉によって、私たちを励まし、迫り、押し出して、全き信仰へと導かれます。聖書の信仰はゆだねる信仰です。主よ、私自身と、将来を、私の家族を、私の学校や受験を、私の仕事や経済を、病や老後の事も、あなたにお任せします。主のみこころを成してください。あなたの祝福のご計画をおひとりおひとりに現わしてください。主イエス・キリスト様の御名によってお祈りいたします。アーメン」

敗戦74周年記念礼拝『平和をつくる者は幸いです』2019年8月11日

敗戦74周年記念礼拝  『 平和をつくる者は幸いです 』  2019年8月11日
聖書;マタイの福音書 5章9節              片柳教会・主日礼拝

●5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。

●序. 今日は敗戦74周年記念礼拝です。戦争を体験された方々もだんだん減り、悲惨な戦争の歴史の継承が難しくなりつつあります。ですから平和を覚える礼拝も意義深い大切なことです。現代は、アメリカファーストのアメリカのトランプ大統領や習近平の中国との覇権争い、日本の安倍さんや韓国のムンジェン大統領や北朝鮮との間には、互いに非難し合い、韓国では日本製品の不買運動まで発展して、日韓関係は戦後最悪とさえ言われています。政治の為政者の使命は、国民に平和をもたらすことです。隣の国と友好を築くことです。トランプさんのように率先して、人種差別を助長し、国民の間に分断と対立を生むなど、現代は、自国第一、自分第一が世界中に蔓延しています。争いや戦争に危機がむしろ拡大しています。このような戦後74年の時に、私たちは、もう一度、主イエス様の御言葉に耳を傾けましょうイエス様は「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」と教えられました。
どうすれば、私たちも平和をつくる者となれるのでしょうか? 

●1.  平和の根源は、 「 主です。 」 (イザヤ9:6)

イザヤ書9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

聖書の教える「平和」とは、旧約聖書のヘブル語で「シャローム」、新約聖書のギリシャ語で「アイレーネ」です。この言葉は、ただ単に戦争や争いがない状態を意味するのではなく、心の平安・家庭や社会の中に神の祝福が満ち、人々の間に豊かな調和があり、和解と繁栄が満ちた状態を意味しています。人類は、平和を求め、努力して来ました。しかし、歴史の現地は、ますます戦争やテロや紛争などにより、人々が殺され、憎しみが憎しみを呼んでいます。                                            
 ●「人類の歴史は戦争の歴史だ」といえるでしょう。ドイツ社会学者のソローキンによれば、「人類は歴史の史料が残っている6000年以内に発生した戦争だけに限ってもその回数は15000回以上であります。   第二次世界大戦後、世界中で戦争や内戦が200回以上発生している。戦争が世界から無くなった日は三週間だけであった。」と語っています。 初め、エデンの園で神との良い関係を持てた時の人間の心には、真の平和がありました。 しかし、神に背き、罪を犯した人間は、エデンの園で完全に平和を失いました。 人の心には、平和の代わりに、憎しみ、殺意、嫉妬、傲慢、悪口、争い、欺き、悪巧みが芽生えました。結局、平和のお方である神との交わりが断絶され、エデンの園の外に追放されました。その結果、人間が集まる所はいつも争い、憎しみが生じ、まことの平和を見る事ができません。ですから、平和の根源である神に立ち返らない限り、どこにも、真の平和をつくり上げることはできません。

●2.  クリスチャンは 「平和をつくる者です」 (3つの関係 マタイ5:9)

5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。                

 まず、平和をつくるために必要な三つの関係を考えましょう。

❶ 神との平和をつくる。 (ローマ人への手紙5章1節)

平和の根源は主です。まことの平和は、天の御国の主から流れます。人間の平和は一時的で、不完全で、利己的です。しかし、神の平和は永久的で、完全で、犠牲的です。( ローマ5:1 )「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
 *自分の罪を悔い改め、神に立ち返り、イエス様を信じて、神との平和をつくりましょう。

❷ 自分自身との平和をつくる。 (第2コリント人への手紙第5章17~18節)

5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
5:18 これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。
 パウロは、平和をつくる者について語っています。 それはキリストを信じて、新しく生まれ変わる者です。生まれ変わったクリスチャンは、自分が罪人であることを自覚し、悔い改め、神の救いの恵みと喜びに満ち溢れる心から神の平和を味わうことができます。自分自身を受け入れ、自分の過去を赦し、自分自身と和解することです。 こうして自分との平和をつくるのです。皆さんアーメンですか?

❸ 隣人との平和をつくる。  (エペソ人への手紙2章14・16節)

2:14 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、       
2:16 二つのものを一つのからだとして十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

人間の罪の本性は、平和より破壊を、一致より分裂を、愛より憎しみを、謙遜より傲慢を好みます。
ローマ書12章18節で主は、「 自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。」と、 あなたの隣人である家族や友人兄弟姉妹と、平和をつくることを命じています。私たちの教会がこの地域社会に存在している目的は何でしょうか?

まず第1に神との平和をつくり、第2に、自分自身との平和をつくり、第3に、隣人の平和をつくることです。 
そのために、救いの福音を宣べ伝え、地域社会と世界に神の平和をつくるために教会は存在しています。では、誰が平和をつくる者でしょうか? あなたです。私です。私たちが信仰の戦いをするのです。    
●真の平和を造り上げるために、あなたは、主からこの世に派遣された神の国の和解の兵士です。              
クリスチャンはサタンと信仰の戦い、霊的な戦いの最前線に立っています。 私たちは、キリストの十字架と復活の希望の信仰を持つ者です。イエス様は十字架の上で死なれ、罪とサタンの勢力から勝利を得て、罪に苦しんでいる人々に平和を与えたのです。パウロが「その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。(コロサイ人への手紙1:20)と語ったように、 罪人のために十字架の上で流されたイエス様の十字架の血潮こそまことの平和をつくる力です。人間の心から出る知識や考えでは真の平和をつくることができません。神のみことばこそ、教会の一致と平和を保ち、地域社会や世界の平和をつくるのです。あなたの隣人と和解し、平和の架け橋を築きましょう!皆さんアーメンですか?

