旧約聖書:創世記15章7~17節
今日は七夕ですね。星空を見上げたアブラハムは、子ども与えられず、将来への不安と恐れの中にいました。現代でも、お子さんが生まれない不妊で悩み苦しんでおられる夫婦がたくさんおられます。ましてや4千年前は、一族の命運が懸っていました。そんなアブラハムに、主は、やがて、あの星のように、あなたの身から出る子孫は多くなると告げられました。アブラハムは、主の御言葉を信じました。現実の自分の状態は全く不可能、そんな全然考えられない状態でした。けれども、自分の置かれた現実から神の御言葉の確かさを求めるのはなく、神の御言葉に立って、現実を受け入れました。主の約束の御言葉を信じて、天を見上げて「アーメン!」と応答し、主はその信仰を義と認められました。その保障ととして、主はアブラハムと契約を結ばれました。契約の祝福の御言葉を受けましょう。
1.アブラアムへの「主の自己紹介」 ( 創世記 15:7)
15:7 主は彼に言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出した【主】である。」
主は、アブラハムに対して、「わたしは、、、主である」と自己紹介しています。
「私は、あなたをウルから導き出した主」ですとおっしゃっています。アブラハムは、主の召しによって、偶像の町ウルから導き出されて、主の恵みと憐れみ、そして忍耐の中、導かれてきた過去の日々を思い出したことでしょう!主はいつもアブラハムと共におられ、常にアブラハムを支え導かれたお方です。
このように私たちの主は、私たち個人の生涯の中に、また家族の営みの中に、教会の歩みの中に、国々の歴史の中に生きて働いておられるお方です。私たちが個人の生涯の歩みを振り返って、顧みる時、そこに確かに働かれた主の御業を見ることができるのではないでしょうか?
また、私たちお互いの家族の歴史を振り返る時に、そこに主の御業をおぼえることができるのではないでしょうか。教会の歴史、私たちの教会も2022年に創立50周年を迎えます。この50年の歴史の中に確かな主の御業を見ることができます。全て主が働かれた主の御業を発見して、主の御名を崇めることができます。主が私たちひとりひとりになしてくださった数々の御業を覚え、主の御名を心から賛美しましょう!皆さんアーメンですか?
神の御言葉は、いつも具体的です。あなたに子孫を与える。その子孫が住むべき土地も与えるという約束を与えられました。まずは、信じて踏み出す。その時に、確かに踏み出す場所がそこにあるのです。そして次に信じて踏み出す。そして道が具体的に開かれていくのです。これが信仰の歩みです。私たちも信じで、一歩踏み出しましょう。信じて踏み出すならば、道は開かれるのです。皆さんアーメンですか?
2.アブラハムと「主は契約を結ぶ」 (創世記15:8~10)
15:8 アブラムは言った。「【神】、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。」
15:9 すると主は彼に言われた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」
15:10 彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし、鳥は切り裂かなかった。
アブラハムは、この時点では、まだ1坪の土地さえも、手に入れていなかったのです。そこでアブラハムは、「主よ、私がそれを所有することが、何によってわかるのでしょうか?」と主の約束の確証を求めました。それで、主は、アブラハムと具体的に契約を結ばれたのです。
当時、古代オリエント社会の契約は、このような契約を結びました。契約という概念は日本人には弱い所です。契約は、動物を真二つに切り裂き、両側に向かい合わせに置いて、その間を契約した者同士が歩いて、契約が成立します。もし、契約を破ったならば、この2つに裂かれた動物のように自分たちもなっても構わないと約束したのです。 現代の私たちにとっては不思議な感じがしますね。
でも日本でも子どもの童歌にもありますね。「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます♪指きった♪」しかし、当時、厳粛な固い約束・契約はこうして結ばれました。
(エレミヤ書34章18節)「 わたしの前で結んだ契約のことばを守らず、わたしの契約を破った者たちを、彼らが二つに断ち切ってその二つの間を通った、あの子牛のようにする。」
もし、約束を破ったら自分は二つに切り裂かれた動物のようになってもよい、呪いを受けてもよいという意味でした。