●結 論:  『 自分第一から、神第一になる!  』

現代の世界の国々が自国第一なのではありません。ネット時代の現代、多くの人々も、自分第一の風潮の中にいます。インターネットは便利で伝道に欠かせないツールです。しかし、反面に危険な側面を持っています。子どもから若者も、主婦も、壮年も、高齢者も、スマホで自分関心、面白い、楽しいことを選び、嫌なことは避けています。ネット社会は匿名性の世界です。自分を隠して、本音で語れることは良いのですね、実際に悪口、誹謗、中傷の世界です。日常の家庭や学校、会社では言わないような、耳を覆いたくなるような悪口や非難の世界がネット社会です。またネットの世界は人間の欲望がむき出しの世界です。子どもたちがポルノの世界に簡単にアクセスできる世界です。犯罪や詐欺も蔓延しています。その影響をクリスチャンも受けています。私たち親の責任は大きいのです。子どもたちとスマホの使い方を夏休み話し合いましょう。  このように、ネット時代の特徴は、自分本位、自分中心、自分第一の人間が増殖されています。主のみこころ、主の御言葉に従うことよりは、自分の満足、自分の都合や生活、自分の楽しみが優先され、教会で礼拝をささげることよりも、自分の楽しみが優先され、礼拝が軽んじられます。このように、この世の流れに流されて、地の塩、世の光として、クリスチャンとしての影響力を失っています。
そうではなく、地の塩、世の光としての使命を果たすために、私たちは、平和を作る者として、自分第一を悔い改めて、神第一に立ち返りましょう。そして、主に仕えましょう!皆さんアーメンですか?

●先週、主に仕えることで、励ましと、チャレンジを受けました。水曜日の祈祷会では第2テモテへの手紙を学んでいます。この書簡はパウロの最後の手紙です。ローマの獄中から後継者テモテに書き送りました。
Ⅱテモテ4章 4:6 私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。
4:7 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。                 
4:8 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。                          
パウロは信仰の迫害による殉教の死を前に、自分のことを「そそぎのささげもの」と表現しました。旧約時代、神殿の礼拝の中心は、全焼のいけにえをささげることでした。ひつじやヤギが祭壇でささげられて、バーベキューになるのです。ささげものを主にささげ焼き尽くす仕上げの時に、最後にぶどう酒を注ぎ、再び炎が、ぼあーと燃えがあり、いけにえが完成します。パウロは、主のために自分のいのちが犠牲となり、赤い血が流され、最後の一滴までも、主のために用いられるなら満足だと言っているのです。そして後は、天の御国で、主イエス様から義の栄冠が私のために用意されていると告白しています。私たちも、パウロのように主に従い、平和をつくる者として、今週も歩みましょう!皆さんアーメンですか?                    

●『アッシジのフランチェスコの平和の祈り』 
ご一緒に最後に祈りましょう。
●わたしをあなたの平和の道具としてお使い下さい。/憎しみのあるところに愛を
/ いさかいのあるところにゆるしを/分裂のあるところに一致を/
疑いのあるところに信仰を/ 誤っているところに真理を/絶望のあるところに希望を/           
闇に光りを/ 悲しみのあるところに喜びをもたらす者としてください。
慰められるよりは慰めることを/理解されるよりは理解する事を
愛されるよりは愛することを/わたしが求めますように
わたしたちは与えるから受け/ゆるすからゆるされ
自分を捨てて死に/永遠の命をいただくのですから。

『あなたはわたしを愛するか』2019年8月4日合同礼拝

田内克彦宣教師

序論、

エルサレムからティベリヤ湖(ガリラヤ湖)に行った弟子たち

⇒「…しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」(マタイ 26:32
十字架前夜のイエスさまのことば)
「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」(マルコ 16:7 復活の朝マグダラのマリアたちに会った天使のことば)
ヨハネ 21 章に登場するのは、ペテロたち 7 人の弟子たち。イエスさまの指示によってガリラヤ湖(おそらくカペナウム)に行ったペテロら7人の弟子たち(2)。その夜、ペテロは「漁に行く」という(3)なぜいまさら漁に行くのか。色々な人が色々な憶測をしてきた。その一つに「実際に生活の糧に行き詰ってい
たのではないか」というのがある。イエスさまとともに行動していた3年間は、彼らの生活を支援してくれる人々がいた。(ルカ 8:3「…ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた。」)イエスさまが十字架で処刑された後、支
援者たちは公には支援しにくい状況になった可能性がある。

本論

I. イエスさまがペテロを赦しているからこその「わたしを愛しているか」

① イエスさまに対する申し訳なさ、罪責感を持っていたであろうペテロやトマス(3)
イエスさまは十字架の直前、祭司長たちや民の長老から差し向けられた群衆に捕縛された。「そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった(マタイ 26:56)。」
特にペテロは、イエスさまが裁判にかけられている傍らで、三度「自分はイエスなど知らない、関係ない」と言った。また復活のあと、イエスさまの復活を見たほかの弟子たちに対してトマスは「そんなことを自分は決して信じない」と、かなり強いことばを持って否定した。
その後、ヨハネ 21 章の出来事の前に、ペテロは 2 回、トマスは1回、復活のイエスさまに会っている。それによってペテロもトマスもイエスさまの復活についてはもはや疑うことがなくなった(12 節「弟子たちは、主であることを知っていたので…」)。 しかしイエスさまに対しての後ろめたさ、申し訳なさ、気まずさ、大げさに言えば罪責感というものからペテロにもトマスもまだ自由にされておらず、そんな罪の意識に囚われていたのではないだろうか。
私たちも、何らかの理由でイエスさまに対して「申し訳なさ」をいだくことはないだろうか。すでに主に告白して赦しを求めた過去の罪にまだ囚われていたり、昨日一度も聖書を開いていないとか考えたり(毎日聖書を読むことは色々な面で大切なのだが、読まなかったから罪、ということではない)。 ② ペテロやトマスに仕えられたイエスさま(12~15) そんなペテロやトマスや弟子たちの前にイエスさまは姿を現される。遠く湖の岸辺から語りかけられる。
「子どもたちよ。食べる魚がありませんね。(12:5)」このあたりにイエスさまの屈託のないいたずらっ気、お茶目さを感じてしまう。実はイエスさまはこの時、弟子たちに声をかけられたこの時には、彼らのための食べ物が準備できていたのだ(12:9)。彼らのための食べ物をご自分でちゃんと準備しておきながら、
すっとぼけて「食べる魚がありませんね」と。さらにはご丁寧に「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればヨハネ 21:1-19 「あなたはわたしを愛するか」 獲れます」と仰り、弟子たちが予想もしていなかった大量の魚をお与えになって。もちろんこの大漁にはちゃんと意味があるのだろうが、「食べる魚がありませんね」というイエスさまのことばには、ペテロやトマス、そして他の弟子たちに対する屈託のない親しみを感じる。赦す・赦さないという拘りなどかけらも存在しない、茶目っ気さえ感じるような親しい愛情。 先ほど簡単に触れたが、イエスさまは弟子たちの朝食を用意しておられた。イエスさまがどこから現れ
られたのか私たちには分からない。この用意された魚やパンをイエスさまがどこからどのようにして調達されたのかとなると、ますます分からない。前の日のうちに市場かどこかでこっそり買い求めていた…とも考えにくい。しかし、弟子たちが一生懸命に夜中に漁をしている間、イエスさまは岸辺で薪を拾い集め、私たち
がキャンプでするように、火を起こしてフーフーと一生懸命息を吹き込んで火を大きくし、それが落ち着いて丁度いい炭火になるまで火を管理し、そこに魚を乗せ、焼け具合を見ながら何匹もの魚を丁寧にひっくり返したり…どこでどうやって手に入れた魚やパンかぜんぜん創造できないけれど、そんなふうに手間をかけて
弟子たちのために丁寧に魚を焼くイエスさまの姿は想像できる。料理は愛情。イエスさまが心をこめて焼き上げた魚は、間違いなく最高においしく焼けていたことだろう。
そうやって食べ物を調達して火を起こして料理して…というのは「しもべ・召使い」の仕事である。ペテロやトマスにとって、もちろん偉大な先生であり、今となっては死に打ち勝って復活した栄光の主、個人的には、ついこの間、自分自身がとんでもない失態を犯して負い目のある相手である。そのイエスさまが、いま、しもべ・召使いとしてペテロを、トマスを、弟子たちを迎え、給仕してくれようとしている。 赦しにあふれ、喜んで自分たちにしもべとして仕えてくれる栄光の主に、ペテロやトマスや弟子たちは、どれほど大きな慰めを受けただろうか。 ③ ともに食事をする親しさ(12~15) 弟子たちはイエスさまとともに朝の食事をした。よく知られていることだが、当時のイスラエルの習慣では、一緒に食事をするということは、心を許した親しい関係を意味する。一つのパンを裂いて、同じ食べ物
を一緒に食べ、一つの大きな器からぶどう酒を注ぎ分けて飲む(この朝食にはぶどう酒はなかったかもしれない)。イエスさまが収税人や罪人たちと食事をしたときには、それを見た人たちは「何であんな連中と一緒の食事を…!」と非難された。もしイエスさまが「あいつはオレを裏切った」と心に拘りを持つようなら、
ペテロやトマス、弟子たちと一緒に食事をすることは、当時の常識的な感覚ではあり得なかっただろう。しかしイエスさまの方から、彼らを食事に誘い、そこで親しい交わりのときを持たれた。イエスさまが用意されたパンや魚を分け合って食べ、ペテロたちが獲ってきた魚もまた一緒に食べた。 ペテロもトマスも弟子たちが、イエスさまに対して「申し訳のなさ」「負い目」を抱いていたとしても、この朝の食事は、そのようなわだかまった感情を洗い流す なごやかな時であっただろう。

II. イエスさまとペテロの相互の愛があってこその「わたしを愛しているか」

① 自分が愛していない人に「わたしを愛しているか」と聞かないだろう 食事のあと、イエスさまはペテロに「あなたはわたしを愛していますか」と問いかけられた。
たぶん日本人は(日本の文化では)「わたしを愛しているか」という種類のことを、面と向かって聞いたりすることはあまりないだろう。そもそも日本では、夫婦やカップルの間でも「愛している」ということをことばで表現することが少ない。(英語の人たちは家族の内でもよく〝I love you”とか言う。T 宣教師
「自分の子どもに英語で『I love you』っては普通に言えるんだけど、日本語で『愛してるよ』っていうと妙に照れくさくなっちゃうんだよな…。」)日本語では「わたしを愛しているか(好きか)」「愛していますヨハネ 21:1-19 「あなたはわたしを愛するか」 (好きです)」という会話はあまり口にしない。そういうことはあまり言葉にしないで察するものだ、という文・習慣がある。
しかし「あなたはわたしを愛しているか」ということばの背後にある気持ちを推測することができる。 もし私が自分の子どもに「お父さんのこと好きか?」と尋ねたとする(「愛しているか」という表現は親子の間でたぶん日常的にはあまり使わない)。そこには、お父さんとしては子供のことを大好きだし、また同時に好かれたい、愛されたいという思いがある。「愛している」し「愛されたい」という、通い合う愛情の関係を求める思い、願いがある。
イエスさまが「あなたはわたしを愛していますか」と質問したとき、やはり同じ思いがあったのだと信じる。イエスさまはペテロを愛し、またペテロに愛されたいという思い、願いがあったのだろう。 イエスさまのその思いは、ペテロに対してだけではない。わたしたち一人ひとりに対して、イエスさまはその同じ願いを持っておられると私は信じる。イエスさまは私たちを愛しておられる。しかしそれで満ち足りておられるというのではない。イエスさまは私たちに愛されたいと願い求めておられる。考えてみれば、旧約聖書モーセの時代から、主は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と求めておられる。イエスさまも含めた三位一体の神は、ご自身のお創りになった人に愛されたいという願い、思いを明らかにしておられる。
イエスさまはペテロを愛し、また愛されたいと願っておられる。そのイエスさまの思いは「あなたはわたしを愛していますか」という言葉を通して、ペテロに伝わったことだろう。

② ペテロがイエスさまを愛していると知っているからこその「わたしを愛しているか」 イエスさまはペテロに「わたしを愛していますか」と問いかけられた。
私たちは時々、答えが分かっているのに質問することがある(ミャンマー:「帰ってきたか」)。イエスさまは、「わたしを愛していますか」との質問にペテロがどう答えるか、おそらく知っていた。分からないから聞いてみたのではないはずである。ペテロのうちにあるイエスさまへの愛、そしてペテロが答えるで
あろう正直な答えを知っておられた。何より証拠に、「愛しています」とペテロが答えるという前提で、そのあとのことば、「私の羊を飼いなさい」ということばを、おそらく最初から用意しておられた。 「あなたはわたしを愛していますか。」これは分からないことを問う質問ではなく、すでに分かってい
ることを確認する質問であった。「あなたはわたしを愛していますか。」この短い言葉を通して、イエスさまはペテロを愛しておられ、またイエスさまが持つペテロに愛されたいという思いを確認された。そしてこう質問されることで、ペテロが、自分自身イエスさまを愛していることを改めて明確に認識することができた。

III. イエスさまの羊を飼うのに必要な「わたしを愛しているか」

① 「イエスさま学校」の最終試験 復活のイエスさまが弟子たちの前に現れたのは、これが 3 度目であった(21:14)。前の 2 度は、イエスさまがよみがえられたことを示す目的があったと考えられる(最初はペテロを初めとした弟子たちに、次の時はそこに居合わせなかったトマスに)。しかしこの3度目のとき、弟子たちはイエスさまが復活されたことを理解していた(12 節おわり「弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。」)。となれば、この時イエスさまが弟子たちの前に現れたのは、復活を明らかに示すのとは別の目的があったのだろう。その一つが、ペテロに「私の羊を飼いなさい」という使命を与える(確認する)ためであったと考えられる。ペテロはこれまで約3年間、イエスさまと行動をともにし、イエスさまから学んできた「イエスさま学校」の生徒であった。つねにイエスさまが公に最前線にいて ヨハネ 21:1-19 「あなたはわたしを愛するか」働かれ、自分は後ろに控えてイエスから学ぶという期間は、十字架によって終わった。イエスさま学校卒業のときである。卒業するためのペテロへの最終試験が、このガリラヤ湖の湖畔で行われた。最終試験の質問はなんだったか。「わたしはあなたを愛していますか」。
「わたしが十字架で死んだ意味をあなたは神学的にどう理解していますか?」とか、「わたしが語った放蕩息子のたとえ話の意味をどう理解していますか?種まきのたとえについては?父と子と聖霊の関係についてどう考えますか?」そういった質問ではなかった(もちろんそういう神学的な理解はどうでも良いという
ことではない)。最後の最後にイエスさまがペテロに問うたことは、「わたしはあなたを愛していますか」というただ一つのことであった。しかもこの一つのことを三度問いかけられた。この質問がどれほど大事であったかを確認するために三度繰り返されたのだと考える(ペテロが十字架の直前に三度「知らない」と答え
たから、今度はイエスさまが三度「愛しています」と言わせた、というわけではないだろう)。ペテロは「愛しています」と答えた。最終試験は合格、ペテロは「わたしの羊を飼いなさい」という使命を与えられる。さきほど語ったとおり、イエスさまはペテロの愛をはじめから知っておられた。イエスさまの側では、
ペテロが愛しているかどうか、あえて確認する必要はなかった。しかしペテロの方では、しっかりと確認し、理解しておく必要があった。「イエスさまを愛しているかどうか」が「羊を飼う」という働きのために、何よりも必要なことである、と。