創世記 15:17 日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。
煙の立つかまどと燃えているたいまつとは、神のご臨在の象徴です。出エジプト記で、モーセに導かれ荒野を40年旅した時、主は昼は雲の柱、夜は火の柱の臨在をもってイスラエルの民を守り、導かれました。その煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、その切り裂かれたものの間を通り過ぎました。切り裂かれた動物の間を通ったのは、主おひとりでした。不思議です。
本当なら契約の当事者であるアブラハムも、通らなければならないのに、主おひとりだけが通りました。これは主の一方的な契約です。主が約束を破るとは考えられません。必ずや約束違反、つまり罪を犯すのは私たち人間です。主は私たち人間のために、主ご自身が裂かれた動物のように呪われてもよいと、へりくだり、契約を結ばれたのです。これは一方的な神の恵みの契約です。1から10まですべては主が成されるのです。どこまでも主の一方的な恵みの契約です。私たち人間の側には、何も行いは求められていません。私たちは、どこまでも、ただ信じて、受けるだけです。アブラハムも私たちも、この一方的な恵みによって救われ、神の愛に守られています。これは主イエス様の十字架の出来事を示しています。
父なる神様は、十字架の御子イエス様の体を、引き裂かれた。あの十字架において私たちの救いのために契約を成就してくださいました。私たちに求められているのは、ただ信じるだけです。アブラハムがただ信じて、義と認められたように、私も、あなたもただ、イエス様の十字架の死と復活により、実現した罪の赦しと永遠の命の救いをただ信じ、受け入れるだけです。あなたのための救いの契約は、2000年前のイエス様の十字架の出来事です。それをただ受けるだけです。素直に信じ、受け入れるだけです。
愛する皆さん、この神の契約、イエス様の十字架によってあなたの罪は赦され、永遠の命が与えられました。皆さん、アーメンですか?
3.アブラハムの 「魂の暗黒と救い」 (創世記15:12)
15:12 日が沈みかけたころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして、見よ、大いなる暗闇の恐怖が彼を襲った。
それから、アブラハムは、契約の直後、大きな恐ろしい暗闇を経験します。やがてイスラエルの民は、エジプトで400年間奴隷となり、苦しみ、やがて4代目にモーセに導かれ、カナンの地に帰ることをあらかじめ幻で啓示されました。
私たちも、主の救いの恵みを受けようとする時、信仰の道を歩もうとする時には、大なり小なり、必ずこのような経験をします。私たちの暗闇の恐怖って何でしょうか? それは罪の経験です。孤独の経験です。罪の経験は、私たちを孤独にします。神の御言葉と聖霊様に、あなたが触れ始めると、今まで、気づくこともなかった自分の罪があらわされて参ります。絶対的な聖い聖なる主の御前に、ひとり立たされて、自分の罪深さを知らされて、自分の魂の闇・暗黒、痛み、惨めさ、弱さ、悲しみときよめを経験します。あなたと神との間には、誰も、立ち入ることは出来ません。親だって、夫だって、妻も、子どもも、兄弟も、恋人も、誰一人立ち入ることはできません。主と私一人だけです
聖なる神の御前には、全くひとりです。これは恐ろしい霊的な暗黒の経験です。
ローマ人への手紙7章
7:18 私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。
7:19 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。
7:20 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。
7:24 私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
この暗黒の体験を通して、私たちはハッキリと神の救いの恵みが示されます。主があなたに与えられた新しい契約は、動物によるのではなく、神の独り子イエス様が十字架の上で、あなたの罪を全部背負われて、あなたの罪の身代わりにご自身の体を裂かれ、一方的に結んでくださった救いの契約です。
アブラハムの契約は、イエス様の十字架の救いの契約のひな型です。
あなたが信仰を持ってイエス様を信じ、受け入れる時、あなたは、罪から完全に救われ、新しい永遠の命が与えられて、神の御国・天国を受け継ぐのです。天下にイエスさまの御名以外に救いはありません。心を開いてイエス様をお迎えし、イエス様を信じましょう!皆さんアーメンですか?