② イエスさまへの愛から出る私たちの奉仕を主が用いられる
実は、「イエスさまを愛しているかどうか」が問われるのは、「イエスさまの羊を飼う仕事」だけではない。すべての仕事につく者が、すべてイエスさまにあってこの世で生きる者たちが、本当に実を結ぶために問われるのが「あなたはわたしを愛しているか」という、ただ一つのことである。「いやいや、たとえば
銀行員なら数字から取引先の経営実態を読み取る力が必要ですし、営業マンなら交渉力が、医者なら医学的知識や判断力……そういったものが必要でしょうよ。」そう、イエスさまの羊を飼うもの・牧師がたとえば十字架の意味を神学的に理解しておく必要があるように、会社員なら会社員、その仕事なりに必要となるスキル
というものはあるだろう。しかし、本当に実を結ぶために必要なものは、そこから先にある。思い出して欲しい。熟練した漁師がいて、一晩中、湖で漁をした。神さま次第で、一晩中一生懸命に働いたのに一匹の魚も獲れないことがある。ところが「舟の右側に網を下ろしてみなさい」と言われてやってみたら、引き上げる
ことさえできないほどの魚が網に入ってくることがある。実に分かりやすい、単純なこと。漁師であれ、牧師であれ、会社員であれ、医者であれ、政治家・首相・大統領であれ、私たちがこの世にあって本当に実を結ぶかどうかは、ただ神さま次第なのだ。 そして神さまが、イエスさまが、最終的にわたしたち一人ひとりに問うのが、「あなたはわたしを愛していますか」

結論

イエスさまは、ペテロに三度問いかけられたこのことを通して、今日もわたしたち一人ひとりに問いかけられる。「あなたはわたしを愛するか」。
罪を自覚する私たちに対し、屈託なく、時には茶目っ気さえ感じさせるほど屈託なく接してくださるイエスさま。炭火を起こし丹念に魚を焼く、そんなしもべのように私たちに仕えくださるイエスさま。ともに食卓を囲むように親しく和やかに交わりって下さるイエスさま。かつては罪の中にあり、死に至る実しか結ぶ
ことのできなかった私たちに、いのちにいたる豊かな実を結ばせようとしておられるイエスさま。 そのイエスさまは、いまも私たちに問いかけられる。「あなたはわたしを愛していますか

『新しい名前と割礼(洗礼)の恵み』 2019年7月28日  

説教 『新しい名前と割礼(洗礼)の恵み』

2019年7月28日
聖書:創世記17章4~16節

片柳教会・主日礼拝

●序.人類で一番最初に入れ歯を入れた人は誰でしょうか?はい、そうです。アブラハムです。アブラムにハが入り、アブラハムになりました。
主はアブラハムと「永遠の契約」を結び、2つのことが与えました。。「名前を変える」と「割礼」を受けることでした。主の祝福の御言葉を受けましょう。

●1.  主は、アブラハムに 「新しい名前をつけた」(創世記17:4~7)

17:4 「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。
17:5 あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。
17:6 わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。
17:7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。

●アブラムは、「アブ」(父)と「ラーム」(高い) 「高められた父」という意味でした。 アブラムに「ハ」が入りアブラハムになりました。
アブラハムは「アブ」(父)と「ハモーン」(多くの) 「多くの国民の父」という意味の名前に変えられました。今までは本当は、「アブラム」でしたが、紛らわしいので、アブラハムと読んできましたが、こうして文字通り、「アブラハム」となりました。アブラハムの契約の子孫イスラエルが多く国民の指導者になるということです。
サライは、(私の女王)から「サラ」(多くの国民の母)
名前が変わることは、単に形式的なことではありません。聖書では、名は体を表しています。名前が変えられることは、内容も変化するということです。私たちは、自分自身の中身を変えようとしないで、いや、自分では中身を変えられないので、「姓名判断」をして、名前を変える人々もいます。しかし、それによっては、自分の本質は何一つ変わらないのです。しかし、アブラハムの場合は、主ご自身が名前を変えてくださったのです。ここに希望がありますね。自分で変わろうとしても、変えることができない。私たちを、主が変えてくださるのです。アブラハムの孫のヤコブは、「イスラエル」(創世記32:28)となり、シモンは、イエス様によって、ペテロ(ヨハネ1:42)と呼ばれました。やがて、皆さん、私たちも天において新しい名前で呼ばれるのです。(黙示録2:17)「 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。また、白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が記されている。」
●主が、イエス様を信じる私たちに新しい名前を与えられることは、主が私たちに新しい人生を与えらることを表しています。
(Ⅱコリント5:17) 「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
誰でも、イエス様を信じる人は、罪赦され、永遠の命が与えられて、新しい人生を歩みが始まりました。
皆さんアーメンですか?

●(ピリピ3:20~21)
3:20 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。
やがて霊的に成長し、イエスさまの似姿へと変えられます。救いの完成を目指して、今聖化の恵みを歩んでいます。

●2.  主は、アブラハムに「割礼を受けさせた」 (創世記17:10~13)

17:10 次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。
17:11 あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。
17:12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、異国人から金で買い取られた、あなたの子孫ではない者もそうである。
17:13 あなたの家で生まれたしもべも、金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない。

●主の契約の2つ目は、「割礼」を受けさせることでした。
当時のオリエント社会のエジプトやエチオピアなで行われていた社会的な習慣でした。割礼は、男子の生殖器の包皮の一部を切り取るのです。これは、当時は、衛生上の習慣でもあり、種族の共同体へ加入する儀式であったのです。主は、この割礼を神との契約のしるしとされました。割礼を受ける 対象は、アブラハムと子孫たちです。また家で生まれたしもべたち、外国の奴隷たちも対象でした。血のつながりのある者もない者も、外国人も、みな割礼受ける者が、アブラハムへの祝福にあずかることができるのです。
これは、神の民に加えられたことを自覚するための儀式でした。

❶ 割礼は、身体の一部を傷つけます。血が流れます。キリストの十字架の痛みと血潮を、連想させます
❷ 割礼は、身体の一部を切り取ることによって、身体をささげることに通じます。
主イエス様は、体の一部どころか、全部を私たちの罪の赦しと救いのためにささげられました。
❸ 割礼は、同居している「外国人」も割礼によって祝福の約束に入れられました。
どこの国の人々も救いの恵みにあずかれます。これは世界宣教の祝福です。
❹ 割礼を受けない者は、恵みの契約からもカットされる。アブラハムへの祝福にあずかれないのです。

この割礼という儀式は、ユダヤ人であることの特別な印となりましたが、やがて形式化して、自分は、
割礼を受けているから、大丈夫、天国に入れるという誤解を生み、間違った選民思想、律法を守れば救われるという間違った律法主義を生み出しました。
●この「旧約時代の割礼」は、新約聖書に入り、キリストによって救いが完成し、「洗礼」に取って代えられました。
使徒パウロも、(ピリピ3:2)で「肉体だけの割礼の者に気をつけてください」
(コロサイ2:11~12)
2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。
2:12 バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。

●(エペソ1:13~14)
1:13 このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

イエス様を信じる者は、肉体の割礼ではない、聖霊様の証印を押され、聖霊様が心の中に内住したクリスチャンとなりました。イエス様を信じる者は、例外なしに、聖霊様の証印を受け、神の民とされました。私たちは、御国を受け継ぐ保証です。
●ところが、パウロは、クリスチャンたちに聖霊様を悲しませていないか?と警告しています。
(エペソ4:30) 「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」
(ガラテヤ3:3 )「あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。」
それは、信仰によってスタートしたのに、また肉の力で信仰生活を送り、救いの完成を目指す愚かさです。
●結論:「イエス様を信じ、洗礼を受け、主の祝福を受けよう!(マタイ28:18~20)

28:19 あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らに
バプテスマを授け、
28:20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終
わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

イエス様を信じて、救われて、洗礼の恵みを受けましょう!水の洗礼は、救いの手段ではありません。洗礼によって、救われるのではありません。イエス様を信じて救われるのです。そして救われたからイエス様のご命令に従って洗礼を受けるのです。洗礼は、救われた証です。学校の入学式、結婚の結婚式のようなものです。結婚が結婚生活を守ってくれるように、洗礼が信仰生活を守ってくるのです。
ですから、イエス様を信じ、洗礼の恵みにあずかりましょう。、聖霊様の証印を受けた者として、信仰の原点に立ち返り、信仰の歩みを全うしましょう。先週、2人の牧師の葬儀がありました。

●吉持章牧師は、1936年生まれ、83歳で召されました。愛知県岡崎市生まれ。17歳の時、大工見習いをしていたが、人の矛盾に悩み、ヤクザになろうと岡崎城公園をさまよっていると、スウェーデン宣教師による天幕集会が行われており、そこで初めて福音を聞いて回心、すぐに洗礼を受けた。すぐに献身して、日本クリスチャン・カレッヂ(現・東京基督教大学)の第4期生として卒業後、日本同盟基督教団の牧師なりました。同盟基督教団の理事長や東京キリスト教学園理事長・学園長として、尽力されました。
吉持牧師から洗礼を46人が牧師になっています。主の救いと召命に最後まで忠実な歩みでした。

●もう一人は、私の友人の宋ヨシュア牧師です。(1950年~2019年7月23日 69歳)
武庫之荘時代の同労の牧師です。友人であ、兄のような存在でした。宋先生は武庫之荘教会の宝塚チャペルで、、私は北九州チャペルで奉仕しました。41歳で4人家族で来日し、以来28年間日本人伝道に献身され、宝塚で開拓伝道し、テナントから新会堂建築をなし、日本を愛して、日本人に仕え、、しばしば、教会で徹夜で祈り、自宅に帰らずに、教会に寝泊まりして、伝道に励み、主の召しに応えて、日本の魂を愛されて、文字通り、日本の土となりました。
これらお二人とも、最初の救い、洗礼の恵みの原点と召命に最後まで忠実に歩まれました。
皆さんに、私たちも、洗礼の信仰の原点に立ち、今週の神と人々にお仕えしましょう。
皆さんアーメンですか?

お祈りいたしましょう。
「愛する主よ、感謝をいたします。あなたは私たちひとりひとり愛してくださり、神のひとりごイエス様をこの世界に送り、十字架の尊い血潮によって私たちの罪を赦し、永遠の命を与え、新しい名前と新しい人生を与えられました。そして、神の子としての聖霊様の認証を与えてくださいました。私たちは洗礼の恵みによって、イエス様とひとつとされて、キリストの体である教会の一員として迎えられましたことを心から感謝します。この救いの恵み、洗礼の原点に立ち返り、熱い夏を、もっと熱い主の愛に押し出されて、聖霊様と御言葉に励まされて、神と人々に忠実にお仕えすることができますようにお導き下さい。イエス・キリストの様の御名によってお祈りいたします。アーメン」

『信仰と不信仰の狭間で』2019年7月14日

聖書:創世記16章1~10節           片柳教会・主日礼拝

 

 皆さんは、自分の信仰と不信仰のはざまで悩んだことはありませんか?
今日のテーマは信仰と不信仰の間に揺れ動き、葛藤するアブラハムです。
アブラハムがカナンの地に移り住んでから時は流れ、早10年ほどが過ぎました。その頃のことです。
アブラハム夫婦に子どもが与えられるとの主の約束を受け取りました。そして天空の星のように子孫が与えられる。その子孫が住む土地もこのカナンの全土を与える約束されて、その約束の保証として契約を結ばれました。では、その後は、どのようになったのでしょうか?1節に「アブラムの妻サライは、アブラムに子を産んでいなかった。」とあります。普通、小説などでは、「そこでアブラムの妻サライは、子を産んだ」というふうになるはずです。ところが事は逆でした。まことに皮肉な言葉です。アブラハムにとっては、まことに深刻な出来事です。私たちも信仰と不信仰のはざまで悩み葛藤します。主の御言葉を受けましょう。
1.  アブラハムの 「 試練  」 (創世記16:1)
16:1 アブラムの妻サライは、アブラムに子を産んでいなかった。
主の契約が結ばれても、まだ子供が生まれない。約束が実現しない。「待つ」ということは試練です。
このような時にあなたはどうされますか? 2通りの対処の仕方があります。1つは、信仰をもって主の時を待つということです。もう1つは「ただ祈って待っているだけではだめなのではない」と考えて、行動してしまう方法です。アブラハムと妻のサライは後者を選びました。
アブラハムの心の葛藤を理解できるでしょうか? 自分の年齢を考えてみろ、もう85歳だぞ、約束が与えられてからいった何年たったと思うのか?いっこうに気配が見えないじゃないか? ただ年をとり、年と共に体も老いていくだけじゃないか。そんな空しい望みを、ただ待っていてよいのか? そんな事よりも何とかしないといけないのじゃないか? サタンは、主の契約を奪ってしまおうとしって、しばしば襲ってきます。
これはどのようなクリスチャンでも経験することです。
 イエス様は、私たちのために十字架にかかって死んだ。これで全部罪は赦された。全く新しくされ、神の子となり、神の国を受け継ぐのだ。そういうけれども、一向にそれに相応しい姿にならないじゃないか? 相変わらずお前の弱い所は、ちっとも変っていないじゃないか? いったどこが神の子らしくなったのだ、
●こう言ってサタンは、あなたに目を付けます。 いったいお前は何を信じているのか? そんな事よりも、もっと自分で何とか努力しなくちゃいけないんじゃないか? 主の約束だと、ただ信じて、いい気になって待っていてどうなるのか? そのうち手遅れになるぞ! 世の中は進んでいくのだ、世界は変わっていくのに、お前は取り残されてしまうぞ!まあ、こんなふうに猛禽である悪魔が、契約を奪おうとして主の約束を信じ、待ち望むの者を、いろいろな形で絶えず襲ってまいります。
 あるいは、病気が直ると信じた。しかし、いっこうに直らないではないか。なんだかかえって悪くなるように思える。子どもは、願ったように成長していない。家族や仕事の状況も変わっていない。
アブラハムの心にも疑いや葛藤がたえず起こったのでしょう。そして1つの行動を起こすことになります。
2. アブラハムの 「 常識  」 (創世記16:1~2)
16:1 アブラムの妻サライは、アブラムに子を産んでいなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。
16:2 サライはアブラムに言った。「ご覧ください。【主】は私が子を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。
妻のサライは、考えたことでしょう!「自分はいつまで待っても、自分の子どもは生まれない。私も75歳になった。自分よりも若くて、体も丈夫な女奴隷のハガルなら間違いなく、アブラハムの子を産むことができるだろう!サライは、夫のアブラハムに言います「自分も長年祈って待っているのに、子どもが生まれない。あなたもご存知でしょう。私に子がうまれないのは、きっと主のみこころなのです。主がアブラハムに子ども与えると約束したけれども、それは私ではないのだ。」サライは、別の道こそ、主のみこころなのだ。
そう考えて、奴隷のハガルを夫に与え、ハガルによって、子どもの母になることが主のご計画なのだと考えたのです。当時行われていた風習で、奴隷女が子どもを産んだ時は、その子は主人の子とされるのです。このような事は別に罪とは考えられていなかったそうです。
さて、サライは、自分は不妊の女だというということに心を奪われて、常識に従って女奴隷ハガルを夫に与えて子どもを得ようとしました。
しかし、主は、一部は主を信じるが、一部は常識に頼るというような中途半端な姿勢を、喜ばれません。
アブラハムは、妻サライの自己犠牲的な申し出に感動して受け入れたのかもしれません。人間の美しい行為は人の判断を誤らせます。アブラハムは、何とか子どもがほしいというサライの気持ちも無視できない。主は「あなた自身から生まれ出てくる者」と言われたが、サライから生まれる子とは言われなかった。だから主のみこころに反することにならないのではない。
私たちクリスチャンは、神の御言葉を全く無視して行動するはできない。そんなことをすれば、主の祝福を受けられない事を知っています。しかし、自分の現実を見ると、神の御言葉がそのままの形で実現するとは考えられない。そこで神の御言葉と自分の現実とを何とか結び付けようとして、妥協案を考え出します。
●神の時を待つことができない短気な人は、神のみこころは、自分の手腕や活動によると思い違いをします。しかし、それは決して「神のみこころが非常識なのではなく、神のみこころは、超常識なのです。」
地上に属する私たち有限で、ちっぽけな人間の常識を越えているにすぎないのです。
 私たちが信仰に立つということは、非常識になることではありません。時々、社会生活でのルールやマナー、常識をわきまえないで、非常識がことを平気で行う人がいます。クリスチャンは、常識をわきまえぬ非常識な人間になってはいけません。でも、信仰の世界は、理性や常識を越えた、超常識の世界です。
サライは、主の約束が、あまりにも現実や常識とかけはなれているために、主の約束が不履行になるのを恐れ、人間的な小細工をしてしまいました。 
「不信仰の心は、主ご自身以外の、何かに頼ろうとします。」
不信仰の目は、曇ってしまい。目的のためには手段を選ばないという愚かなことを、あえて実行してしまうのです。サライは、自分は不妊なので、女奴隷を夫に与えて子を得ようとしました。アブラハムも人間の常識と分別によって、それを受け入れてしまいました。愛する皆さん、「信仰は、非常識ではなく、超常識なのです」アーメンですか?
3.  アブラハムの 「不信仰の結果」 (創世記16:4~6)
16:4 彼はハガルのところに入り、彼女は身ごもった。彼女は、自分が身ごもったのを知って、自分の女主人を軽く見るようになった。
16:5 サライはアブラムに言った。「私に対するこの横暴なふるまいは、あなたの上に降りかかればよいのです。この私が自分の女奴隷をあなたの懐に与えたのに、彼女は自分が身ごもったのを知って、私を軽く見るようになりました。【主】が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」
16:6 アブラムはサライに言った。「見なさい。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女を苦しめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。
ハガルは、やがてみごもりました。その結果、ハガルは、女主人を見下げるようになりました。女性は母親になると強くなるものです。ハガルは、自分が女性として優れていると考えるようになり、誇りを持つようになり、態度が一変しました。これは罪の人間の当然の姿ですね。ハガルの要素は、私たちの内にも持っている肉の姿です。罪びとの本性です。人間は、ちょっとしたことでも誇りたいのです。それが人間の罪の実際です。ちょっと何か恵まれた経験をするとそれをすぐ自分の誇りに変えてしまうのです。
例話:「KGK全国訓練会」 KGKの主事の時代、全人格的成長のためにクリスチャン学生の全国訓練会があります。1週間の長い時間をかけて御言葉と聖霊様に取り扱われ、砕かれ、癒され、整えられていきました。参加した浦和福音自由教会の一人の男子学生は、教会に戻り、「俺が一番主に砕かれている」と砕かれた経験を誇る自分に気づき愕然としたそうです。
サライは、ハガルの横柄な態度は、アブラハムが甘やかせたからだと夫を責めます。サライの抗議を受けたアブラハムは、この問題の解決をしようとはせずに、サライに好きなようにさせました。
 その結果、サライがハガルをイジメたので、ハガルは荒野に逃げました。主は、憐れみ、天使を送り、助けて、天使はへりくだって女主人に仕えるように命じ、主の祝福を約束しました。
アブラハムへの祝福ゆえに、ハガルの子イシュマエルは、アラブ民族となり繁栄することになります。
結論: 「 信仰は、非常識ではなく、超常識の世界です。」(イザヤ55:8~11)
55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。
~主のことば~
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの
思いよりも高い。
55:10 雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を
与え、食べる人にパンを与える。
55:11 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。
それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。
今朝、私たちはアブラハムとサライ夫婦を通して信仰と不信仰の狭間で悩み葛藤する人間の姿を見てきました。人は、試練の中で、しばしば常識や理性で納得しようとします。
しかし、「神のみこころが非常識なのではなく、超常識なのです」 私たちが信仰に立つということは、
非常識になることではありません。クリスチャンは、常識をわきまえぬ非常識な人間になってはいけません。 私たちが、主の御言葉に立つ、「信仰の世界は、理性や常識を越えた、超常識の世界です。」
皆さんアーメンですか?
例話:新会堂の土地探しの証です。旧会堂は、コーヒー館の手前のラーメン屋さんを右に入った奥にありました。私が大学1年生の時、はじめて片柳教会を訪ねた時、教会がわからずに直進して畑の中に行って、教会に気づきませんでした。ですから、私は新会堂は通りに面した場所でなければならないと痛感しました。教会のビジョン「地域に開かれた、誰でも安心できる教会」という教会のビジョンと御言葉が与えられて、新会堂のための土地探しが始まりました。ここの220坪の土地が与えられるまでには、色々な土地を紹介されてはダメでした。3度目の正直といいますが、5回チャレンジして、5回道が閉ざされました。ある年次総会の席上、ある方から「滝田先生は、何度閉ざされたら、土地探しをあきらめるんですか? 私は今のこの会堂の土地に新会堂を建てるように御言葉が与えられています」とおっしゃいました。
確かに、普通5回も閉ざされたら、諦めるが常識かもしれません。
でも、私はその時私は申し上げました。「土地を求めて、5回閉ざされました。これは旧会堂の所に新会堂を立てるなさいという事ではなく、5回閉ざされたのは、主が、一番良い場所を私たちのために備えておられて、そこに私たちを導くためのプロセスだと思います。主は必ず一番良い場所を与えて下さると信じています。」とお答えしました。やがて教会の近所の不動屋さんが教会の障がい者のためのグループホームの働きに感動し、一生懸命に土地のために働いて下さり、ついに県道沿いの、この一番良い場所に220坪の土地が与えられました。主は、常識を越えた、超常識の方です。
主の約束は、時が満ちる時、必ず実現します。
ですから、聖書の神の御言葉は、人間の常識や理性、あるいは人間の現状、人間の可能性、そういう事の上に立って判断する言葉ではありません。 私たちは、どうしても、ここを取り違えてしまうのです。
自分の常識、理性や経験で判断します。しかし、聖書の神の御言葉は、どこまでも、どこまでも、信仰をもって受け入れる御言葉です。アブラハムの出来事で、それが明確にされました。私たち家族の救いや和解と回復や他の主の約束でも、主の御言葉であれば、それが何年も実現せず、10年、20年経ったとしても、主の御言葉を信じて、実現するまで待ち望み、主に従いましょう! 皆さんアーメンですか?
お祈りいたしましょう!「愛する主よ。私たちは、試練に遭うと、自分の都合や事情に合わせて、常識に従い、自分の分別によって歩もうとします。神の御言葉は、非常識なのではく、私たちの理性や考えを越えた超常識の世界でもあります。主の御言葉を信じ、主を待ち望む者とならせてください。