結論:「イエス様の救いの恵みに留まり、教会生活を守る」
(創世記15:11) 15:11 猛禽(もうきん)がそれらの死体の上に降りて来た。アブラムはそれらを追い払った。
主がアブラハムと契約を結ばれた直後、猛禽が、契約の肉を奪い取に、降りて来ました。
そこでアブラハムは、これを追い払いました。私たち人間の側がすべきことが書かれています。
主の素晴らしい救いの契約、恵みの救いを悪魔に奪われないように守ることです。この荒々しい猛禽の鳥は、悪魔を表しています。主の一方的な恵みを無効にしようとする悪魔の働きです。私たち人間は、ただ信じて、この契約を守る。それに尽きます。悪魔は、様々な惑わしの言葉をもって、あなたの信仰を邪魔して、惑わしと誘惑をしてきます。悪魔は、あの手この手を使って、あなたを聖書を読むこと、祈ること、礼拝、教会生活をやめさせようとやってきます。日曜日、疲れていて眠いのに、わざわざ教会に行かなくても、家で聖書を読み、祈れば十分、みんなショッピングに行って楽しんでいる、あなたも遊んで楽しめば、お友達は塾や部活で頑張っている、教会なんかに行っていて受験大丈夫? 悪魔は、あなたをイエス様から離れさせようとします。アブラハムが、これを一日中追い払ったように、私たちも、どんな悪魔の手立てに対しても、どんな誘惑や惑わしにも、ただただ御言葉を信じ、主を信じ、教会生活を守るのです。
「礼拝を守る」といいますが。本当は、逆です。「礼拝によって、私たちが守られているのです」
先週、教会の墓地の補修工事の見積もりで、茨城に上野美装会社・社長:上野修三兄が教会に来られました。大変良心的な仕事と誠実な方でした。兄弟団の教会のメンバードそうです。お母様がクリスチャンで幼い日より教会生活を送っていたそうですが、社会に出て、塗装の職人の世界で、好き勝手に生活し、教会なんて行かなくても大丈夫とかかを食って離れてしまい、やがてお酒におぼれ、離婚し、家庭が崩壊したそうです。打ち砕かれていましたので、そんな時に牧師となっていた兄さんの教会の工事をお願いされて、「そうだ教会に帰ろう!」と素直に、立ち返ったそうです。それ以降、すべて信仰に立ち、教会生活を中心に、仕事も、人生も、再建して、再婚して結婚してお子様も与えられ、会社は日曜はお休みとはっきりと打ち出してとても祝福されているそうです。自分の教会の礼拝を何よりも大切にして、お年寄りの送迎の奉仕をしているとおしゃっていました。
Ⅰテモテ3:15 「神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです。」
使徒パウロは、「教会は、真理の柱と土台である」と宣言しました。あなたの人生を堅固で立派なに建て上げる秘訣は、教会生活です。教会生活が、あなたの人生という家の柱となり土台となるからです。
イエス様の救いの恵みに留まり、教会生活を守りましょう!皆さん、アーメンですか?
お祈りいたしましょう!「父なる神様、御子イエス様、聖霊様、御名を心から賛美します。私たちは、自分の真の姿を知らず、主の栄光を汚し、主に罪を犯して、主を悲しませる、自己中心で、身勝手で、彷徨う、弱い者です。そんな私たちのために、アブラハムと契約を結ばれたように、御子イエス様の十字架により、一方的に愛してくださり、主の救いの恵みに招き入れられたことに感謝します。私たちの魂の暗闇の部分に聖霊様の光を射して頂き、主と真正面から向き合い、気づきが与えられて、自分の罪を悔い改め、罪の赦しと癒しを受け、魂の慰めを得させてください。この素晴らしい主の救いの恵みを、教会生活を守ることで、主の祝福を家族や友にもたらす者とならせてください。主イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン」